8.165 善悪の彼岸 序 — 論を立てず、比喩で押し切る — Epoché
この篇でできるようになること ★ 仮定から始める 書き出しが読める。 ★ 相手をひとまとめに名づける 手が見える。 ★ けなしてから感謝する 形が読める。 ★ 証拠の出ない文章 の読み方が決められる。 前提 : 8.164 まで。型は 3.48 まで。 読む前に ★ 先に、はっきり言っておきます。 ★ この篇には、 証拠がありません 。 ★ 探しても、出てきません。 ここまでの篇 この篇 ★ 前提 → 段 → 結論 ★ 仮定 → 比喩 → 断言 ★ 反論を立てて答える ★ 相手をまとめて名づける ★ どこを折れば崩れるか探せる ★ 折る段が無い ★ だから、 ここまでの読み方は効きません 。 ★ 8.146 読編 で「どの段を折ると全部崩れるか探す」と置きました。 ★ この篇には、段がありません。 ★ では、どう読むか。 ★ 8.114 読編 のエマソンと同じ です——★ 止まらずに読んで、 一文だけ拾う 。 ★ そして、 拾った一文を自分で確かめる ことになります。 ★ この篇は、 読む人に仕事を渡す文章 です。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1397 語、文は 56 本、一文の平均は 24.9 語、いちばん長い一文は 123 語です。 ★ ダッシュが 24 個 あります。★ 3.45 型編 で「一段落に一つまで」と置きました。 ★ この篇は、 それを完全に破って います。 ★ 破っているのが、この篇の調子 です。★ ダッシュは 割り込みの記号 でした。 ★ 割り込み続ける文章 ——★ つまり、 考えが次々に足されていく のです。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 真理が女であると仮定したら——どうでしょう。すべての哲学者は、独断論者であったかぎりにおいて、女というものを理解しそこねてきたのではないか、と疑う理由はないでしょうか。彼らがこれまでたいてい真理に言い寄るときに見せてきた、あの恐ろしいほどの生真面目さと、ぎこちないしつこさは、女を手に入れるには下手で、みっともないやり方だったのではないでしょうか。確かに、彼女は一度も自分を手に入れさせたことがありません。そして今では、あらゆる種類の独断が、悲しげな、しょげかえった様子で立っています—— もし 、そもそもまだ立っているとすればですが! というのも、独断はもう倒れてしまった、あらゆる独断は地に伏している——それどころか、虫の息だ、と言い張る冷笑家たちがいるからです。けれども、まじめに言えば、哲学におけるあらゆる独断化は、それがどれほど厳かな、どれほど決定的で断固とした風を装ってきたにせよ、気高い子どもじみた態度、初心者のふるまいにすぎなかったのかもしれない、と望むだけの十分な理由があります。そして、独断論者たちがこれまで築き上げてきたような、あの堂々とした、絶対的な哲学の建物の土台として、実際に 何が 足りていたのかが、もう一度、そして何度でも理解される時が、おそらく近づいています。もしかすると、太古からの何かの民間の迷信(たとえば魂の迷信です。それは主観の迷信、自我の迷信という形で、今もなお害をなすのをやめていません)かもしれません。もしかすると、何かの言葉遊び、文法による欺き、あるいは、ごく限られた、ごく個人的な、ごく人間的な——人間的な、あまりに人間的な事実の、大胆な一般化かもしれません。独断論者たちの哲学は、願わくは、何千年も先のための約束にすぎなかったのでしょう。もっと前の時代の占星術がそうであったように。占星術に仕えるために、おそらくは、これまでのどの本物の学問よりも多くの労力と、金と、鋭さと、忍耐が費やされてきました。私たちは、占星術と、そのアジアやエジプトでの「天上の」もくろみのおかげで、壮大な様式の建築を得たのです。大きなものはみな、永遠の要求をもって人類の心に自分を刻みつけるために、まず巨大で畏れを起こさせる戯画として地上をさまよわなければならないようです。独断の哲学は、この種の戯画でした——たとえば、アジアのヴェーダーンタの教え、ヨーロッパのプラトン主義です。それに恩知らずにならないようにしましょう。とはいえ、これまでで最悪の、最も退屈な、最も危険な誤りが、独断論者の誤りだったことは、確かに認めなければなりません——すなわち、プラトンによる純粋な霊と、それ自体としての善の発明です。けれども今、それが乗りこえられ、ヨーロッパがこの悪夢から解き放たれて、ふたたび自由に息をし、少なくともより健やかな——眠りを楽しむことができる今、 務めが目ざめていることそのものである 私たちは、この誤りとの闘いが育ててきたあらゆる力の相続人なのです。