ポパー――科学の理論は反証できなければならない(反証可能性・境界設定) — Epoché
現代 科学哲学と認識論 約 18 分 本文 約 7,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 境界・非対称・約束の 3 つ 境界 アインシュタインの理論は、観測が外れれば倒れる危険な予言をした。フロイトやアドラーの理論は、どんな振る舞いも説明できるので確証が至る所に見えるが、それは強さでなく弱さである。科学のしるしは、確証の多さではなく反証できることにある、とポパーは言う(『推測と反駁』1963、第 1 章)。 非対称 「すべての白鳥は白い」は、白い白鳥を何羽見ても検証しきれないが、本物の反例が一つあれば反証される(白鳥はポパー自身の例、『探究の論理』§1)。ポパーは帰納の正当化はできないというヒュームの批判を受け入れ、科学は問題に推測で答え、それを反駁しようと試すことで進む、とした。 約束 実際には一つの反例で理論は倒れない。どの観察の報告を受け入れるかは、研究者が取り決めで決める(陪審の評決のように)。科学は固い岩盤ではなく、沼地に上から打ち込んだ杭の上に建つ、とポパーは言う(同 §30)。理論は補助仮説に守られて反証に強く抵抗する、というラカトシュやパトナムの批判もある。 はじめに カール・ポパーは、1902 年にウィーンで、ユダヤ系の家に生まれました [1] 。1918 年にウィーン大学で学び始め、翌年には一時マルクス主義者になりますが、その教条の性格にすぐ幻滅して離れました [1] 。 同じころ、ポパーはフロイトとアドラーの精神分析の理論に触れ、アインシュタインの相対性理論の講演も聴いています [1] 。アインシュタインには批判の精神があるのに、マルクス・フロイト・アドラーにはそれがまったく無いように見えました。この対比が、ポパーには根本の重みを持つものに思えたのです [1] 。 ポパーは 1934 年に『探究の論理』を出し [3] 、その英語版『科学的発見の論理』(1959)は、いまでは科学哲学の古典とされています [1] 。この課では、ポパーが科学と科学でないものの間に引いた線、反証可能性を読みます。 この課の問い 「この占いはよく当たる」「この説で何でも説明がつく」。何を見ても自分の説に合う、と言われると、その説はとても強そうに見えます。けれども、どんな出来事が起きても外れることのない説は、本当に世界について何かを教えているのでしょうか。外れうることが、なぜ科学のしるしになるのでしょうか。 この課のことば 境界設定の問題 科学と、科学でないもの(論理学、形而上学、精神分析など)とを、何で分けるかという問い。ポパーはこれを科学哲学の中心の問題としました [1] 。 反証可能性(はんしょうかのうせい) ある理論と両立しない観察の報告が、少なくとも考えのうえでありうること。外れうる予言をする理論は反証できます。ポパーはこれを科学の境界のしるしとしました [1] 。 検証と反証 検証は、経験によって言明が正しいと確かめること。反証は、経験によって言明が誤りだと示すこと [1] 。 験証(けんしょう) 英語の corroboration 。理論が厳しいテストに耐えたこと。正しいと証明されたのではなく、外れうる「危険な」予言が当たったときにだけ数える、とポパーは言います [1] 。 基本言明 「時空のこの領域に X がある」という形の、一つの事柄についての言明。普遍の法則と矛盾しうるので、反証の手がかりになります [1] 。 補助仮説 理論から予言を引き出すときに、理論と一緒に置く前提(観測の道具が正しく働く、など)。予言が外れたとき、理論でなく補助仮説を疑う道が残ります [1] 。 反証可能性――外れうることが科学のしるしになるのはなぜか この課程のヒュームの課では、未来が過去に似るという前提は論証でも経験でも支えられない、という議論を読みました。カルナップの課では、確かめる道筋の無い文は何も言っていない、として形而上学を退ける議論を読みました。ポパーはヒュームの論理の批判を受け入れたうえで、問いを変えます。どの文に意味があるか、ではなく、科学と科学でないものを何で分けるか、です [1] 。 この章では、確証の多さが科学のしるしにならない理由、確かめることと反駁することの非対称、反証が実際にはどう決まるのか、を順に読みます。 境界設定の問題――確証の多さは科学のしるしではない ポパーは『推測と反駁』(1963)の第 1 章で、1919 年ごろに四つの理論を比べたときのことを振り返っています [2] 。相対性理論、マルクスの歴史の理論、フロイトの精神分析、アドラーの個人心理学です。