明治立憲制――近代日本の政治の始まり — Epoché
国際と日本 日本の政治 約 25 分 本文 約 10,800 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 背景・仕組み・運用の 3 つ 背景 五箇条の御誓文の「公論」から民撰議院の建白、国会期成同盟を経て、1881年に政府は1890年の国会開設を約しました 仕組み 1889年の憲法は天皇が統治権を総攬し、議会は法律と予算に協賛し、大臣は天皇を輔弼する形でした。首相の選び方と議会への責任は条文にありません 運用 政府は超然主義をとりましたが、予算に議会の協賛が要るため初期議会は対立し、やがて政府と政党の提携、立憲政友会の結成へ進みました はじめに 1890年11月25日、第1回帝国議会が召集されました [1] 。その前年の1889年2月11日には、大日本帝国憲法が発布されています [2] 。それまでの日本には、国の仕組みを定めた憲法も、選挙で選ばれた議員が国全体のことを話し合う議会もありませんでした。明治維新からわずか20年ほどで、憲法を持ち議会を開く国へと形を変えたことになります。 ただし、この憲法は今の日本国憲法とは大きく異なります。憲法の第1条は、万世一系の天皇が国を統治すると定めていました [2] 。主権が国民にあるという今の第1条とは出発点が違います [7] 。それでも、この憲法の下で選挙が行われ、議会が法律と予算を審議しました。天皇が統治する国の中で、議会はどんな役割を与えられたのでしょうか。 この課では、まず憲法ができるまでの背景をたどり、次に憲法が議会・大臣・天皇をどう組み合わせたかを条文で確かめます。そのうえで、憲法を作った人々の考えと、議会が開かれた後の政府と政党の関係を見ます。最後に、条文を自分で読み、今の憲法と比べます。この課で見る仕組みは、この課程の『政党内閣と民本主義』の課で扱う政党内閣や、『敗戦と占領』の課で扱う日本国憲法の成立を理解する土台になります。明治の憲法が何を定め、何を定めなかったのかを押さえておくと、後の時代に何が変わったのかが見えやすくなります。 この課の問い 天皇が統治権を握る憲法の下で、選挙で選ばれた議会はどれだけの力を持ち、内閣や政府とどのように関わったのでしょうか。 この課のことば 立憲制 国の統治を憲法の定めに従わせ、法律や予算の決定に議会を関わらせる仕組みです。たとえば、法律を作るのに議会の賛成が要る、という決まりがこれにあたります。 欽定憲法 君主が定めて国民に与える形の憲法です。国民の代表が話し合って作る「民定憲法」と対になる言葉です。 協賛 議会が賛成して、法律や予算の成立に加わることです。明治憲法では、議会の協賛が無ければ法律は成り立ちませんでした。 輔弼 大臣が天皇に進言して補佐し、その結果に責任を負うことです。社長に意見を出し、決まったことの責任を負う役員にたとえられます。 超然主義 政府が特定の政党に属さず、すべての政党の外に立つという方針です。議会を無視するという意味ではありません。 制限選挙 納める税の額や性別などの条件で、選挙権を一部の人に限る選挙です。条件を外した選挙は普通選挙と呼ばれます。 明治立憲制――天皇主権の憲法は議会と内閣をどう組み合わせたか この課程の『憲法と立憲主義』の課では、憲法を権力を縛る決まりとして学びました。明治憲法は、天皇に統治権を集めながら、その行使を憲法の定めに従わせ、法律と予算には議会の賛成を求めました。権力を集めることと縛ることを、一つの文書の中でどう両立させたのかが、この章の中心の問いです。 以下では、背景、出来事と制度、担い手の考え、いまへの影響の順に進みます。年表 (図 1) で大きな流れをつかんでから、各節で条文と史料に戻ります。 背景――「公論」の約束から国会開設の勅諭へ 明治の政府は、成立の直後から「公論」による政治を掲げていました。1868年の五箇条の御誓文の第一条は「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ」と述べています [4] 。広く会議を開き、国の大事は公の議論で決めよう、という意味です。ただし、これは選挙で選ばれる議会をすぐに作るという約束ではありませんでした。誰が会議に加わるのかは書かれておらず、その中身は後の争点になります。これは本教材の整理です。 実際の政府は、太政官制と呼ばれる仕組みで動いていました。1868年に始まり、何度かの改革を経て、1885年12月に内閣制度ができるまで続きます [1] 。政府の中でも憲法の議論は早くから始まっていました。1872年には左院の宮島誠一郎が憲法の制定と議院の創設を建言し、審議は途中で行き詰まったものの、政府による最初の憲法制定の試みとされています [1] 。 