プラトンが語ったように霊と善を語ることは、真理をまさにひっくり返すことであり、生の根本の条件である 遠近法 を否定することでした。実際、医者として、こう問うこともできるでしょう。「古代のいちばんみごとな産物であるプラトンに、どうしてそのような病が取りついたのか。あの邪悪なソクラテスが、本当に彼を堕落させたのか。ソクラテスは、結局のところ若者を堕落させる者であって、毒にんじんを飲まされて当然だったのか」と。しかし、プラトンとの闘いは、あるいは——もっとはっきり、「民衆」向けに言えば——何千年にわたるキリスト教の教会による抑圧との闘いは( というのも、キリスト教は「民衆」のためのプラトン主義だからです )、ヨーロッパに、それまでどこにも無かったような、魂の壮大な張りつめを生み出しました。これほど張りつめた弓があれば、今ではいちばん遠い的をねらうことができます。実のところ、ヨーロッパ人はこの張りつめを苦境として感じています。そして、この弓をゆるめようとする試みが、壮大な様式で二度なされました。一度目はイエズス会のやり方によって、二度目は民主主義的な啓蒙によってです——それは、出版の自由と新聞を読むことの助けを借りて、実際に、精神がそうたやすく自分を「苦境」にあると感じないようにしてしまうかもしれません!(ドイツ人は火薬を発明しました——彼らの手柄です! けれども彼らはまた帳尻を合わせました——印刷術を発明したのです。)しかし、イエズス会士でも、民主主義者でもなく、十分にドイツ人ですらない私たち、私たち 良きヨーロッパ人 、自由な、 とても 自由な精神である私たちは——私たちはまだそれを持っています。精神のあらゆる苦境と、その弓のあらゆる張りつめを! そしておそらくは、矢と、務めと、そして、誰が知るでしょう、 ねらうべき的 も……。 シルス・マリーア、オーバーエンガディン、一八八五年六月。 第一章 哲学者たちの先入見 一 真理への意志。それは私たちを多くの冒険へと誘うものであり、すべての哲学者がこれまで敬意をこめて語ってきた、あの名高い「真実を語ること」です。この真理への意志は、どんな問いを私たちの前に置いてきたことでしょう! なんと奇妙な、厄介な、いかがわしい問いでしょう! それはもう長い話です。それでいて、ほとんど始まってもいないように思えます。私たちがついに疑い深くなり、忍耐を失い、いらだって背を向けたとしても、何の不思議があるでしょうか。このスフィンクスが、ついには私たちにも自分で問うことを教えたとしても? ここで私たちに問いを投げかけているのは、本当のところ 誰 なのでしょう。私たちの中にあるこの「真理への意志」とは、本当のところ 何 なのでしょう。実際、私たちはこの意志の起源という問いの前で長く立ち止まりました——そしてついに、さらに根本的な問いの前で、完全に立ちすくんでしまいました。私たちは、この意志の 価値 について問うたのです。私たちが真理を欲していると認めましょう。それなら、 なぜむしろ 真ならざるものを欲しないのか。不確かさを欲しないのか。無知をさえ欲しないのか。真理の価値という問題が、私たちの前に現れました——それとも、問題の前に現れたのは私たちの方だったのでしょうか。ここでは私たちのうちの誰がオイディプスなのでしょう。誰がスフィンクスなのでしょう。どうやらここは、問いと疑問符の待ち合わせの場所のようです。そして、こう信じられるでしょうか。この問題がこれまで一度も持ち出されたことがなく、私たちが初めてそれに気づき、それを目にとめ、それを あえて持ち出す 者であるかのように、ついに私たちには思えるのだ、と。というのも、それを持ち出すことには危険があるからです。おそらく、これより大きな危険は無いでしょう。 二 「 どうして 、あるものがその反対のものから生まれることが ありえよう か。たとえば、真理が誤りから? あるいは、真理への意志が欺きへの意志から? あるいは、気前のよい行いが利己心から? あるいは、賢者の純粋な、太陽のように明るい眼差しが貪欲から? そのような生成はありえない。それを夢見る者は愚か者であり、いや、愚か者より悪い。最も高い価値を持つものには、別の起源が、 それら自身の 起源があるにちがいない——このうつろいやすい、誘惑に満ちた、惑わしの、つまらない世界、この迷妄と欲望の混乱のなかに、その源がありうるはずはない。そうではなく、存在のふところに、うつろわないものに、隠れた神に、『物自体』に—— そこに こそ、その源があるにちがいない。ほかのどこでもない!」——このような推論の仕方は、あらゆる時代の形而上学者たちを見分けることのできる、典型的な先入見をあらわにしています。