カント――美しいという判断は皆の同意を求める(趣味判断・崇高) — Epoché
近代 カント 約 18 分 本文 約 7,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 快・要求・崇高の 3 つ 快 美しいという判断は、対象を知る判断ではなく、快の気持ちに基づく判断である。その快は、ものを欲しがる関心を含まない点で、おいしさの快とも、役に立つ・道徳的に善いという満足とも違う(『判断力批判』§1〜5)。 要求 「私には快適だ」で済む快適さと違い、「美しい」と言う人は、皆も同じく感じるべきだと求める。その求めは概念に基づかないので証明できないが、構想力と悟性の自由な遊びが誰の心にも通じる、という所に根拠がある、とカントは論じる(§7〜9)。論の成否は今も議論がある。 崇高 大きすぎるもの・力の強すぎるものを前にした不快は、それを超える理性の力を自分の中に気づかせる快に変わる。崇高さは自然の物ではなく私たちの心の中にある、とカントは言う(§23〜29)。 はじめに イマヌエル・カント(1724〜1804)は、東プロイセンのケーニヒスベルクの人です。この編のこれまでの課では、私たちが何を知りうるかを問う『純粋理性批判』(1781 年)と、何をなすべきかを問う『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785 年)を読みました。この間に『実践理性批判』(1788 年)も出ています [3] 。 この課で読むのは、第三の批判『判断力批判』(1790 年)の前半、「美感的判断力の批判」です。取り上げるのは、知る判断にも、なすべきことの判断にも入らない、快・不快の気持ちに基づく判断です [1] [2] 。後半の「目的論的判断力の批判」は、この課では扱いません。 当時の美学では、美の判断を気持ちの表れにすぎないとする経験論(ヒューム、バーク)と、対象の性質の認識とする合理論(バウムガルテン)が向き合っていました。カントはどちらにもくみせず、美の判断は気持ちに基づきながら皆の同意を求める、と考えました。SEP は、カントがこうして当時の二つの伝統の両方に応じた、と見ています [1] 。 この課では、美の快の性質、美の判断が皆の同意を求めるわけ、崇高の経験を順に読みます。原典を読むでは、「私には美しい」とは言えないと論じる §7 を読みます。 この課の問い 「このワインはおいしい」と「この花は美しい」。どちらも自分の快い気持ちに基づく判断です。それなのに、前者で人と好みが分かれても私たちは気にしませんが、後者では、人にも同じように感じてほしいと思い、そう感じない人を「分かっていない」と言いたくなります。証明もできない気持ちの判断が、なぜ皆の同意を求めることができるのでしょうか。そして、嵐の海や切り立った崖のように、怖ろしいのに心を引きつけるものは、私たちに何を示しているのでしょうか。 この課のことば 美感的な判断 対象について何かを知る判断ではなく、対象を思い浮かべたときの快・不快の気持ちに基づく判断です。カントは美と崇高の判断をこう呼びます。 趣味判断 「これは美しい」という判断のことです。ここでの「趣味」は道楽ではなく、美しいかどうかを見分ける力を指します。 関心なき満足 対象が実際に在ることを欲しがらず、欲しがる気持ちも生まない快です。食べたい・手に入れたいという気持ちと結びつかない満足を言います。 概念なしの普遍性 美しいと判断する人は皆にも同じ判断を求めますが、その求めは「緑」「四角」のような概念を当てはめることに基づきません。だから美しさは証明できません。 構想力と悟性の自由な遊び 像を思い浮かべてまとめる力(構想力)と、概念を与える力(悟性)が、特定の概念に縛られずに調和して働く心の状態です。美の快はここから生まれる、とカントは考えます。 崇高 大きすぎるものや抗えない力を持つものを前にして、まず不快を感じ、それを通じて自分の理性の力を感じる快です。崇高さは対象ではなく心の中にある、とカントは言います。 趣味判断と崇高――気持ちの判断がなぜ皆の同意を求めるのか 知る力を調べた『純粋理性批判』、なすべきことを調べた『基礎づけ』と『実践理性批判』に続いて、カントは『判断力批判』を出しました。この課で読むその前半は、どちらにも入らない、快・不快の気持ちに基づく判断を取り上げます [1] 。この章では、美の快が関心を含まないこと、美の判断が概念なしに皆の同意を求めること、崇高が不快を通じて理性の力を感じさせることを、順に読みます。 関心なき満足――美しいと感じるのに、欲しがらなくてよい 「この壁は緑だ」と言うとき、私たちは対象について何かを述べています。色の感覚は、対象の側の何かを表すからです。