キルケゴール――真理とは主体性である(実存の三段階) — Epoché
近代 生の哲学と実存思想 約 28 分 本文 約 12,000 字 図 6・表 2 原典 2 節 この課の要点 真理・選択・信仰の 3 つ 真理 生きる人にとって大事な真理は、何を知っているかでなく、それにどう関わるかにある。確かめきれないことを、情熱をもって自分のものとして握り続けること、それが実存する者にとっての最高の真理だ、と偽名の書き手クリマクスは言う(『後書き』)。 選択 楽しみを追い、人生を眺める美的な生は、底で絶望している。判事ヴィルヘルムは「あれか、これか」を突きつけ、絶望を選び、自分自身を選んで、務めを引き受ける倫理的な生へ進め、と説く(『あれか、これか』第 2 部)。 信仰 倫理を超えて神の前に一人で立つ宗教的な生がある。アブラハムは、すべてを手放しながら神を信頼し、手放したものを受け取り直す。ただし三つの生は、一本道の順番というより、互いに競う生き方である(SEP)。 はじめに セーレン・キルケゴールは、1813 年にデンマークの首都コペンハーゲンで生まれました [1] 。信心深い商人の父ミカエルの「憂鬱」は、息子に深い影を落としたと言われます [1] 。大学では神学を学び、ソクラテスのイロニー(皮肉)を論じた論文で学位を得ました [1] 。1840 年にレギーネ・オルセンと婚約しましたが、翌年に自ら破棄します。そこから数年のあいだに、『あれか、これか』をはじめとする著作が、驚くほどの速さで次々に出ます [1] 。 その多くは、偽名の書き手の名で出されました。『あれか、これか』の名の無い若者 A と判事ヴィルヘルム、『後書き』のヨハンネス・クリマクスは、それぞれが一つの生き方を体現する人物です [1] 。本人は、偽名の書き手の言葉を自分の言葉として引かないよう求めています [1] 。この課でも、誰の言葉かを毎回はっきりさせて読みます。 この編の前の課のショーペンハウアーは、世界の内側を盲目的な意志と見ました。キルケゴールが向き合う相手は、むしろヘーゲルです。全体を見渡す体系の立場からは、いま生きて選ばなければならない一人の人間が見えない、と彼は考えます。第 1 章ではその考えを「真理は主体性である」という言葉から読み、第 2 章では、人の生き方を美的・倫理的・宗教的の三つに描き分ける考えを読みます。 この課の問い ヘーゲルは、世界を一つの体系として捉えようとしました。けれども、どれほど正しい体系を知っていても、それで「私はどう生きるか」は決まるのでしょうか。確かめきれないことに生き方を賭けるとき、人は何を頼りに選べばよいのでしょうか。 この課のことば 実存 いま生きていて、自分の生き方を選ばなければならない一人の人間のあり方です。外から眺めた「人間というもの」とは違います。 主体性(内面性) ある事柄に、自分ごととして情熱をもって関わることです。その時々の気分や好みではなく、生き方の全体を形づくる情熱を指します。 偽名の著作 キルケゴールが、別の名の書き手を立てて書いた本です。書き手それぞれが一つの生き方を体現します。 実存の領域(段階) 人生の値打ちをどこに見るかの違いによる、生き方の型です。美的・倫理的・宗教的の三つがあります。「段階」と言っても、必ず順に進むわけではありません。 絶望 自分が本当の自分になれていないことです。判事ヴィルヘルムは、美的な生はその底で絶望している、と言います。 信仰の騎士 『おそれとおののき』の言葉で、大切なものを手放しながら、神を信頼してそれをこの世で喜びとともに受け取り直す人です。アブラハムが手本とされます。 真理は主体性――知っていることと、生きていること ヘーゲルは、一人の人を家族・市民社会・国家の一員として同時に捉え、自由はそうした制度の中で具体的になると考えました。キルケゴールは、全体を見渡すその体系の立場に、いま生きて選ぶ一人の人間の居場所は無い、と考えます。『哲学的断片への結びの学問外れな後書き』(1846 年、以下『後書き』)で、偽名の書き手ヨハンネス・クリマクスは「真理は主体性である」と言います [2] 。この章では、二つの問いの向き、真理の定義と七万尋のたとえ、体系と実存の三つを順に読みます。クリマクスは自らを「ユーモア家」と呼び、キリスト教の信仰の外の立場から書く書き手です [1] 。 何を信じるかと、どう信じるか――二つの問いの向き クリマクスは、真理への問い方を二つに分けます [2] 。一つは客観的な問い方で、考える人を脇に置いて、自分が関わる対象が真かどうかを確かめます。三角形の内角の和や、ある戦いが何年に起きたかを調べるときは、これでかまいません。考える人が誰であっても、答えは同じだからです。