11.64 韓愈 師說 — 道の存する所は、師の存する所なり — Epoché
この篇でできるようになること 師の定義にある三つの役割を挙げられます。 文末の 乎 と介詞の 乎 を分け、三つの対比を本文で示せます。 弟子と師の関係を、 不一定 ・ 比 を使う現代語の比較で言い換えられます。 前提 :11.63「宋濂 送天台陳庭學序」。相手へ問いを贈る序の後、師につくことを正面から論じる說を読みます。 最後に、贈る相手を明かす 韓愈は唐の古文運動の中心人物で、『馬說』と同じ作者です。この篇は、師とは何かを定め、当時の風潮を批判し、孔子の例を挙げてから、李蟠という若者への贈り物だと明かします。 李蟠は十七歳で、古文を好み、時の風潮にとらわれず韓愈に学びました。読み始めにはまだその名が出ず、大きな論を読み終えた後で、一人の学ぶ姿へ戻ります。 当時の士大夫が師につくことを恥じる態度を批判する文章です。なぜ師につくのかを先に定めるから、その後の、年や地位を理由に避ける言い分を問い直せます。 師の役割を、三つの動詞で定める 古之學者必有師 の 學者 は、学ぶ人という意味です。今の日本語の、研究を職業にする学者、だけに限りません。師から学ぶ側を指しています。 初めから専門の研究者の話だと思わないでください。学ぶ人には師があり、迷いがあれば師について解く、という関係を述べています。 師者、所以傳道受業解惑也 では、道を伝え、学業を授け、迷いを解くという三つを並べます。 受 はここでは授ける意味です。師が学業を受け取るとすると、定義の向きが逆になります。 者 で師という語を受け、 也 で定義を結びます。この 所以 は、そのためのものという手段や役割を示します。師の働きを先に決めてから、迷いを持つ人が師につく必要へ進みます。 年上でも、年下でも 生乎吾前 で自分より前に生まれた人を置き、その人はもとより道を聞いたのも自分より先なので、師とすると述べます。次の 生乎吾後 では、後に生まれた人でも、道を聞いたのが先ならやはり師とします。 二つの句は前と後を替えた同じ形です。年齢そのものではなく、道を聞いた先後が基準だと分かります。その後に 吾師道也 と、学ぶ対象は道だと述べます。 夫庸知其年之先後生於吾乎 は、どうして年齢の前後を問題にしようか、という反語です。 庸 で問い、文末の 乎 で受け、気にしないという主張にします。 道之所存、師之所存也 では、道のある所が師のある所だと結びます。人から学ばないという意味ではありません。学ぶ相手を、年や地位だけでは決めないということです。 文末にない乎を読む 生乎吾前 や 生乎吾後 の 乎 は文末の問いではありません。介詞として、いつ生まれたかを自分との関係で示しています。 先乎吾 も、自分より先だという比較の相手を置きます。同じ篇の 生於吾 と並べると、ここで 乎 ・ 於 が同じように関係を示すことが分かります。 文末の問いや感嘆か、後ろに相手や位置を置く介詞かを見分けます。同じ字でも、文のどの位置にあるかで働きが変わります。位置を確かめましょう。 三つの対比で、身近な態度へ近づく 初めの対は 古之聖人 と 今之衆人 です。昔の聖人は優れていても師に問い、今の普通の人は及ばないのに学ぶことを恥じる、と向かい合わせます。 次は 愛其子 と 於其身也 、自分の子と自分自身です。子には師を選ぶのに、自分が師につくことは恥じます。文の切れ目を学ぶ小さなことには師を付け、迷いを解く大きなことを捨てる矛盾を述べます。 句讀 は文の切れ目で、 讀 は dòu と読みます。文字を読む動作一般だけではなく、文をどこで切るかという学びです。 三つ目は 巫醫樂師百工之人 と 士大夫之族 です。巫者、医者、楽人、職人は互いに師とするのを恥じないのに、士大夫は師弟と言う者を笑います。古今の大きな対から家の中へ、さらに周囲の人々へと近づきます。 言い分を、そのまま並べる 士大夫は、年も学ぶ道も似ていると答えます。相手の位が低ければ恥ずかしく、高ければへつらいになる、とも答えます。その言い分を続けて引くことで、道を学ぶという初めの定義から離れていることが見えます。 不齒 は、同列に扱わないという意味です。職人たちを低く見る士大夫が、師につく態度ではかえって及ばないと述べます。こうして人物の地位と学ぶ行為の評価を逆にします。 本文の 聖人之所以爲聖 の 所以 は、聖人が聖人であるわけという理由です。冒頭の、師が何をするためのものかという使い方とは違います。 前後の文脈から、手段か理由かを決めます。ここでは、なぜ聖人と愚かな人の違いが生まれるかを問う文脈から、理由として読めます。 