デリダ――二項対立の序列を崩して読む(脱構築・差延) — Epoché
現代 構造主義とポスト構造主義 約 17 分 本文 約 7,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 序列・逆転・差延の 3 つ 序列 西洋の哲学は、本質と見かけ、魂と体、声と書き言葉、善と悪のような対を立て、いつも片方を上に置いてきた、とデリダは見た。声は、自分が話すのを自分で聞くことで考えにじかに近く見えるため、書き言葉の上に置かれた、と『声と現象』(1967)で論じた。 逆転 脱構築は、まず対の上下を逆にし、次に下に置かれていた側を、対と序列そのものの「源」として書き込み直す。ただしこの二つの段は時間の順に一度ずつ踏む手順ではなく、逆転は繰り返し要る、とデリダは『ポジシオン』で断っている。 差延 書き込み直された語の一つが、綴りを一字変えた「差延」である。今はいつも過去と未来とのわずかなずれを含み、意味は一つに決まりきらない。差延は対の下に据わる新しい土台ではなく、その決めきれないずれの名である。 はじめに ジャック・デリダ(1930〜2004)は、アルジェリア生まれのフランスの哲学者です。1967 年に出した 3 冊の本のどれにも、自分の仕事を指す語として「脱構築」を使い、この語はたちまち広まりました [1] 。 この編のソシュールの課では、語の意味が語と語の違いから生まれることを、レヴィ=ストロースの課では、対立の組でできた構造を読みました。デリダは、差異と対立を手がかりにする考え方を受け継ぎながら、対立の組そのものに目を向けます。向かい合う二つの語は対等に並んでいるのではなく、ほとんどいつも片方が上に置かれている、というのです [1] 。 この課では、まず哲学が立ててきた対の序列を、声と書き言葉を例に読みます。次にその序列を崩す脱構築の二つの段を、最後にデリダが「差延」と呼んだ、意味が決まりきらないずれを読みます。デリダの文体は論証より喚起に寄っていて、熱い支持と強い反発の両方を呼びました [1] 。 この課の問い 「話し言葉が本物で、書き言葉はその写し」「本質が大事で、見かけは二の次」。私たちは対になった二つの語で物事を分け、しかも知らないうちに片方を上に置いて考えています。その上下の順は、本当に動かせないのでしょうか。下に置かれた側から読み直すと、何が見えてくるのでしょうか。 この課のことば 二項対立 「話し言葉/書き言葉」「本質/見かけ」「魂/体」のように、二つの語を向かい合わせて物事を分ける組。デリダは、こうした組にはほとんどいつも上下の序列が付いていると見ました。 脱構築(だつこうちく) フランス語の déconstruction。対の上下を逆にし、下に置かれた側を読み直すことで、その対がどう組み立てられたかを確かめる読み方です。ただ壊すことではありません。 差延(さえん) フランス語の différance。「差異(différence)」の e を a に変えたデリダの造語です。今がいつも過去と未来とのわずかなずれを含み、意味が一つに決まりきらないことを指します。 痕跡(こんせき) どんな経験にも含まれる、最小の繰り返しうる形。今の経験の中に残る、たった今過ぎたものの名残りのようなものです。 反復可能性 言葉や記号が、もとの話し手や場面から離れても、何度でも繰り返し使えるという性質。書き言葉で目立ちますが、声にもある、とデリダは見ます。 脱構築――対の上下を崩して読む デリダが問題にしたのは、哲学が物事を二つに分けるとき、知らないうちに付けてきた上下の順です。この章では、①哲学が立ててきた対の序列(声と書き言葉)、②それを崩す脱構築の二つの段、③序列を揺るがす「差延」を、順に読みます。 対の序列――声はなぜ書き言葉の上に置かれたのか デリダが初期に批判の相手としたのは、彼が「形而上学」と呼び、ニーチェにならって「プラトン主義」とも呼んだ考え方です。物事は対立する二つに分かれていて、その一方が他方より価値が高い、とみる見方です [1] 。この時期のデリダは、西洋の哲学の伝統を、まるで一枚岩のように語っています [1] 。 SEP の筆者ローラーは、その対の例として、見えない知性のものと見える感覚のもの、本質と見かけ、魂と体、生きた記憶と丸暗記、声と書き言葉、善と悪を挙げます [1] (表 1) 。どの組でも、片方が本物とされ、もう片方はその写しや付け足しのように扱われてきました。 この表で分かること: 哲学が立ててきた対では、どれも片方が上に置かれてきました。脱構築は、この上下を逆にし、下の側を読み直します。 