もう一つは主体的な問い方で、その対象への自分の関わり方が真かどうかを問います (図 1) 。 客観的な問い 主体的な問い 考える人を脇に 置き、対象が真かを 確かめる 自分の関わり方が 真かを問う 数学や歴史では、 これでよい 死・神・生き方の 問いはこちら 正しい観念を 知りつつ、偽りの 心で祈る人 偶像の前で、無限の 情熱をこめて祈る人 クリマクスは、偶像の前で情熱をこめて祈る人の方が、 本当に神に祈っていると言います。 図 1 真理への二つの問い方(本教材の整理)。左が客観的な問い、右が主体的な問いで、それぞれの最後の箱に、クリマクスの挙げる二人の祈る人を置きました。 なぜ二つ目の問い方が要るのでしょうか。SEP は、クリマクスの例を引いて説明します。自分はいつか死ぬと抽象的に理解することと、自分の確かな死が、自分の生き方に何を求めるかを真剣に受け止めることは、まったく違います [1] 。前者は、本で読んで頭に入れれば済みます。後者は、知った後で、その人の暮らし方そのものが変わるかどうかにかかっています。死や神や生きる意味の問いは、自分ごととして関わる立場からでなければ、本当には見えてこないのです [1] 。 クリマクスはこの違いを、力点の置き所として言い表します。客観的には「何が」言われるかに力点があり、主体的には「どのように」言われるかに力点がある、というのです [2] 。ここから、驚くような例が出てきます。キリスト教の国に住み、神について正しい観念を知っている人が、偽りの心で祈るとします。他方、偶像を拝む国に住む人が、偶像の前で、無限の情熱をこめて祈るとします。クリマクスは、本当に神に祈っているのは後の人で、前の人は本当は偶像を拝んでいるのだ、と言います [2] 。 この考えは、伝え方にもつながります。キルケゴールは、倫理と宗教の真理は直接には伝えられないと考えました [1] 。文の意味を言葉の上で分かっても、それを自分の生でどう生き直すかを考えなければ、分かったことにならないからです [1] 。偽名の人物たちに生き方を体現させたのは、読者に教え込むのでなく、読者自身が自分の生を見直すよう促すためでした [1] 。 ここで間違えやすい 「真理は主体性である」を、「本人が信じていれば何でも真である」という相対主義と取らないようにしましょう。クリマクスは、数学や歴史の客観的な真理を否定していません。問題にしているのは、自分の生き方を賭けて関わるほかない種類の真理です。また、これはクリマクスという偽名の書き手の言葉です。キルケゴール本人の教説としてそのまま引かないよう、本人が求めています(CUP I 627/SKS 7, 571) [1] 。 客観的に不確かなものを、情熱で握る――七万尋の水の上 クリマクスは、真理を一つの定義の形で言い表します。客観的には不確かなものを、最も情熱的な内面性によって自分のものとして握り続けること、それが真理だ、というのです。それは、実存する者にとっての最高の真理でもあります(第 2 部 第 2 篇 第 2 章、SKS 第 7 巻 186〜187 頁) [2] 。この所は、原典を読む章で要約の形で読みます。 定義の要は、「不確か」と「情熱」が組になっていることです。神がいることや、魂が死なないことを、客観的に証明し尽くすことはできません。証拠を集めて近づこうとしても、どこまでも近似にとどまります [2] 。もし確かに証明できるなら、人は安心してそれを受け入れればよく、生き方を賭ける必要はありません。確かでないからこそ、それに身を預けるかどうかが、その人の情熱の強さを試すのです。その賭けの真剣さが、内面性の強さです。クリマクスは、この真理の定義が、そのまま信仰の言い換えでもあると言います。危険を冒さなければ信仰は無い、というのです [2] 。 クリマクスは、これを水のたとえで描きます。信じる人は、七万尋(ひろ、一尋は両腕を広げた長さ)の深さの水の上にいる、というのです [2] (図 2) 。足の下には何もありません。それでもその人は、そこに身を預け続けます。図の一つ目の場面で、岸の浅瀬の足の着く所に立って信仰を論じる二人は、このたとえと見比べるために本教材が描き足した作例です。 岸の浅瀬 信仰について論じる(足がつく) 足の裏は底に着いている (二人は本教材の作例) 七万尋の水の上 確かでないものに身を預ける (足がつかない) 七万尋 底は見えない 図 2 一つ目は、岸の浅瀬の足の着く所に立って信仰を論じる二人、二つ目は、七万尋の深い水の上で身を預ける人です。七万尋の水のたとえはクリマクスのもので(『後書き』第 2 部 第 2 篇 第 2 章)、浅瀬の二人は本教材の作例です。 クリマクスは、内面性の手本としてソクラテスを挙げます。