事実と価値を分ける――「である」と「べき」の問い — Epoché
基礎 総説 約 26 分 本文 約 11,500 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 区別・橋渡し・使い方の 3 つ 区別 事実の文と価値の文は、正しさを確かめる方法が違う 橋渡し 事実の前提だけから「べき」は出ない。隠れた価値の前提を表に出す 使い方 研究は価値を消すのでなく、事実の認識と区別して立場を明示する はじめに ニュースのあとの会話を想像してください。ある市で、市議会議員の選挙の投票率が前回より下がったと報じられました。それを見た一人が「若い人が政治に関心をもたないのは問題だ。投票を義務にすべきだ」と言います。もう一人は「投票に行かないのも一つの意思表示だ。義務にするべきではない」と返します。二人は言い争っているように見えますが、いったい何について意見が分かれているのでしょうか。 よく見ると、この会話には種類の違う文が混ざっています。「投票率が前回より下がった」は、選挙の記録を調べれば正しいか誤りかが分かる文です。「若い人が関心をもたない」も、調査で確かめられる事実の主張です。本当に若い人が投票率を下げたのかは、年代ごとの数を見なければ分かりません。これに対して「問題だ」「義務にすべきだ」は、何が望ましいかについての判断です。統計をいくら集めても、それだけでは決着しません。 この課程の「政治とは何か」の課では、政治を、食い違う人々の対立を共同の決定に変える営みとして捉えました。「政治学の見取り図」の課では、思想・制度・行動・国際という四つの窓を見ました。どの窓から政治を見るときにも使い続ける道具があります。事実の問い(〜である)と価値の問い(〜すべきだ)を分けることです。 この課では、18 世紀の哲学者ヒュームと、20 世紀初めの社会学者ウェーバーの考えを手がかりにします。考えるのは四つの問いです。二つの問いはどう違うのでしょうか。事実から「べき」へ移るときに何が起きているのでしょうか。研究者は価値とどう付き合えばよいのでしょうか。そして、二つは本当に分けきれるのでしょうか。この四つを順に考えたあと、最後にヒュームの原文を自分で読みます。 この課の問い 政治の議論で「〜である」という事実の主張と「〜すべきだ」という価値の主張は、どう違い、どこでつながるのでしょうか。政治学はこの二つをどう扱うのでしょうか。 この課のことば 事実の文(記述) 世界がどうなっているかを述べる文です。「選挙権は満 18 歳から」のように、条文・記録・統計で正しいか誤りかを確かめます。 価値の文(規範) 世界がどうあるべきか、何が良いかを述べる文です。「投票を義務にすべきだ」のように、原則と理由を比べて吟味します。 ヒュームの法則 事実を述べる前提だけからは「べき」の結論を論理的に導けない、という命題です。ヒュームの一節をもとに、後の哲学者がこう呼びました。 隠れた前提 議論の中で口に出されないまま、結論を支えている前提です。政治の議論では、価値の前提が隠れていることがよくあります。 価値自由 ウェーバーの語です。研究の中で事実の認識と価値の判断を区別し、自分の価値の立場をはっきり示す態度を言います。価値を持たないという意味ではありません。 「である」と「べき」――政治の議論を二つの問いに分ける この章では、まず二種類の文を見分けます(第 1 節)。次に、事実から「べき」へ移るときの落とし穴を、ヒュームの指摘から学びます(第 2 節)。続いて、研究者が価値とどう付き合うかをウェーバーから考えます(第 3 節)。最後に、事実と価値は分けきれないという批判を検討し、この課程での使い方を確かめます(第 4 節)。 二種類の文――事実を述べる文と、あるべき姿を述べる文 政治について語る文は、大きく二つに分けられます。一つは、世界がどうなっているかを述べる文です。「選挙権は満 18 歳以上の日本国民にある」「この市の投票率は前回より下がった」のような文で、本教材では事実の文(記述の文)と呼びます。もう一つは、世界がどうあるべきか、何が良いかを述べる文です。「国会議員の数を減らすべきだ」「投票は市民の義務だ」のような文で、価値の文(規範の文)と呼びます。この二つを分けて考えることは、哲学で長く論じられてきた基本の区別です。この課ではそれを、政治の議論を整理する道具として使います(本教材の整理) (図 1) 。 事実の文(である) 価値の文(べき) 例:選挙権は 満18歳から 例:16歳に 下げるべきだ 条文・記録・統計で 確かめる 原則と理由を比べて 吟味する 資料と食い違えば 誤り 理由の弱さや矛盾を 問われる 図 1 事実の文と価値の文の違い(本教材の整理)。二つの列の同じ行が、例・確かめ方・誤りの問われ方を比べています。 