ヨナス――技術の時代には未来への責任が求められる(責任という原理・未来世代) — Epoché
現代 心の哲学と技術の哲学 約 15 分 本文 約 6,300 字 図 4・表 1 原典 1 節 この課の要点 変化・命法・原型の 3 つ 変化 技術は、人間の行いの及ぶ範囲を、身の回りといまの時から、地球全体と遠い未来へ広げた。同じ時と所にいる人どうしを考えてきた従来の倫理は、この新しい行いの結果を測る物差しを持たない、とヨナスは論じた(『責任という原理』第 1 章)。 命法 そこでヨナスは、自分の行いの結果が、地上に本当の人間の生活が続くことと両立するように行え、という新しい命法を立てた。結果が見通せないときは、恐れを手がかりに、良い見通しより悪い見通しを重く見よ、とも言う(第 2 章)。 原型 この責任の原型は、生まれたばかりの赤ん坊への責任だ、とヨナスは言う。赤ん坊はお返しも約束もできないが、そこに息をしていることが世話を求める。未来世代への責任も、お返しを当てにしない、この種類の責任である(第 4 章)。 はじめに ハンス・ヨナス(1903〜1993)は、ドイツに生まれ、のちアメリカで教えたユダヤ系の哲学者です。マールブルク大学でハイデガーのもと博士号を得て(1928 年)、生涯の友アーレントとも出会いました [3] 。 1933 年にドイツを離れ、第二次世界大戦ではイギリス軍のユダヤ旅団で戦いました。母はアウシュヴィッツで殺されています。戦後は 1955 年から 1976 年まで、ニューヨークのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで教えました [3] 。 仕事はふつう三つの時期に分けられます。グノーシスの研究、生命と心を論じた『生命の現象』(1966 年)、技術の時代の倫理を論じた『責任という原理』(ドイツ語 1979 年、英訳 1984 年)です。この課で読むのは三つ目です [3] 。SEP に本人の項目は無く、本課は SEP「技術の哲学」の項目 [2] と本人の著作、Wikipedia(英語版)に拠ります。 技術が変えた行い、見通せない結果の判断、責任の原型の順に読み、赤ん坊の段を要約で確かめて、前に読んだカントとベンサムと並べます。 この課の問い 道を一本切り開き、川に橋を架けたとします。昔は、こうした行いの結果は身の回りのいまの暮らしの中で終わる、と考えられてきました。けれども今の技術は、核兵器や生物工学のように、人類と自然そのものを変えうる力を持っています [2] 。まだ生まれていない人々に対して、私たちは何かを負っているのでしょうか。負っているなら、それはどんな種類の責任なのでしょうか。 この課のことば 命法 「〜せよ」という形で行いを命じる決まりです。前に読んだカントの定言命法が代表で、ヨナスは技術の時代のための新しい命法を立てました。 未来世代 まだ生まれていない、これから地上に生きる人々です。今はいないので、私たちに何かを求めることも、お返しをすることもできません。 恐れの発見術 何が危うくされうるかを、悪い事態を思い描くことで先に見つける方法です( Heuristik der Furcht )。訳語は本教材のものです。 相互性 互いに権利を持ち、義務を負い合う関係です。約束や契約の倫理はこれに拠ります。ヨナスの言う責任は、相手からのお返しを前提にしません。 未来への責任――技術の時代に倫理はどう変わるか この編の前の課では、ライルからチャーマーズまで、心とは何かを問いました。ヨナスも『生命の現象』などで生命と心を論じましたが、主著『責任という原理』では向きを変え、心をもつ人間が技術で手にした力に、どんな責任が伴うかを問います [3] 。この章では、技術が行いをどう変えたか、見通せない結果をどう判断するか、その責任の原型は何か、を順に読みます。 行いの届く先が変わった――技術の時代の新しい命法 ヨナスは『責任という原理』の第 1 章を、古代の人間の姿から始めます。ソポクレス『アンティゴネー』の合唱は、船で荒れた海を渡り、大地を年ごとに鋤で掘り返す人間を、恐るべき力をもつものとして歌います [1] 。けれどもヨナスの読みでは、その力が及んでも、海は海のまま、大地は大地のままでした。人間の町は、大きな自然の中に築いた小さな囲いだったのです (図 1) 。 昔の行い 大地と海は残る 点線:結果の届く範囲 技術の時代の行い まだ生まれていない人々 結果が地球と未来へ届く 図 1 一つ目の絵は昔の行い、二つ目の絵は技術の時代の行いです。一つ目では、行いの届く範囲が点線の小さな円にとどまり、山と海は残ります。二つ目では、結果が地球全体と、まだ生まれていない人々にまで届きます。