ソクラテスは、魂が死なないかどうかを「もし不死があるなら」と問いのままに置きながら、その不確かさに自分の生の全体を賭けた、というのです [2] 。さらにクリマクスは、キリスト教の信仰では、永遠のものが時間の中に現れたという逆説に向き合うため、話がもう一段進むと書きます。その先では「主体性は非真理である」とまで言われます [2] 。入門では、ここまでを見通しとして触れるだけにします。 ここで間違えやすい 「情熱が強ければ、何を信じても同じだ」と取らないようにしましょう。クリマクスが言うのは、客観的な確かさで逃げ道をふさがずに、不確かさの前で自分を賭けることの真剣さです。狂信を勧めているのではありません。また、ここでの主体性は、その時々の気分や好みではありません。生き方の全体を形づくる情熱のことで、生き方が移り変わるには、この情熱が変わることが要る、とキルケゴールは考えます [1] 。 体系は実存を収められない――生きている者の立場から クリマクスは、体系そのものを退けているのではありません。論理の体系はありうる、と彼ははっきり認めます。けれども実存の体系はありえない、と言います(第 2 部 第 1 篇 第 2 章) [2] 。実在そのものは、神にとっては体系でありえても、実存しているどの精神にとっても体系ではありえない、というのです [2] 。 なぜでしょうか。体系は、すべてが出そろい、締めくくられたところで初めて完成します。ところが生きている人は、いつも途中にいます。自分の生の終わりを外から眺め、全体の中の自分の位置を見下ろすことはできません。選びと決断は、結末を知らないまま、その途中でなされます [2] 。ヘーゲルは、哲学は一つの時代が成熟した後に、それを振り返って捉えるものだと考えました。クリマクスが立つのは、振り返る立場ではなく、まだ終わっていない生をいま生きる立場です(この対比は本教材の読み方です)。 SEP は、眺める立場と関わる立場の区別を、キルケゴールの考えを貫く区別と見ます。外から眺める理論の立場は、生き方の問題を見落とさざるをえません。そうした問題は、一人称の、自分ごととして関わる立場からしか、きちんと見えてこないからです [1] 。次の章で読む美的な生き方は、まさに人生を観客として眺める立場をとります [1] 。 本教材の作例で考えてみましょう。山の地図を完璧に描ける地図職人がいます。地図には、どの道がどの峠に通じるかがすべて書いてあります。けれども、霧の中の分かれ道に立った登山者は、地図の上の高みから自分を見下ろすことはできません。どちらへ足を踏み出すかは、その人が決めるほかありません。体系と実存の違いは、この違いに近いと言えます。 キルケゴールは後に、本人の名で書いた『わが著作活動の視点』(1848 年執筆、没後刊)で、偽名の著作も含めた全著作は、読者が「主体的になる」よう間接に促すものだったと振り返ります [1] 。ただし、この振り返りを額面どおりに受け取るかには、ガルフらの異論があります [1] 。 ここで間違えやすい キルケゴールを、考えることや学問を嫌った人と取らないようにしましょう。彼は論理の体系がありうることを認めており、ヘーゲルも深く読んでいました。批判したのは、生きている一人の人間が、全体を見渡す体系の立場に自分を置けると思い込むことです。「体系は不可能」をすべての知識に広げるのも行き過ぎで、言われているのは「実存の」体系です。 実存の三段階――人はどんな生き方を選ぶのか 生きる者にとっての真理が「どう関わるか」にあるなら、人の生き方は、何に情熱を注ぐかで違ってきます。キルケゴールの偽名の著作は、美的・倫理的・宗教的という三つの生き方を、それを生きる人物たちに語らせます [1] 。三つは「段階」とも「領域」とも呼ばれます。『あれか、これか』(1843 年)の第 1 部は名の無い若者 A の手記、第 2 部は判事ヴィルヘルムが A に宛てた二通の長い手紙です [1] 。この章では、美的な生、倫理的な生、宗教的な生を順に読みます。 美的な生――退屈を避け、人生を眺める 『あれか、これか』第 1 部の書き手 A は、ときに機知に富み、ときにとりとめなく、ときに絶望した文章で、「美的に」生きるとはどういうことかを示します。随想「輪作」で A は、何としても退屈を避けて生きることを自分の務めとします [1] 。美的な生は、ひとまず「面白いもの」を絶えず追う生き方だと言えます [1] (図 3) 。 美的な生 A(第 1 部)。退屈を避け、面白い ものを追い、人生を眺める 倫理的な生 判事ヴィルヘルム(第 2 部)。自分を 選び、務めを引き受ける 宗教的な生 『おそれとおののき』『後書き』。神の 前に一人で立