二つの文の違いは、正しさの確かめ方にあります。事実の文は、観察・記録・統計で確かめます。投票率が下がったかどうかは、選挙管理委員会が発表する数を前回と比べれば分かります。価値の文は、そうはいきません。「投票は義務にすべきだ」に賛成か反対かは、投票率の数をいくら精密にしても決まりません。決め手になるのは、自由・平等・共同体への責任といった原則と、それを支える理由を比べる作業です。 確かめ方が違えば、対立したときの話し合いの進め方も変わります。事実をめぐる対立なら、どの資料を見ればよいかを決めれば、決着に近づけます。前回の投票率を覚え違えていたなら、記録を開けば済みます。価値をめぐる対立では、資料を開いても決着しません。互いがどの原則を重く見ているかを言葉にすることが出発点になります。投票の義務化なら、一方は共同体への責任を、もう一方は投票しない自由を、重く見ているのかもしれません。 日本の例で確かめましょう。公職選挙法 9 条 1 項は「日本国民で年齢満十八年以上の者は、衆議院議員及び参議院議員の選挙権を有する」と定めています [6] 。この年齢は、2015 年の法改正(平成 27 年法律第 43 号)で満 20 歳から引き下げられ、2016 年に施行されました [6] 。条文そのものは「〜を有する」という決まりですが、「法律がそう定めている」ことは、条文と法律の記録を読めば確かめられる事実です。これに対して「選挙権は 16 歳から与えるべきだ」や「18 歳のままでよい」は価値の文です。法律が今どうなっているかを知っても、法律がどうあるべきかは、それだけでは決まりません。 実際の議論では、一つの発言に二種類の文が混ざります。とくに注意したいのは、「不公平だ」「無駄だ」のような評価の語です。「この制度は不公平だ」は、事実を述べているように聞こえます。しかし、何を公平とみなすかという基準を含んでいます。表 1 のように、文ごとに種類と確かめ方を書き出してみましょう。どこで事実の争いが終わり、どこから価値の争いが始まるかが見えてきます (表 1) 。 この表で分かること: 同じ選挙の話題でも、文の種類によって確かめ方が変わる 文 種類 確かめ方 選挙権は満18歳から 事実(法の定め) 条文を読む 市の投票率が前回より下がった 事実(数) 選挙の記録と比べる 投票を義務にすべきだ 価値 原則と理由を比べる この制度は不公平だ 評価(価値を含む) 何の基準かを問う 表 1 文の種類と確かめ方(本教材の作例)。最後の行は事実のように聞こえますが、公平の基準という価値を含みます。 この仕分けは、相手を言い負かすための技ではありません。事実の争いに見えて実は価値の争いだった、あるいはその逆だった、と気づくための道具です。そう気づけば、確かめようのない所で言い合いを続けたり、調べれば済む所で原則を戦わせたりする空回りを避けられます。 ここで間違えやすい 「事実の文=正しい文」と考えるのは誤りです。「投票率は前回より上がった」という文は、記録と食い違えば、誤った事実の文です。逆に、価値の文が「ただの好み」で、吟味できないわけでもありません。理由の強さや原則どうしの矛盾は問えます。二つの違いは、正しいかどうかではなく、何で確かめるかにあります。 ヒュームの指摘――「である」から「べき」へは黙って移れない 事実の文から価値の文へは、どうすれば移れるのでしょうか。この問いを鋭く示したのが、スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒューム(1711–1776)です [7] 。ヒュームは『人間本性論』の第 3 巻(1740 年刊)で、道徳の区別は理性だけからは出てこないと論じました [1] [7] 。そして、その議論の節を締めくくるところに、一つの所見を添えました [2] 。 ヒュームによると、これまでの道徳の体系の著者は、しばらくは通常の推論の仕方で進みます。神の存在を立証したり、人間の事柄について観察を述べたりします。その間、命題は「である」「でない」で結ばれています。ところがいつの間にか、「べきである」「べきでない」で結ばれた命題ばかりになっています。ヒュームは、この「べき」は新しい関係を表すので、その移りを説明し、まったく異なる関係からどうして導けるのか理由を示す必要があると述べました [2] 。原文は、この課の「資料で確かめる」で読みます。 この短い段落は、後に大きな論争を呼びました [1] 。20 世紀に有力になった読み方では、ヒュームはここで「事実だけを述べる前提からは、どんな評価の結論も論理的に導けない」と述べたことになります。ヘアをはじめとする現代の哲学者は、この命題を支持し、「ヒュームの法則」と呼びました [1] 。