1868年 五箇条の御誓文 「萬機公論ニ決スヘシ」 1874年 板垣らが民撰議院設立建白書を 提出 1880年 国会期成同盟が生まれる 1881年 明治十四年の政変、国会開設の 勅諭 1885年 太政官制に代わり内閣制度 1889年 大日本帝国憲法の発布 (2月11日) 1890年 第1回総選挙、第1回帝国議会 1900年 伊藤博文らが立憲政友会を結成 図 1 明治維新から立憲政友会の結成までの年表です。強調したのは、憲法の発布と最初の議会です。 議会を求める声を大きくしたのは、政府から離れた人々でした。1873年10月、朝鮮への使節派遣をめぐる争いに敗れた西郷隆盛・板垣退助らが政府を去ります [1] 。翌1874年1月17日、板垣らは民撰議院設立建白書を左院に出しました [1] 。建白書は一部の高官による独裁を批判し、天下の公議を活発にするため、選挙で選ぶ議院を早く開くよう求めるものでした [1] 。 建白書の論じ方には特徴があります。今の政権は上の帝室にも下の人民にもなく、ただ有司、つまり一部の役人に帰している、と現状を描きました [5] 。そのうえで、政府に租税を払う義務のある人民は、政府の事に関わり可否を言う権理を持つ、と論じます [5] 。税を払う者が政治に口を出せるという理屈は、後の制限選挙の考え方とも響き合います。これは本教材の解釈です。 政府も手をこまねいていたわけではありません。1875年の大阪会議では、立憲政体への準備として元老院と地方官会議を置き、司法の機関として大審院を設けることなどで合意しました [1] 。1877年の西南戦争が終わると、武力で政府に逆らう動きは終わり、自由民権運動は主に言論による運動として活発になっていきます [1] 。1880年3月には、国会の開設を求める全国の組織として国会期成同盟が生まれました [1] 。 民間では憲法の私案も作られました。立志社の植木枝盛の案は、アメリカやスイスに倣う連邦制を描き、立法権を全国民のものとし、国会を中心に統治する体制を提案しています [1] 。政府の内部でも、1881年に参議の大隈重信が、イギリス流の議会制を採り1883年の初めに憲法を定めるという急進的な意見書を出しました [1] 。 同じ1881年、北海道開拓使の官有物の払い下げが世論の強い反発を招き、国会開設の要求と結びつきます。政府は払い下げを中止し、大隈を免官したうえで、1890年に国会を開くと告げる詔書を出しました [1] 。これが国会開設の勅諭で、「將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ」と約束しています [6] 。 勅諭には、約束と並んで二つの条件が書かれていました。一つは、国会の組織と権限は天皇が自ら決めて公布するという点です [6] 。もう一つは、急ぎを争って事変をあおり、国の安全を害する者は法で処罰するという警告です [6] 。国会は開くが、その形を決めるのは政府の側であり、開く時期も政府が決める、という宣言でした。 ここで間違えやすい 「国会は自由民権運動が政府から勝ち取ったもので、政府は議会そのものに反対だった」と考えるのは単純化です。政府の中でも1872年から憲法の試みがあり、争点は議会を置くかどうかよりも、いつ、どんな形で、誰が決めて置くかにありました。勅諭は時期を1890年と定め、組織と権限を決める力を天皇の側に残しました。 出来事と制度――大日本帝国憲法の仕組み 国会開設の約束に向けて、政府は統治の仕組みを整えました。1885年12月22日、太政官制に代わって内閣制度が始まり、内閣総理大臣の職権も定められます [1] 。そして1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました [2] 。上諭は、帝国議会を1890年に召集し、議会が開会した時に憲法が効力を持つと定めています [2] 。発布と施行の時期が分かれている点に注意が要ります。 憲法の中心にいるのは天皇です。天皇は神聖で侵してはならないとされ [2] 、国の元首として統治権を総攬する、つまりまとめて握ると定められました。ただし同じ第4条は、その統治権を「此ノ憲法ノ條規ニ依リ」行うと続けています [2] 。統治権を一人に集めながら、その使い方を憲法の定めに従わせているのです。この組み合わせが、明治憲法を立憲制と呼べる理由だと本教材は整理します。 議会が関わる場面は、法律と予算でした。天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行い [2] 、すべての法律は議会の協賛を経なければなりません [2] 。国の歳出と歳入も、毎年の予算として議会の協賛を経るとされました [2] 。例外として、議会の閉会中に緊急の必要がある場合、法律に代わる勅令を出せますが、次の議会で承諾が得られなければ、その後は効力を失います [2] 。 