敗戦と占領――日本国憲法の成立 — Epoché
国際と日本 日本の政治 約 27 分 本文 約 11,800 字 図 4・表 2 資料 2 節 この課の要点 占領の枠・起草と審議・新しい形の 3 つ 占領の枠 ポツダム宣言は民主主義的傾向の復活強化と人権の尊重を求め、天皇制の存続を明示しないまま、日本の政府を通じた占領を決めた 起草と審議 松本委員会の案は退けられ、GHQ草案をもとに政府案が作られ、明治憲法第73条の手続で帝国議会が修正して可決した 新しい形 国民主権・象徴天皇・戦争放棄・国会中心の統治へ変わり、第9条や公共の福祉など成立時の論点は今も続いている はじめに 1946年11月3日、「日本国憲法」が公布されました [1] 。この憲法は、白紙から作られたものではありません。もとの姿は、明治憲法第73条の定めに従い、天皇の勅書で議会に出された「帝国憲法改正案」です [1] 。形の上では、明治憲法を改正する手続をとったのです。 ところが、中身は大きく変わりました。明治憲法の第1条は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めていました [5] 。新しい憲法の前文は「ここに主権が国民に存することを宣言し」と述べます [4] 。この課程の『明治立憲制』の課で見た天皇中心の仕組みと、『政党内閣と民本主義』の課で見た政党政治の試みは、敗戦から1年あまりで別の土台に置き換わりました。主権がどこにあるかが変わることは、政治を正しいものとする根拠そのものが入れ替わることを意味します。これは本教材の整理です。 この変化は、日本だけで決めたものではありません。連合国の占領の下で、総司令部が草案を書き、日本政府と帝国議会がそれを直し、極東委員会という国際機関も意見を出しました。この課では、だれが、どの段階で、何を決めたのかを順にたどります。前半ではポツダム宣言が何を求めたかを確かめ、中ほどでは政府の調査、総司令部の草案、帝国議会の審議を追います。後半では、新しい憲法が統治の形をどう変え、どんな論点を残したかを見ます。そのうえで、成り立ちをどう評価するかという、今も続く議論の筋道を整理します。 この課の問い 敗戦と占領の下で、日本国憲法はだれの手で、どんな手続を経て作られたのでしょうか。その成り立ちは、憲法の中身にどんな跡を残したのでしょうか。 この課のことば 占領 戦争に負けた国を、勝った側の軍が一定の期間おさえ、その統治に関わることです。日本では1945年から連合国の占領が始まりました。 GHQ(連合国最高司令官総司令部) 占領を実際に動かした司令部で、長はマッカーサーです。日本の政府を通じて指令を出しました。 極東委員会 日本の占領の方針を決めるために連合国が作った委員会です。憲法の改正についても権限を持っていました。 国体 天皇を中心とする国のあり方を指す、当時の言葉です。何を「国体」と考えるかは人によって違いました。 国民主権 国の政治のあり方を最終的に決める力が国民にある、という考えです。明治憲法では天皇が統治権を握っていました。 公布と施行 公布は法を国民に知らせること、施行は法に実際の効力を持たせることです。たとえば日本国憲法は、公布の6か月後に施行されました。 敗戦と占領――新しい憲法は誰の手でどう作られたか 1945年8月の敗戦から1947年5月の施行まで、憲法の書き換えは大きく四つの段階を踏みました。ポツダム宣言が占領の枠を決め、日本政府の調査が行き詰まり、総司令部が草案を書き、帝国議会が審議して直しました。この章では、この順に出来事を追い、だれの考えがどこに残ったのかを見ます (図 1) 。 はじめに注意を一つ述べます。この時期の出来事は、どの立場から語るかで印象が大きく変わります。ここでは国立国会図書館の解説と条文に書かれた事実を軸にし、評価が分かれる所は、分かれていると示します。 背景――ポツダム宣言は何を求めたか 1945年7月26日、アメリカ・イギリス・中華民国の三国はポツダム宣言を発しました。宣言は日本国政府に、全日本国軍隊の無条件降伏を直ちに宣言するよう求めています [3] 。無条件降伏の対象として書かれているのは「全日本国軍隊」です。国家そのものが何の条件もなく従う、という書き方にはなっていません。 宣言は、戦後の日本の姿にも踏み込みました。第6項は、国民を欺いて世界征服に向かわせた者の権力と勢力を、永久に除くべきだとしています [3] 。第9項は、軍隊が完全に武装を解かれた後、兵士が家庭に戻って平和な生活を営む機会を得る、と定めました [3] 。第7項は、新しい秩序ができ、戦争をする力が砕かれた確証が得られるまで、連合国が指定する地点を占領するとしています [3] 。 憲法の問題に直接つながるのは第10項と第12項です。