一つ目はヨナスが描く昔の人々の自己理解で、昔の技術が自然を損なわなかったという史実ではありません。その場面はヨナスが第 1 章で引くソポクレスの合唱により、建物と未来の人々は本教材の描き方です。 ここでヨナスが描くのは、昔の人々が自分の技をどう捉えていたか、という自己理解です。古代の技術が自然を一度も損なわなかった、という史実を述べているのではありません。ヨナス自身、昔の行いが常に無害だったわけではない、と断っています [1] 。要は、従来の倫理がどんな前提に立っていたかです。善悪が問われたのは人と人の間で、相手は同じ時と所にいる人でした。行いの結果も、行う人が見通せる近さにとどまると考えられていました [1] 。 今の技術は、この前提を崩します。SEP の整理では、ヨナスが責任を倫理の中心に置いた理由は二つあります。一つは、核兵器のように人類と地球を滅ぼしうる力や、生物工学のように自然と人間そのものを作り変える力を、技術が持ったことです。もう一つは、技術の進み方が、経済や政治の大きな利害や科学の競争に引かれ、一人ひとりの手を離れつつあることです [2] 。 そこでヨナスは新しい命法を立てます。英訳の言い方では、自分の行いの結果が、地上に本当の人間の生活が続くことと両立するように行え、というものです [1] [3] 。前に読んだカントの定言命法は、自分の格率が普遍的な法則になりうるかを問いました。ヨナスの命法が問うのは、行いの現実の結果と、それが遠い未来に及ぼす影響です。向ける相手も、一人の私的な行いより、社会の政策や集団の行いに重心があります(第 1 章) [1] 。この対比は、後の「比べてみる」で図にします。 ここで間違えやすい 二つの誤解に気をつけましょう。一つは、ヨナスが技術を捨てて昔の暮らしに戻れと言った、と取ることです。命法が求めるのは、技術の力に見合う責任であって、技術をやめることではありません(本教材の読み方)。もう一つは、技術は中立の道具で、悪いのは使い方だけだ、とヨナスが考えたと取ることです。この中立説は二十世紀に批判されました。ヨナスが問題にしたのは、技術の進み方がすでに一人ひとりの使い方を超えている点です [2] 。 恐れの発見術――悪い見通しを先に聞く 新しい技術の結果は、使われてみるまで確かには分かりません。何が起こるかの確率どころか、何が起こりうるかさえ見えないことがあります。ヨナスは第 2 章で、この知らなさにどう向き合うかを論じます [1] 。 手がかりは恐れです。私たちは、何を守りたいかより、何を失いたくないかの方を、先にはっきり知ることがあります。ヨナスは、病気になって初めて健康のありがたさが分かるように、危うくされる姿を思い描くことで、守るべきものが見えてくると言います [1] 。本教材は、この方法を「恐れの発見術」と訳します( Heuristik der Furcht )。ここでの恐れは慌てる気持ちではなく、考えるための手だてです。 ここから判断の決まりが出てきます。ある技術に、うまくいけば大きな益、しくじれば取り返しのつかない害、という二つの見通しがあるとき、悪い見通しの方を重く聞け、とヨナスは論じます [1] 。人類の存続そのものを、賭けの的にしてはならないからです (図 2) 。 見通せない技術 使うか。益と害の確率は 分からない 良い見通し 収穫が増える。 しくじっても後で 直せる 悪い見通し 取り返しが つかない。こちらを 先に聞く 図 2 結果が見通せない技術を前にした判断です(本教材の整理)。左の枝は良い見通し、右の枝は取り返しのつかない悪い見通しです。ヨナスは右の枝を先に聞き、人類の存続を賭けの的にしないよう求めます(第 2 章)。枝の中の例は本教材の作例です。 本教材の作例で考えてみましょう。村の井戸の近くに、よく効く肥料の工場を建てる話が出たとします。うまくいけば収穫は倍になります。けれども薬が地下の水に染み込めば、井戸は孫の代まで使えなくなるかもしれず、その見込みは誰にも分かりません。収穫の倍増と、二度と使えない井戸とを、同じ重さで天秤にかけてよいのか、とヨナスなら問うでしょう。 この問いは、今の技術の倫理にも引き継がれています。コリングリッジのジレンマと呼ばれる考えでは、技術の発展の早い段階では結果を左右しやすいのに見通しにくく、遅い段階では見通せても、社会に深く組み込まれて左右しにくくなります [2] 。見通せないうちにどう判断するか、というヨナスの問いは、ここでも形を変えて残っています(本教材の読み方)。 ここで間違えやすい 恐れの発見術を、怖がって何もしないことだと取らないようにしましょう。恐れは、何が危うくされうるかを先に見つけるための道具です。また、悪い見通しを先にする決まりを、どんな小さな危うさにも当てはめるものと取るのも誤りです。