一方で、議会の協賛の外に置かれた権限も多くありました。官吏の任免は、憲法や法律に特例がある場合を除いて天皇が行います [2] 。陸海軍の統帥と、その編制や常備兵の数を定めることも天皇の権限です [2] 。戦争を始めること、講和すること、条約を結ぶことも同じでした [2] 。予算にも限界があり、憲法上の大権に基づく既定の歳出などは、政府の同意なしに議会が削ることはできません [2] 。予算が成立しなければ、政府は前年度の予算を使います [2] 。 この表で分かること: 議会は法律と予算に関わったが、軍・外交・官吏の任免・改正の発議は外にあった 分野 議会が関わること 議会の外に残ること 法律 すべての法律に協賛(第37条) 閉会中の緊急勅令(第8条) 予算 毎年の予算に協賛(第64条) 既定費などの削減は政府の同意が要る(第67条) 軍と外交 関連する法律・予算に協賛 統帥・宣戦・講和・条約(第11〜13条) 大臣と官吏 大臣の責任の相手は書かれず 官吏の任免(第10条) 憲法改正 各院で総員3分の2以上出席・その3分の2以上で議決 発議は勅命(第73条) 表 1 明治憲法の条文に見る議会の権限と限界です(本教材の整理)。緊急勅令は次の議会で承諾されなければ将来に向けて効力を失いました。 大臣と天皇の関係はどうでしょうか。国務大臣は天皇を輔弼してその責任を負い、法律や勅令には大臣の副署が要るとされました [2] 。ただし、条文の本文には、内閣総理大臣を誰がどう選ぶかも、内閣が議会に対して責任を負うかも書かれていません。これは本教材の整理です。さらに枢密顧問が天皇の問いに答えて重要な国務を審議し [2] 、司法権は天皇の名において裁判所が行うとされました [2] 。1889年12月には、大臣が一人ずつ天皇を輔弼する憲法の考えに合わせて、内閣官制が定められています [1] 。 天皇 国の元首として統治権を総攬し、 憲法の条規により行う(第4条) 帝国議会 法律と予算に協賛する (第5・37・64条) 国務大臣 天皇を輔弼し責任を負い、副署する (第55条) 枢密顧問 天皇の諮詢に応え重要な国務を審議 (第56条) 裁判所 天皇の名において法律により裁判 (第57条) 図 2 明治憲法の条文に見る、天皇と各機関の関係です(本教材の整理)。上の天皇から四つの機関に分かれます。首相の選び方と、内閣の議会への責任は条文にありません。 議会そのものは二院でできていました。貴族院は皇族・華族と勅任された議員で、衆議院は選挙法の定めにより公選された議員で組織されます [2] 。貴族院には、選挙を経ない皇族議員・公侯爵議員のほか、爵位ごとの互選で選ばれる議員や、内閣の推薦による勅選議員、多額納税者の議員がいました [1] 。 衆議院の選挙権は限られていました。衆議院議員選挙法が選挙人として認めたのは、次の条件をすべて備える者に限られました [3] 。25歳以上の男子であること、その府県内に本籍を定めて満1年以上住み続けていること、その府県内で直接国税を15円以上、満1年以上納め続けていること(所得税は3年以上)です。立候補できるのは30歳以上の男子で、同じく直接国税15円以上を納める者でした [3] 。1890年7月1日の第1回総選挙は定数300で、有権者は総人口の約1パーセントだったとされます [1] 。 国民の権利も、法律の枠の中で認められる形でした。言論・著作・集会・結社の自由は「法律ノ範圍内ニ於テ」認められると書かれています [2] 。憲法の改正は、勅命で議案が議会に付された場合に限って審議され、両院それぞれで総員の3分の2以上が出席し、出席議員の3分の2以上が賛成しなければ議決できませんでした [2] 。改正を始める力は、議会の側にはありませんでした。 ここで間違えやすい 「明治憲法では天皇がすべてを自由に決められた」とも、「議会がすべてを決めた」とも言えません。統治権は天皇に集められましたが、憲法の条規に従うとされ、法律と予算には議会の協賛が必要でした。逆に、軍の統帥、宣戦と講和、官吏の任免は議会の協賛の外にあり、予算にも既定費と前年度予算の定めという限界がありました。 担い手の考え――欽定・漸進・超然 この憲法の形を決めた考え方は、1881年の政府内の構想に早くから現れていました。岩倉具視が上奏した「憲法中綱領之議」は、欽定憲法とすること、漸進主義をとること、プロシアを手本とすること、内閣は議院と距離を保つこと、二院制と制限選挙を採ることなどを挙げています [1] 。起草したのは井上毅だと言われます。国立国会図書館の解説は、その内容の大半が明治憲法に採り入れられたと評価しています [1] 。 同じ年に出た大隈の意見書と並べると、違いがはっきりします (図 3) 。大隈はイギリス流の議会制と早い制定を説き、岩倉の綱領はプロシア