ところが「この花は美しい」と言うとき、私たちは思い浮かべたものを、対象を知るためにではなく、自分の快・不快の気持ちに関係づけています。快の気持ちは対象の何も表さず、思い浮かべたときに自分がどう感じるかだけを表します。だから美しいという判断は、知る判断ではなく 美感的な判断 だ、とカントは言います(『判断力批判』§1、AA V 203〜204) [2] [1] 。 では、美の快はどんな快でしょうか。カントは、私たちが何かを「よい」と感じる満足を三つに分けます。感覚を楽しませる快適なもの、役に立つものや道徳的に善いものといった善いもの、そして美しいものです(§3〜5) [2] 。前の二つの満足は、対象が実際に在ることへの関心と結びついています。おいしい料理は食べたくなり、役に立つ道具は手に入れたくなります。ところが美しいものの満足だけは、そうした関心から自由です。対象を欲しがる気持ちに支えられず、欲しがる気持ちを生むこともありません [1] 。 カントは宮殿の例を出します。目の前の宮殿を美しいと思うかと尋ねられて、見とれるためだけの物は好きでない、と答えることもできます。パリでは料理屋がいちばん気に入った、というイロコイ族の長のように答えることも、民衆の汗をこんな無駄な物に費やした大物の虚栄を、ルソーのように責めることもできます。カントは、そうした答えはどれも認めてよいが、問いとは関係がない、と言います。問われているのは、その宮殿をただ思い浮かべることに満足が伴うかどうかです(§2、AA V 204〜205) [2] 。 こうしてカントは、第一の観点をまとめます。 趣味 とは、関心をまったく含まない満足・不満足によって対象を判定する能力であり、その満足の対象が美しいと呼ばれる、というのです(§5、AA V 211) [2] 。快適なものと美しいものの満足の違いは、次の節で見る §7 の例に、よく表れています (図 1) 。 快適なもの この酒は快適だ あなたには、でしょう そうだね、私には 人それぞれの好み: 言い直されても構わない 美しいもの あれは私には美しかった。 君たちがどう感じても構わない 本当は:あれは美しかった (皆もそう感じるべきだ) ホール ? ? 「私には美しい」はおかしい: 美しいと言えば皆の同意を求める 図 1 『判断力批判』§7 の例を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の絵では、カナリア酒を「快適だ」と言った人が「あなたには、でしょう」と言い直されても平気です。二つ目の絵では、演奏会を「私には美しかった」とだけ言う人に、まわりが首をかしげます。酒と演奏会は本人の例、食卓や人物の言葉は本教材の描き方です。 ここで間違えやすい 「関心なき」を、退屈で心が動かない、どうでもいい、という意味に取らないようにしましょう。カントが言うのは、美の快が弱いということではありません。その快が、対象を自分のものにしたい、使いたい、在ってほしいという欲求に支えられていない、ということです [1] 。また、美しいものに関心を持ってはいけない、という禁止でもありません。カントは後の箇所で、自然の美に直接の関心を持つことは善い心のしるしだ、とも論じています [1] 。 概念なしの普遍性――「私には美しい」とは言えない 美の満足は、もう一つの点でも快適さと違います。カントは「カナリア酒は快適だ」と言う人の例を出します。そばの人が「私には快適だ、と言うべきです」と言い直しても、その人は気を悪くしません。紫を柔らかく感じる人も、死んだような色と感じる人もいて、そこで争うのは愚かなことです。快適さには「人それぞれの好み」が当てはまります(§7、AA V 212) [2] 。 ところが、建物や服や演奏会や詩について「私にとっては美しい」と言って済ませるのは、かえって滑稽だ、とカントは言います (図 1) 。何かを美しいと言う人は、ほかの人にも同じ満足を求め、自分のためだけでなく皆のために判断しているからです。しかもその人は、皆の判断がこれまで何度も自分と一致したから一致を当てにするのではなく、一致を 求める のです。だから違う判断をする人を責め、趣味がないと言います(§7、AA V 212〜213) [2] 。 この求めは何に支えられているのでしょうか。「この壁は緑だ」という判断も皆の同意を求めますが、それは対象を「緑」という概念の下に置くからです。美の判断は概念に基づきません。だから、どんな理由や原則を並べても、人に美しいと判断させることはできません [1] 。それでも美しいと言う人は、「皆の声」を自分の側に持つと考えます。この皆の声は一つの理念だ、とカントは言います(§8、AA V 215〜216) [2] 。 カントが「趣味の批判の鍵」と呼ぶのは、快が先か、判定が先か、という問いです。