他方で、別の読み方もあります。ヒュームが言いたかったのは、理性の推論だけでは善悪の区別を最初に見つけられず、是認や否認の感情の働きが要る、という点だというのです。この読み方では、ひとたび道徳の概念を持った人が、性格や行為がもたらす結果についての事実から、個々の道徳の結論を推すことは妨げられません。実際、ヒューム自身もそうした推論をしばしば行っている、と指摘されています [1] 。 似た名前の議論に、イギリスの哲学者ムーアが『倫理学原理』(1903 年)で名づけた「自然主義的誤謬」があります [5] 。これは、「善い」を「快い」のような別の性質で定義しようとする誤りを指す語です。ヒュームの段落とは別の論点ですが、混同されやすいので注意しましょう。本教材では、ヒュームの論点を「である」から「べき」への移りの問題として扱います。 では、政治の議論でこの指摘はどう役立つのでしょうか。本教材の作例で考えます。「選挙権年齢を下げると、若い人の投票が増える。だから下げるべきだ」という議論があるとします。前半は予測、つまり事実の文です。当たるかどうかは、調べて確かめる必要があります。後半は価値の文です。前半から後半へ移るには、少なくとも「若い人の声がより多く政治に届くことは望ましい」という価値の前提が要ります。この前提は口に出されないことが多いので、本教材では隠れた前提と呼びます。ただし、予測と価値の前提を並べても、言えるのは「引き下げを支持する一つの理由がある」までです (図 2) 。「下げるべきだ」と言い切るには、さらに、ほかの価値(判断の成熟など)や費用、別の手段(投票の呼びかけなど)と比べて、この理由が勝るという前提が要ります。 議論 選挙権年齢を引き下げるべきか 事実の前提 引き下げると若い 人の投票が増える (予測) 価値の前提 若い人の声が政治に 届くことは望ましい 言えること 引き下げを支持する一つの理由に なる 図 2 「べき」の議論を支える二つの前提(本教材の作例)。事実の前提と価値の前提は並んで働き、どちらか一方からもう一方が出てくるわけではありません。二つがそろっても、言えるのは引き下げを支持する一つの理由までです。 隠れた前提を表に出すと、議論の争点がはっきりします。反対する人は、前半の予測を疑うかもしれません。下げても投票は増えないかもしれない、という反論です。あるいは予測は認めたうえで、価値の前提を疑うかもしれません。投票する人の数より、判断の成熟を重く見る、という反論です。前者は事実の争い、後者は価値の争いで、確かめ方が違います。ヒュームの所見は、議論のどこで価値が入り込んだかを見つける目印になるのです。たとえて言えば、「である」の岸から「べき」の岸へは、価値の前提という板を渡さなければ届きません (図 3) 。 価値の前提 である べき 事実の岸 (記述の文) あるべき姿の岸 (規範の文) 事実だけでは谷を渡れない 図 3 「である」の岸と「べき」の岸(本教材のたとえ)。事実の岸から「べき」の岸へ渡るには、少なくとも価値の前提という板が要ります。 逆向きの取り違えにも注意が要ります。「人は平等に扱われるべきだから、能力に生まれつきの差はない」のように、「べき」から「である」を導く推論です。平等に扱うべきかどうかと、差があるかどうかは別の問いです。望ましくない事実を認めることは、それを良しとすることとは違います。逆に、望ましいと思う主張を守るために事実を曲げる必要もありません(本教材の整理)。 ここで間違えやすい ヒュームは「道徳について語るな」とも「『べき』は無意味だ」とも言っていません。求めたのは、移りに気づき、その理由を示すことです。また、この段落の読み方は今も分かれています。「ヒュームの法則」はヒューム本人の語ではなく、後の哲学者がつけた呼び名です [1] 。 ウェーバーの「価値自由」――学問は手段を調べ、目的は選ぶ人に返す 事実と価値の区別を、社会科学の研究の作法として論じたのが、ドイツの社会学者マックス・ウェーバー(1864–1920)です [3] 。ウェーバーは 1904 年の論文で、経験的な知識と価値判断を区別する能力を求めました。あわせて、事実の真理を見る学問上の義務と、自分の理想のために立つ実践上の義務を、ともに掲げました [3] 。この論文は、日本では『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』の題で訳されています。こうした態度は「価値自由」と呼ばれます。 価値自由は、研究者が価値を持たないことではありません。SEP の項目の解釈によれば、ウェーバーは、研究者が無数の出来事の中から何を主題に選ぶかという段階で、すでにその人の価値判断が働くと考えていました [3] 。どの国の、どの制度の、どんな問題を調べるかは、何を大切と思