対 上に置かれた側 下に置かれた側 下に見られた理由(本教材の言い換え) 知性/感覚 見えない知性のもの 見える感覚のもの 移ろい、確かでない 本質/見かけ 本質 見かけ 本当の姿でなく表面 魂/体 魂 体 魂の入れ物にすぎない 生きた記憶/丸暗記 生きた記憶 丸暗記 わからずになぞるだけ 声/書き言葉 声 書き言葉 話し手から離れた写し 表 1 デリダが崩そうとした対の例。対の挙げ方は SEP の整理によります [1] 。右の列は、伝統の見方を本教材が短く言い換えたものです。 中でもデリダが繰り返し取り上げたのが、声と書き言葉の序列です。『声と現象』(1967)でデリダは、フッサールが心の中の独り言、つまり自分が話すのを自分で聞くことに、比べるもののない位置を与えている、と読みます [1] [4] 。話すことと聞くことの間に外への回り道が無く、話したその瞬間に自分の声が聞こえるように見えるからです。考えに最も近いものとして、声は上に置かれます。書かれた文字は逆に、書いた人がその場にいなくても読まれ、引用されます。考えから離れた写しに見えるので、下に置かれてきました (図 1) 。 声で話す ↻ 自分の声を自分で聞く 考えにじかに近く見える 書き置きが読まれる 去る先生 明日は小テスト ↻ 朝 昼 放課後 書いた人がいなくても読まれる 図 1 声と書き言葉の序列を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の絵では、先生が話しながら自分の声を自分で聞き、考えにじかに近いように見えます。二つ目の絵では、書いた先生がいなくても、書き置きが時間を違えて何度も読まれます。二つの絵の ↻ の印は、繰り返し使えるという性質が、声にも文字にもあることを示します。 しかしデリダは、フッサール自身の時間の記述がこの見方を崩す、と論じます。フッサールによれば、今この時には厚みがあり、たった今過ぎたものの記憶と、これから来るものの予期が含まれています。だとすれば、黙って自分に語りかけるその瞬間にも、話す私と聞く私を分ける、ごく小さな隙間があるはずです [1] 。さらに、声で話す言葉も、前から誰もが使い、これからも繰り返し使える形でできています。繰り返し使えるという書き言葉の性質(反復可能性)は、声の中にもあるのです [1] 。 ここで間違えやすい デリダが、話し言葉より書き言葉の方が大事だと言った、と取らないでください。問われているのは、どちらが上かではなく、二つを上下に分ける見方そのものが確かかどうかです。また、ここでのフッサールの読み方には、エヴァンズ(1991)をはじめ、現象学の研究者から強い批判があります [1] 。 脱構築の二つの段――逆にして、書き込み直す では、序列はどう崩すのでしょうか。デリダは 1971 年の対談「ポジシオン」と 1972 年の『散種』の序文で、脱構築を「二つの段」として説明しました(『ポジシオン』英訳 41〜42 頁) [1] [2] 。SEP の筆者は、本質と見かけの対を例に、これを解きほぐしています [1] 。 第一の段は、序列の逆転です。本質が見かけより上なら、見かけの方を重く見ます。たとえばヒュームのような経験論の議論を使えば、本質についての知も、見えるものの経験に拠っていると示せます。すると本質は、見かけの外にある別のものではなく、見かけの中に混ざっていたことになります。ここから振り返ると、伝統のはじめに、両者を二つの極に切り分ける「決定」があったことが見えてきます。この決定こそが、プラトン主義を形づくっています [1] 。 第二の段は、書き込み直しです。下に置かれていた語を、対と序列そのものの「源」として書き直します。見かけの経験はいつも時間の中にあり、今と過去・未来とのわずかなずれを含みます。このずれはどちらとも決めきれない(決定不可能な)ので、最初の決定を揺るがします。書き直したしるしに、デリダはしばしば綴りを変えます。差異( différence )を差延( différance )と書くのがその例です [1] (図 2) 。 もとの対 本質が上、見かけが下に置かれている 第一の段:逆転 見かけを重く見る。本質は見かけに 混ざっていた 決定が見える 伝統のはじめに、二つを切り分ける 決定があった 第二の段:書き込み直し 下の語を、決めきれないずれ(差延)と して書き直す 逆転をやり直す 序列は立ち直りうるので、逆転は 繰り返し要る 図 2 脱構築の二つの段を、SEP の筆者が使う本質と見かけの例で並べたものです(箱と矢印は本教材の整理) [1] 。二つの段は時間の順に一度ずつ踏む手順ではなく、点線の段のように逆転は繰り返し要ります [2] 。差延は対の下に据わる土台ではないので、土台の形には描いていません。 ただし、二つの段は、一度ずつ順に踏めば済む手順ではありません。デリダ自身が『ポジシオン』で、これは時間の順に並んだ段階ではなく、逆転は何度も繰り返さなければならない、と断っています [2] 。