第10項は日本国政府に、国民の間の民主主義的な傾向の復活と強化を妨げるものを、すべて取り除くよう求めました。言論・宗教・思想の自由と、基本的人権の尊重も確立されるべきだとしています [3] 。第12項は、占領軍が引き揚げる条件を書いています。目的が達成され、かつ国民が自由に表明した意思に従って平和的で責任ある政府ができたら、という二つの条件です [3] 。 では宣言は、天皇の地位をどう扱ったのでしょうか。国立国会図書館の解説によれば、宣言は天皇制の存続を明示しないまま、既存の日本の統治機構を通じて占領を進める方針を確定しました [1] 。その背後には、アメリカ政府の中の対立がありました。国務省の知日派は天皇制の存置など寛大な政策を考え、陸軍省や海軍省などには天皇制の廃止を含む徹底した改革を唱える者もいたのです [1] 。 1945年7月 ポツダム宣言が発せられる (26日) 1945年8月 御前会議で宣言の受諾を決める (14日) 1945年10月 松本委員会を設置(25日) 1946年2月 政府の要綱を退けGHQ草案を手交 (13日) 1946年3月 憲法改正草案要綱を発表(6日) 1946年4月 女性も投票した衆議院総選挙 (10日) 1946年8月 衆議院が修正のうえ可決(24日) 1946年11月 日本国憲法を公布(3日) 1947年5月 日本国憲法を施行(3日) 図 1 敗戦から日本国憲法の施行までの年表です。強調したのは、GHQ草案の手交と憲法の公布です。 日本政府ははじめ宣言を「黙殺」していましたが、広島・長崎への原爆投下とソ連の参戦を経て、受諾へ向かいます [1] 。政府は、天皇の国家統治の大権を変える要求を含まないという了解の下に受諾する、と申し入れ、8月14日の御前会議で受諾を決めました [2] 。連合国の回答は、天皇の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれ、最終的な政治の形は日本国民が自由に表明する意思で決まる、というものでした [2] 。 受諾の後、マッカーサーには、ポツダム宣言に基づいて占領管理を行う全権が与えられました [1] 。国立国会図書館の解説は、宣言の要求を受け入れることが、必然的に明治憲法の根本的な改革に道を開いていったと述べています [1] 。ただし、これは解説の見立てです。本教材の整理として付け加えると、宣言の文面には「憲法」という語は出てきません。求められたのは民主主義的な傾向の強化や人権の尊重であり、それを憲法の書き換えで果たすかどうかは、この時点ではまだ決まっていませんでした。 ここで間違えやすい 「ポツダム宣言で日本は国として無条件降伏した」と言われることがありますが、宣言が無条件降伏を求めた対象として書いたのは「全日本国軍隊」です。また宣言は、天皇制を残すとも廃止するとも明示していません。天皇の権限を最高司令官の制限の下に置くと答えたのは、受諾の申し入れに対する連合国の回答です。 出来事と制度――GHQ草案から帝国議会の可決まで 敗戦の直後、政府はすぐに憲法に手を付けたわけではありません。終戦直後の東久邇宮内閣には憲法を見直す意図も余裕もなく、「自由の指令」をきっかけに、組閣から2か月足らずで総辞職しました [1] 。10月4日、マッカーサーは近衛文麿元首相と会い、憲法の改正について示唆を与えます [1] 。近衛は内大臣府で調査を始めましたが、内外の世論の反発を招き、11月1日にマッカーサーは近衛の調査に関知しないと発表しました [1] 。 政府の側では、10月11日にマッカーサーが幣原首相との会談で「憲法の自由主義化」に触れ、10月25日に松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会、いわゆる松本委員会ができました [1] 。転機は1946年2月です。2月1日、委員会の試案が毎日新聞に報じられ、「あまりに保守的、現状維持的なもの」と批判されました [1] 。 ここで総司令部が自ら動きます。国立国会図書館の解説によれば、民政局長ホイットニーは、極東委員会が憲法改正の方針を決める前ならば総司令部の権限に制約はない、とマッカーサーに進言しました [1] 。極東委員会は前年12月のモスクワでの外相会議で設置が決まり、活動を始める2月26日からは、総司令部の憲法改正の権限が一定の制約を受けることになっていたのです [1] 。2月3日にマッカーサーは三つの原則を示し、翌4日に民政局で草案づくりが始まりました [1] 。 2月13日、政府が提出していた要綱は拒否され、その場で総司令部の草案が手渡されました [1] 。政府は2月22日の閣議で、この草案に沿って改正する方針を決め、法制局が日本政府案の作成に取りかかります [1] 。