若いポパーには、後の三つがどこか科学のふりをしているように見えました [1] [2] 。 後の三つの信奉者には、世界は理論を確かめる例で満ちて見えました。ポパーの例です (図 1) 。一人の男が子どもを水に突き落とし、別の男が命をかけてその子を救おうとします。アドラーの理論は、どちらも劣等感で説明できます。前の男は罪を犯す度胸を、後の男は救う度胸を、自分に示したかったのだ、というわけです。フロイトの理論も、前者を抑圧で、後者を昇華で説明できます [1] [2] 。 一つ目:突き落とす男 アドラーの理論:劣等感 罪を犯す度胸を 示したかった 確証! 落ちた子ども 二人の男の例はポパーが作ったもの 情景の細部は本教材の作例 二つ目:飛び込む男 アドラーの理論:劣等感 救う度胸を 示したかった 確証! 脱いだ上着 アインシュタイン:危険な予言 外れれば倒れる 図 1 アドラーの理論は、突き落とす男も救う男も同じ劣等感で説明し、どちらからも「確証」の矢印が戻ります。下の枠の日食の予言だけが、外れる危険を負っています(二人の男の例はポパーのもの [2] 。情景は本教材の作例)。 正反対の二つの振る舞いが、どちらも理論の「確証」になってしまいます。ポパーは、このいつでも合うことこそが理論の弱さだと考えました [1] 。これに対してアインシュタインの理論は、重い天体の近くで星の光が曲がると予言しました。1919 年の日食の観測で光が曲がっていなければ、理論は倒れていたはずです [2] 。 ここからポパーは結論します。確証は、ほとんどどの理論にも簡単に得られます。だから確証が数えられるのは、外れうる「危険な」予言が当たったときだけです [1] 。よい理論は「これこれは起こらない」と禁じます。反駁できるどんな出来事も考えられない理論は科学ではなく、科学の身分の基準は反証できることだ、とポパーは言います [1] [2] (表 1) 。 この表で分かること: 外れうる予言をした理論だけが、科学のテストにかかっている、とポパーは見ました。 理論 反する観察はありうるか 合う例の見え方 ポパーの判定 アインシュタインの相対性理論 光の曲がり方が外れれば倒れる 危険な予言が当たった 反証できる科学 フロイトの精神分析 どんな振る舞いも説明できる 至る所に確証が見える 科学以前(反証できない) アドラーの個人心理学 どんな振る舞いも説明できる 至る所に確証が見える 反証できない マルクスの歴史の理論 初めは外れうる予言をした 外れた後に解釈を直した 場当たりの手直しで非科学 表 1 『推測と反駁』第 1 章でポパーが比べた四つの理論。判定の言い方は SEP の整理によります [1] [2] 。 この基準で、物理学や化学は科学に入り、精神分析は科学以前のもの、占星術や骨相学は擬似科学とされます [1] 。ただし精神分析の判定には、のちにグリュンバウムが強く反論しました。二人の男の場面はポパーが作った例で、フロイトの症例から取ったものではない、というのです [1] 。 ここで間違えやすい 反証できないことを「誤りだ」「無意味だ」と取らないようにしましょう。SEP の整理では、ポパーの線の外には形而上学だけでなく論理学も入ります [1] 。論理学が無意味でないことから分かるように、この線は意味のある文と無意味な文を分ける線とは別のものです(本教材の読み方)。 検証と反証の非対称――一つの反例が普遍の法則を倒す ポパーは、帰納は論理で正当化できないというヒュームの批判を正しいと認めました。この点で、同時代の哲学者の中では珍しい人でした [1] 。何度同じことを見ても、次も同じだと論理で示すことはできません。けれどもポパーは、そこから懐疑に陥るのではなく、さらに進んで、科学は実際には帰納を使っていない、と論じます [1] 。 鍵になるのは、確かめることと反駁することの非対称です。自然科学の法則は「すべての A は X である」という普遍の言明の形をとります。X である A をいくら数えても、まだ見ていない A が残るので、この言明は経験によって検証しきれません [1] 。ところが同じ言明は「X でない A は一つも無い」と同じことなので、X でない A がただ一つ本当にあれば、反証されます。例外は規則を「証明する」どころか、規則をはっきり反駁するのです [1] 。 ポパー自身、『探究の論理』の初め(§1)で白鳥を例に挙げ、白い白鳥をどれほど多く観察しても、すべての白鳥が白いという結論は正当化されない、と述べています [3] 。これを本教材の作例で場面にしてみましょう (図 2) 。白い白鳥しか見たことのない村の人々が「すべての白鳥は白い」と言います。一万羽を数えても、この言明は確かめきれません。ところが旅人が黒い白鳥を一羽連れてきて、皆がそれを本物の白鳥だと認めれば、言明は誤りになります。 