倒したはずの序列は、また立ち直りうるからです。 書き込み直された語に、デリダは「古い名前」を当てます。差延のほか、パルマコン(薬でも毒でもあるもの)、代補、痕跡、間隔化などです(『ポジシオン』英訳 43 頁) [1] 。どれも長く哲学で下の側を指してきた語ですが、ここでは、序列を立てた決定より古く、形而上学が名前を与えてこなかったものを指すのに使われます [1] 。 ここで間違えやすい 脱構築を、文章をばらばらに壊すことや、どう読んでもよい何でもありの読み方と取らないでください。英語圏ではそう語られがちでしたが、脱構築は、序列を逆にし、下の側を書き直すという筋を持つ読み方です [1] 。もう一つの誤解は、逆転だけで終わると取ることです。上下を入れ替えるだけなら、同じ形の序列が残ります。 差延――今はいつも過去と未来にずれている 差延( différance )は、差異( différence )の e を a に変えたデリダの造語です(論文「差延」、『哲学の余白』1972 所収) [3] 。フランス語では二つは同じに発音され、書いたときにだけ違いが見えます。声では聞き分けられない違いを名前にしたこと自体が、声を上に置く序列への問いになっている、と本教材は読みます。 この語が指すのは、経験の中のごく小さなずれです。どんな経験も、今この時に起こります。今起きていることは、ほかのどの今とも違う一回きりの出来事です。ところが今の中で、私はたった今のことを覚えていて、これから起こることを予期しています。覚えておけるということは、繰り返せるということです。だから今の経験は、出来事でありながら、同時に繰り返しうるものでもあります。デリダにとって、この「同時に」が要の点です [1] 。 たとえば旋律を聴くとき、一つの音が旋律の一部に聞こえるのは、直前の音がまだ耳に残り、次の音をうっすら予期しているからです(本教材の作例) (図 3) 。このずれは、ふだんはほとんど気づかれません。けれども気づくと、自分が今の知覚を経験しているのか、記憶を経験しているのか、決めきれなくなります。今は、過去と未来に「汚されて」いるのです [1] 。 今鳴る音に、過ぎた音と来る音 どこまでが「今」か 過ぎた音の名残り 来る音の予期 différence / différance 発音は同じ。書くと違いが見える 図 3 旋律の一音を聴く場面です(本教材の作例の絵)。真ん中の今鳴る音は、過ぎた音の名残りと来る音の予期にはさまれていて、点線の枠のように「今」だけをきっぱり切り取れません。下の二語は、発音が同じで、書くと違いが見える差異と差延です。 どの経験にも含まれるこの最小の繰り返しうる形を、デリダは「痕跡」と呼びます。言葉は突きつめれば繰り返しうる形でできているので、痕跡は言葉の手前の言葉のようなもので、デリダはこれを「原エクリチュール」とも呼びます [1] 。 注意したいのは、差延がすべての下に据えられた新しい土台ではないことです。伝統の哲学では、始まりはいつも自分と同じ、まじりけのないものと考えられてきました。デリダの議論では、始まりはすでに分かれていて、それだけで取り出せるものはありません [1] 。差延は、ある物として示せる起源ではなく、二つを切り分けたはずの決定を内側から揺るがす、決めきれないずれの名です。 ここで間違えやすい 差延を、意味は何でもよい、言葉はでたらめだ、という主張と取らないでください。デリダは意味が無いとは言っていません。意味が一つの今に、ずれなく、まるごと現れることは無い、と言ったのです [1] 。 論争の注意:サールとの応酬とケンブリッジの書簡 デリダの議論は、分析哲学の側から強く批判されました。1971 年の講演「署名 出来事 コンテクスト」は、オースティンの言語行為論を論じたものです。その英訳が 1977 年に雑誌『グリフ』に載ると、サールが応答を書き、デリダの論証とオースティン理解の欠陥を指摘しました。デリダは同じ年、約 90 頁の反論「有限責任会社 abc」で応じます [1] 。1992 年、ケンブリッジ大学の名誉学位には分析哲学者たちが反対の公開書簡を出しましたが、学位は授けられました [1] 。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見た、脱構築の二つの段を、デリダ自身の説明で読みます。本文はまだ保護期間内なので、訳ではなく、本教材がその説明の要点をまとめて示します。原文の文の順には従っていません。 デリダ『ポジシオン』所収の対談「ポジシオン」 序列を逆にし、書き込み直す 1971 年の対談で、デリダは問いに答える形で、脱構築の進め方を短く述べています。下の三つの段は、その要点を、主張・理由・限定の順に本教材