この価値づけの仕方は、彼らのあらゆる論理の手続きの背後にあるのです。彼らはこの自分たちの「信仰」によって、自分たちの「知識」のために、最後には厳かに「真理」と名づけられる何かのために骨を折るのです。形而上学者たちの根本の信仰は、 価値の対立への信仰 です。彼らのうちでいちばん用心深い者でさえ、まさにこの入口で(疑うことがいちばん必要だったはずの場所で)疑ってみることを、思いつきもしませんでした。「 すべてを疑うべし 」( DE OMNIBUS DUBITANDUM )という厳かな誓いを立てていたにもかかわらず、です。というのも、第一に、そもそも対立というものが存在するのかどうか、そして第二に、形而上学者たちが封印を押してきた、世間一般の価値づけや価値の対立は、ひょっとすると、ただ表面的な見積もり、ただ一時の遠近法にすぎないのではないか、と疑うことができるからです。そのうえ、おそらくはどこかの片隅から、ひょっとすると下から見たものでもあるでしょう——画家たちのあいだで通っている言い方を借りれば、いわば「蛙の遠近法」です。真なるもの、誠実なもの、無私なものにどれほどの価値が属しているにせよ、見せかけや、迷妄への意志や、利己心や、欲望の方に、生一般にとってより高い、より根本的な価値が認められるべきだ、ということもありうるかもしれません。さらには、あの善い、尊ばれているものの価値を成り立たせている もの が、まさに、それらがこの悪い、見かけの上では反対のものと、ひそかに結びつき、結ばれ、編みこまれていることにある——ひょっとすると、本質においてそれらと同じものであることにある、ということさえありうるかもしれません。たぶん! けれども、誰がそんな危険な「たぶん」の数々にかかわりたいと思うでしょうか! その探究のためには、新しい種類の哲学者たちの到来を待たなければなりません。これまで行きわたってきたものとは逆の、別の好みと性向を持つ哲学者たち——あらゆる意味での、危険な「たぶん」の哲学者たちです。そして、まったくまじめに言いますが、私には、そのような新しい哲学者たちが現れはじめているのが見えます。 語釈 帯の外の語は 150 語です。★ 読 F でいちばん多い部類 ですが、★ 多くは 大文字の強調 と 固有名 です。★ puerilism (子どもじみた態度)・ tyronism (初心者であること)は、 訳者が作ったような語 です。 語(品詞) 意味 注 ANTITHESES en 名 対立するもの(複数) Asia en 名 アジア CHRISTIANITY en 名 キリスト教 Christianity en 名 キリスト教 The missionary spent his whole life explaining Christianity to distant villages. 宣教師は、遠くの村々にキリスト教を説明することに生涯を捧げました。 DE en 前 「〜について」。ラテン語の題に使う DUBITANDUM en 動 「疑うべし」。ラテン語 EUROPEANS en 名 ヨーロッパ人(複数) Egypt en 名 エジプト Engadine en 名 エンガディン。スイスの谷 Europe en 名 ヨーロッパ European en 形 ヨーロッパの The European trader brought fine cloth and spices from across the sea. そのヨーロッパの商人は、海の向こうから上質な布と香辛料を運んできました。 Germans en 名 ドイツ人 The Germans in the small town welcomed the traveling musicians warmly. その小さな町のドイツ人たちは、旅の音楽家たちを温かく迎えました。 Jesuitism en 名 イエズス会のやり方 Critics accused the lawyer of using clever Jesuitism to dodge the simple question. 批評家たちは、その弁護士が単純な質問をかわすため巧妙なイエズス会のやり方を使っていると非難しました。 Jesuits en 名 イエズス会士 The Jesuits founded a small school that later grew into a famous university. イエズス会士たちは、のちに有名な大学へと成長する小さな学校を設立しました。 Maria en 名 マリア。 Sils Maria (スイスの地名)の一部 OMNIBUS en 名 すべて。ラテン語( de omnibus =すべてについて) Oedip