3月2日に試案ができ、4日の夕方から民政局員と法制局の佐藤達夫が徹夜で協議して、5日の午後に作業を終えました [1] 。3月6日に「憲法改正草案要綱」が発表され、4月17日にはひらがな口語体の「憲法改正草案」が公表されます [1] 。 政府案の作成 GHQ草案に沿い3月2日案、徹夜の協議で 確定 草案の公表 3月6日に要綱、4月17日に口語体の草案 枢密院 6月8日、賛成多数で可決 勅書で提出 衆議院 主権の明記・芦田修正などを 加え8月24日に可決 貴族院 文民条項など4項目を修正し10月6日に 可決 衆議院・枢密院 衆議院が10月7日に可決、枢密院が 再審査 公布と施行 1946年11月3日に公布、1947年5月3日に 施行 図 2 政府案の作成から施行までの手続の流れです。帝国議会の審議は、明治憲法第73条の改正の手続に従いました。 その間の4月10日、女性の選挙権を認めた新しい選挙法のもとで、衆議院の総選挙が行われました。5月16日には第90回帝国議会が召集されます [1] 。実は極東委員会は、国民が草案を考える時間がほとんどないとして、この総選挙の延期を求めていました。しかしマッカーサーはこの要求を拒んでいます [1] 。一方で議会の審議が始まると、マッカーサーは、審議の十分な時間と機会、明治憲法との法的な持続性、国民の自由な意思の表明が必要だと声明しました。この三つは、極東委員会が5月13日に決めた諸原則と同じものでした [1] 。 審議の手続は、明治憲法の定めに従いました。第73条は、改正が必要なときは勅命で議案を議会にかけ、両議院とも総員の3分の2以上が出席したうえで、出席議員の3分の2以上の多数で議決すると定めています [5] 。草案は6月8日に枢密院で可決され [1] 、6月20日に勅書をもって議会に出されました [1] 。衆議院は8月24日、賛成421票、反対8票で可決し、同じ日に貴族院へ送りました [1] 。貴族院は4項目を修正して10月6日に可決し、衆議院も翌7日にこれを可決しました [1] 。枢密院の再審査を経て、11月3日に公布されます [1] 。 施行は翌1947年5月3日でした。第100条が、公布の日から6か月を経た日から施行すると定めていたためです [4] 。その日に向けて、新しい皇室典範が法律として作られ、国会法・内閣法・裁判所法・地方自治法なども新たに定められました [1] 。憲法だけでなく、それを動かす法律の一式が、この半年の間にそろえられたのです。 ここで間違えやすい 「日本国憲法はまったく新しい憲法として一から制定された」と思われがちですが、手続の上では明治憲法第73条による改正として、枢密院の諮詢と帝国議会の両院の議決を経ています。また公布(1946年11月3日)と施行(1947年5月3日)は別の日で、5月3日が憲法記念日にあたります。 担い手の考え――天皇の位置と主権をめぐる争い 次に、憲法の中身をめぐって、どの担い手が何を考えていたのかを見ます (図 3) 。いちばんの争点は、天皇の位置と主権の所在でした。国立国会図書館の解説は、この問題が帝国議会だけでなく国民各層の間でも議論され、制定時の最大の争点になったと述べています [2] 。 占領下の憲法の書き換え 敗戦後の示唆から、翌年の 公布まで GHQ(総司令部) 原則を示して草案を起草し、政府の 要綱を退けた 極東委員会 選挙の延期を求め、主権在民などの 明文化を促した 日本政府 松本委員会の案を退けられ、 GHQ草案に沿う政府案 民間・政党 憲法研究会案が 主権在民・生存権などを先取り 帝国議会 主権の明記や生存権、文民条項を 加えた 日本国憲法 1946年に公布、1947年に施行 図 3 日本国憲法の成立にかかわった主な担い手です(本教材の整理)。上の二つが連合国の側、下の三つが日本の側です。 まず日本政府です。松本委員会は、松本の「憲法改正四原則」に示されるように、天皇が統治権を総攬するという明治憲法の基本原則を、当初から変える意思がありませんでした [2] 。軍の規定についても、すべて削るべきだという主張と、規定を残して議会の統制を強めるべきだという主張が鋭く対立し、最終的に後者が要綱に採られました [2] 。 これに対し、民間や政党の案には幅がありました。1945年12月26日に発表された憲法研究会の「憲法草案要綱」は、天皇の権限を国家的儀礼に限り、主権在民・生存権・男女平等など、のちの憲法の根幹となる原則を先取りしていました。総司令部の中で予備的な研究をしていたスタッフも、その内容に強い関心を寄せています [1] 。1946年の政党の案では、自由党案と進歩党案が明治憲法の根本を変えなかったのに対し、共産党案は天皇制の廃止と人民主権を唱え、社会党案は国民の生存権を打ち出しました [1] 。社会党