テスト 推測から危険な予言を引き出し、 観察や実験にさらす 反証 予言が外れる。 理論を退け、新しい 問題と推測へ 験証 予言が当たる。 最良の理論として 仮に残す (検証ではない) 図 2 推測と反駁の分かれ道です(『探究の論理』『推測と反駁』の論点を本教材が整理)。左の道は予言が外れて理論が退けられ、新しい問題と推測へ戻ります。右の道は予言が当たって験証を得ますが、検証ではなく、より厳しいテストを待つ仮の勝ちです。 だから、ポパーによれば本物の科学の理論はみな「禁止」の形をとります。エネルギー保存の法則は「永久機関は無い」と言い表せ(『探究の論理』§15)、永久機関が一台でも本当に見つかれば、法則は反証されます [1] [3] 。厳しいテストに耐えた理論は高い験証を得ます。しかしそれで検証されたことにはならず、反証されるか、よりよい理論に取って代わられるまで、いまのところ最良の理論として仮に保たれるだけです [1] 。 ここから、科学の始まり方の見方も変わります。ベーコンやニュートンの流れは、まず純粋な観察から始めよ、と説きました。ポパーはこれを誤りとします。どの観察も何を見るかを選んでおり、理論を背負っていて、理論抜きの観察はありません [1] 。科学は観察からではなく問題から始まり、観察は、ある理論が問題の答えとして通用するかを試すために選んで行われるのです [1] 。 ここで間違えやすい 反証された理論はもう役に立たない、あるいは、反証されていない理論は正しいと証明された、と取るのは誤りです。テストに耐えた理論も、いまのところの最良の推測として仮に保たれているだけです [1] 。もう一つ、ポパーが「理論は一つの反例で必ずすぐ捨てられる」と言った、と取るのも誤りです。それは論理の話で、実際の方法はずっと込み入っていることを、ポパー自身が認めています(次の節) [1] 。 反証の実際――沼地に打ち込んだ杭の上の科学 ポパーは、反証の論理と、それを実際に使う方法とを分けます。論理は単純で、普遍の言明は本物の反例が一つあれば反証されます。けれども方法の上では、観察の偏りや測定の誤りがあるので、反例らしい観察を本当の反証と認めるかどうかは難しい問題です [1] 。 反証の手がかりになるのは、「時空の領域 k に永久機関である装置がある」のような、一つの事柄が「ある」と言う言明、すなわち基本言明です。基本言明は誰でもテストできるものでなければならないので、それ自身も反駁されえます [1] 。テストを限りなく続けることはできないので、研究者たちはどこかで、ある基本言明を受け入れると決めて止めます。経験はこの決定を促しはしますが、基本言明を正当化はしない、とポパーは言います(2002 年版 87〜88 頁)。言明を正当化できるのは、ほかの言明だけなのです [1] [3] 。 ポパーはこの受け入れを、陪審の評決にたとえます(『探究の論理』§29–30)。陪審は、決められた手続きに従い、示された証拠から、事実についての評決に合意します。評決は事実の言明として扱われますが、陪審が認めたから正しいとは限らず、だからこそ評決を覆す決まりがあります(同 92 頁) [1] [3] 。受け入れた基本言明も同じで、いつでも問い直しに開かれています。 そのためポパーは、科学は固い岩盤の上には立たない、と言います。科学の理論の体系は、沼地に杭を打って建てた建物のようなものです (図 3) 。杭は上から沼へ打ち込まれますが、自然の固い底までは届きません。打ち込むのをやめるのは、底に着いたからではなく、杭がいまのところ建物を支えるのに十分だと思えたからです(同 94 頁) [1] [3] 。 沼地に打ち込んだ杭の上の科学 これで十分 科学の理論の体系 上から打ち込む 受け入れた 基本言明= 取り決めの杭 与えられた固い底は無い 図 3 沼地に上から打ち込んだ杭の上に建つ、科学の建物です。杭は固い底に届いておらず、いまのところ建物を支えるのに十分だと思えたところで、打ち込むのを止めただけです(たとえはポパーのもの [3] 。人物と吹き出しの言葉は本教材の作例)。 これに対して、理論はそもそも反証に強く抵抗する、という批判があります。パトナムは、予言が外れたとき、法則と補助仮説のどちらが誤りかは分からず、科学者はふつう補助仮説の側を疑う、と論じました。ラカトシュも、理論は補助仮説の大きな「守りの帯」に囲まれている、と言います [1] 。ただしポパーは『探究の論理』(§20)の段階で既に、テストできる度合いを増す補助仮説の導入は認めていました [3] 。争点は、補助仮説の手直しを認めるかどうかではなく、科学の手直しと、反証を逃れるためだけの場当たりの手直しとをどう