必ずしも、という否定を残す 孔子は決まった一人だけを師にしたのではなく、郯子、萇弘、師襄、老聃を師としたと述べます。本文は、その人々の優れ方は孔子に及ばないとも述べています。 そのうえで 弟子不必不如師、師不必賢於弟子 と結びます。弟子は必ずしも師に及ばないわけではなく、師は必ずしも弟子より優れているわけではない、という二句です。 不必 を、現代語の、する必要はない、と読まないでください。この文では必ずしもそうとは限らないという意味です。現代語の 不一定 へ置き換えて確かめます。 弟子が常に上だと逆転させる文でもありません。道を聞く時には先後があり、学術や技には専門があるという理由で、師弟の固定した上下を外しています。 師不必賢於弟子 の 於 は比較の相手を置き、現代語の 比 と対応します。比較は 型編 21課 で確かめられます。 一人の学ぶ姿へ戻る 聞道有先後、術業有專攻、如是而已 は、聞く先後とそれぞれの専門がある、ただそれだけだ、と述べます。誰からでも同じことを学べるという話でなく、何を先に知り、何を専門とするかを見ます。 末尾で、李蟠が風潮にとらわれず学びに来たことが明かされます。定義から批判へ進んだ大きな論が、この青年の行動をよいとする言葉に戻ります。贈る相手を最後に出すことで、論を支える具体的な学ぶ姿が残ります。 語釈 語 品詞 意味 日本語との差 例文 訳 學者 名詞 学ぶ人 専門の研究者だけに限らない 古之學者必有師 昔の学ぶ人には必ず師があった 受 動詞 授ける ここでは授の意味 傳道受業解惑 道を伝え学業を授け迷いを解く 惑 名詞 迷い・疑問 師が解くもの 孰能無惑 誰が迷いを持たずにいられようか 庸 反語の語 どうして〜か 年齢を問題にしない反語 夫庸知其年之先後生於吾乎 どうして生まれた年の前後を問題にしようか 句讀 名詞 文の切れ目 讀はここでdòu 而習其句讀者也 その文の切れ目を習わせる者である 不齒 動詞 同列に扱わない 歯の有無ではない 君子不齒 君子は同列に扱わない 不必 副詞のまとまり 必ずしも〜ない 現代語の必要ないと分ける 弟子不必不如師 弟子は必ずしも師に及ばないわけではない 專攻 名詞 専門 学術や技の違い 術業有專攻 学術や技にはそれぞれ専門がある 練習 字を原文どおりに補って書いてください。 師者、_以傳道受業解惑也 字を原文どおりに補って書いてください。 生_吾前 字を原文どおりに補って書いてください。 師不必賢_弟子 字を原文どおりに補って書いてください。 夫_知其年之先後生於吾乎 本文の 乎 をすべて拾い、介詞か、問い・感嘆かに分けてください。 弟子不必不如師、師不必賢於弟子 を、現代語の 不一定 ・ 比 を使って言い換えてください。 三人行、則必有我師 と 聞道有先後、術業有專攻 を現代語へ言い換えてください。 年下の人から学ぶ場面を、 优秀 ・ 能干 ・ 专心 ・ 诚实 ・ 感兴趣 を使う短い現代語の三文で書いてください。 三つの対比を本文から挙げ、どのように身近な話になるかを二文で説明してください。 師の役割を三つ挙げ、 受 の字の意味を答えてください。 音読:次の原文の句を ▶ で聞き、声に出して読んでください。 師者、所以傳道受業解惑也。 定義はゆっくり読み、傳道・受業・解惑の三つを区切って読んでください。 この篇のまとめ 師を三つの役割で定義し、年や地位を理由に学ばない態度を批判しました。三つの対比と孔子の例から、専門と聞く先後に応じて学ぶという結論を読みました。 次の篇へ 次の11.65では柳宗元の捕蛇者說を読みます。危険な蛇捕りをやめる申し出を断る人の言葉から、税の害が蛇よりひどいことを示す文章です。 答え 師者、所以傳道受業解惑也 生乎吾前 師不必賢於弟子 夫庸知其年之先後生於吾乎 生乎吾前 、 固先乎吾 、 生乎吾後 、 亦先乎吾 の四つは介詞です。 夫庸知其年之先後生於吾乎 と 其皆出於此乎 の末尾は問い、 嗟乎 は感嘆です。 学生不一定比老师差。 老师不一定比学生好。 三个人一起走,其中一定有可以当我老师的人。 懂道理有先后,各人各有专长。 他比我小,可是很优秀,也很能干、很诚实。 我对他的工作很感兴趣。 我专心跟他学。 古之聖人 と 今之衆人 、 愛其子 と 於其身也 、 巫醫樂師百工之人 と 士大夫之族 の対で、いずれも後の側が劣ると述べます。古今の話から自分の家、周囲の人々へと近づきます。 傳道 、 受業 、 解惑 で、道を伝え、学業を授け、迷いを解くことです。 受 は授ける意味です。 参考文献 韓愈『師說』。パブリックドメイン(著者没後70年経過)。 出所: https://zh.wikisource.org/wiki/古文觀止/卷8