快が先なら、その快は快適さと変わらず、皆に当てはまるとは言えません。カントの答えは、先に来るのは心の状態の判定で、快はその後に来る、というものです(§9、AA V 216〜219) [2] (図 2) 。対象を思い浮かべるとき、像をまとめる構想力と、概念を与える悟性が働きます。物を知るときは、悟性の概念が構想力の働きを導きます。美しいものの前では、二つの力が、どの概念にも縛られずに調和して働きます。これが 自由な遊び です [1] 。 ① 形を思い浮かべる 花の形や、演奏会の音の流れを 思い浮かべる ② 自由な遊び 構想力と悟性が、どの概念にも 縛られずに調和する ③ 心の状態の判定 この調和を、皆に伝えうるものとして 判定する ④ 関心なき快 快は判定の後に来る(§9 の「鍵」) ⑤「これは美しい」 皆も同じく感じるべきだと求める ⑥ 趣味の演繹(§38) この求めは正当か。解釈は分かれる 図 2 美しいという判断ができるまでの流れです(§9 による本教材の整理)。快が先に来るのではなく、構想力と悟性の自由な遊びという心の状態の判定が先に来ます。点線の段は、その求めが正当かを問う後の論で、解釈が分かれます [1] 。 自由な遊びは、物を知るときに誰の心でも働いている条件そのものを表している、とカントは考えます。物を知る判断に皆の同意を求めてよいなら、その条件にも同意を求めてよいはずだ、というのが論の筋です [1] 。ただし、この論が成功しているかどうかは、研究者の間で分かれています。美の判断の求めを、理想の条件の下では皆が同じく感じるだろうという予測と読む研究者(ガイヤー)もいます [1] 。 ここで間違えやすい カントが、皆が実際に同意したものが美しい、と言ったと取るのは誤りです。判断に含まれているのは、皆が同意する はずだ という求めで、多数決ではありません [1] 。反対に、美しさは結局人それぞれだ、という考えに戻るのも誤りです。カントは、快に基づくことと皆の同意を求めることを、一つの判断の中に両方認めようとしました [1] 。 崇高――怖ろしい自然が、自分の中の理性の力を気づかせる 美しいものは、形がまとまり、私たちの判断する力に合うように見えます。崇高なものは逆に、形がなく、構想力に逆らうように見えます。だからカントは、対象を美しいと呼ぶのは正しいが、崇高と呼ぶのは本来は正しくない、と言います(§23、AA V 244〜245) [2] [1] 。カントは崇高を二つに分けます (表 1) 。 この表で分かること: 美も崇高も気持ちに基づき皆の同意を求めますが、美は形のまとまりに構想力と悟性が調和し、崇高は形のないものに構想力が届かず、理性の力が感じられます。崇高さは物ではなく心の側にあります。 判断 本人の例 関わる能力 快の形 どこにあるか 美 建物・服・演奏会・詩 構想力と悟性 関心なき快 対象を美しいと呼べる 数学的崇高 山・海 構想力と理性 届かない不快を通じた快 物でなく心の中 力学的崇高 岩・雷雲・火山・滝 構想力と理性 かなわない不快を通じた快 物でなく心の中 表 1 美と二つの崇高の比べ(本教材の整理)。例は『判断力批判』§7・§26・§28 から採りました。ピラミッドが崇高の例のつもりかどうかははっきりしないので、数学的崇高の例は山と海にしています [1] [2] 。 一つ目は 数学的崇高 です。大きすぎて、構想力が一つの像にまとめきれないものの前で起こります。カントはサヴァリの旅行記を引いて、ピラミッドに近づきすぎると、見上げる間に先に見た石の像が薄れ、全体がつかめない、と言います(§26、AA V 252) [2] 。けれども理性は、無限さえ一つの全体として考えることを求めます。構想力が届かないことが、かえって、感覚のどんな物差しも超える力が心にあることを感じさせます(§25〜26) [1] 。 二つ目は 力学的崇高 です。張り出した岩、稲妻を走らせる雷雲、火山、嵐、荒れる大洋、高い滝などの前で起こります(§28、AA V 261) [2] (図 3) 。その力に比べれば、人間の抵抗する力は取るに足りません。けれども安全な所にいれば、その眺めは怖ろしいほど心を引きつけます。自然に左右されない自分を判定する力が自分にあると気づくからです。人格の中の人間性は、自然の力に屈しても辱められない、とカントは言います(§28、AA V 261〜262) [1] 。 大きすぎる(数学的崇高) 理性:無限も一つの全体として 足もとの旅人:全体がつかめない 小さな旅人:ほどよい距離(§26) 強すぎる(力学的崇高) 安全な高台 怖ろしいが、安全な所から見ると 引きつけられる(§28) 図 3 崇高の二つの場面です(本教材の絵)。一つ目は、ピラミッドの足もとで全体をつかめない旅人(§26)、