ヨナスが念頭に置いたのは、人類の存続や人間らしい生活そのものが賭けられる、取り返しのつかない場合です(本教材の読み方)。 責任の原型――息をする赤ん坊 未来世代への責任には、大きな難しさがあります。約束や契約の倫理は、互いに権利と義務を持ち合う関係、つまり相互性に拠ります。けれども未来世代はまだいないので、私たちに何かを求めることも、お返しをすることもできません。相互性からは、まだいない人々への責任は出てこない、とヨナスは考えます [1] 。 そこでヨナスは第 4 章で、お返しを前提にしない責任の原型を示します。生まれたばかりの赤ん坊です [1] 。赤ん坊は自分では何もできず、放っておけば生きられません。その赤ん坊が息をしていることそのものが、周りの者に、この子の世話をせよと求める、とヨナスは言います (図 3) 。ヨナスはここに、あるものがそこに在ることから「すべし」が出てくる、いちばん分かりやすい例を見ました [1] 。 そこに在ることが世話を求める お返しも約束もできない 世話をせよという求め 未来世代への 責任も同じ形 図 3 息をする赤ん坊と、それを見る人です。求めの矢印は赤ん坊から大人への一方向だけで、お返しを当てにしない責任の形を示します。この求めは背くこともできる規範の求めで、誰もが必ず従うという意味ではありません。赤ん坊の例はヨナス本人のもの(第 4 章)、窓の外の未来の人々は本教材の描き方です。 ただし、この求めは、誰もが必ず感じて従うという心の事実ではありません。ヨナスは、赤ん坊の求めは否定できないが、抗えないという意味ではない、と断っています [1] 。人はこの求めに背くこともできます。言われているのは、背けば責めを負う、という規範の話です。 ヨナスは、親と並んで政治家を、責任のもう一つの型に挙げます。どちらも、相手の暮らしの全体に、先々まで責任を負います [1] 。未来世代への責任は、この型を人類全体へ広げたものだ、と本教材は読みます。求められるのは、未来の人々の生き方を私たちが決めることではありません。彼らが人間として生きられる条件を残すことです。 ここで間違えやすい 一つ目の誤解は、未来世代には今の私たちと同じ権利がある、とヨナスが論じたと取ることです。まだいない人に権利を立てるのは難しいので、ヨナスは責任を、相手の権利からでなく、弱いものがそこに在ることから導きます [1] 。二つ目の誤解は、赤ん坊の例を、親の愛情という気持ちの話と取ることです。示されているのは、気持ちの有無にかかわらず向けられる求めの形です。 原典を読む この課の三つ目の節で見た赤ん坊の段を読みます。著作がまだ保護期間内にあるため、訳ではなく本教材の要約で示します。 ヨナス『責任という原理』第 4 章 赤ん坊の段 お返しのできない者が、責任を求める 第 4 章は責任の理論の章で、ヨナスは未来世代への責任の原型を一つの場面に求めます。下の三つの段は、主張・理由・たとえの順にまとめた本教材の要約です。 1 ヨナスは、あらゆる責任の原型は、生まれたばかりの赤ん坊に対する責任だ、と論じます。 2 未来世代への責任も、この種類の責任に属する、とヨナスは考えます。 3 そう論じる理由は、赤ん坊がお返しも約束もできないのに、なお責任の相手になるからです。 4 相互性の倫理では、まだいない人々への責任は基礎づけられません。 5 ヨナスによれば、責任は相手の権利からでなく、弱く傷つきやすいものがそこに在ることから出てきます。 6 ただし、その求めは否定できないが、抗えないものではない、とヨナスは断っています。 7 たとえば、息をしている赤ん坊を前にした人には、理屈を重ねなくても求めが向けられている、とヨナスは言います。 8 ヨナスは、そこに在ることがそのまま世話を求める、というこの形を、責任の手本とします。 原典 1 ハンス・ヨナス『責任という原理』(Insel 社、1979 年)第 4 章の、生まれたばかりの赤ん坊を責任の原型とする段を、本教材が要約したものです(訳ではありません) [1] 。段の位置は英訳(1984 年)の第 4 章 VII.1 で確かめました。 読み解き 1 段 1:要は、未来世代への責任を、誰もが知る赤ん坊への責任と同じ型で捉える運びです。 2 段 2:責任を生むのは相手の権利ではなく、相手の弱さと、そこに在ることです。求めは背くこともでき、心に必ず起こる反応の話ではありません。 3 段 3:図3 の矢印が赤ん坊から大人への一方向だけなのは、求めがお返しの約束なしに向けられるからです。 ここで間違えやすい この要約を訳として引用しないでください。ヨナスの文の言い回しは載せていません。引くときは、原文か、加藤尚武 監訳の日本語訳に当たりましょう。 比べてみる この