5 地図 3 カントとヘーゲル — 近代の転回 — Epoché
見取り図 — 二人の主著を年表で見る カント(1724–1804 年)とヘーゲル(1770–1831 年)の主著は、1780 年代から 1820 年代にかけて出ました。二人が何を問題にし、どう答え、いまどう読まれているかを、主著への入り方とあわせてたどります。 前の地図 地図 2 中世・近世 — 聖典・注釈・そして近代の入口 はカントの手前で止まりました。二人の後の哲学は 地図 4 近代・現代 — 分かれた道と、いま が扱います。カントはケーニヒスベルク(いまのロシア領カリーニングラード)の大学で長く教えました。1770 年に教授になり、約 10 年をかけて『純粋理性批判』を書きます [1] 。ヘーゲルはシュトゥットガルトに生まれ、1818 年にベルリン大学の教授になります [2] 。 年 カント ヘーゲル 1781 年 『純粋理性批判』(1787 年に改めた第 2 版) — 1783 年 『プロレゴーメナ』(主著の要点を短く説く) — 1784 年 「啓蒙とは何か」 — 1785 年 『道徳形而上学の基礎づけ』 — 1788 年 『実践理性批判』 — 1790 年 『判断力批判』 — 1795 年 『永遠平和のために』 — 1797 年 『人倫の形而上学』(法論と徳論) — 1807 年 (1804 年に没) 『精神現象学』 1812–1816 年 — 『論理学』全 3 巻(存在・本質・概念) 1817 年 — 『エンツュクロペディー』(1827・1830 年に改訂) 1821 年 — 『法の哲学』 1831 年以後 — 没後に歴史・美学・宗教・哲学史の講義録が出る 表の年は、二人の事典項目によります [1][2] 。 カント 1 — 人は何を知りうるか カントの問いは、経験に頼らずに知りうることはあるのか、あるならどこまでか、です。答えは、経験の枠組みは人の心が与えるので、その枠の中なら前もって知りうる、というものでした。枠の外にあるもの自体は知りえず、そこへ踏み出すと理性は自分と矛盾します。 何が問題になったか — 啓蒙の危機 啓蒙は、ニュートンの物理学の成功を背に、人の理性への信頼を強めました。けれども、その物理学は機械論です。自然がすべて因果の法則で決まるなら、自由や魂の居場所が無くなり、人は自分の行いに責任を負えなくなります。事典は、これを啓蒙の思想上の主な危機と呼び、『純粋理性批判』をそれへの応答と位置づけます [1] 。ヒュームが、原因と結果のつながりを習慣にもとづくものとしたことも、カントには懐疑への道に見えました [3] 。 どう答えたか — コペルニクス的転回 経験に頼らずに正当化される知識を、ア・プリオリな知識と呼びます。『純粋理性批判』は、人の理性にそれがどこまでできるかを吟味する本です。カントは前提を裏返しました。認識が対象に従うのではなく、対象が人の認識の仕方に従うと考えてみる。観測者の側を動かしたコペルニクスになぞらえた提案です [1] 。 経験は二つの働きからできています。感性は外から受け取る力で、空間と時間という形を与えます。悟性は考える力で、実体や原因といった概念(カテゴリー)を与えます [1] 。大きな家のまわりを歩き、壁を一面ずつ見たとします。どの面も一つの家に属すると判断し、誰が見てもそうだと考えます。一方、この家を見ると懐かしくなる、というつながりは自分だけのものです。この二つを分けるのが判断で、その規則がカテゴリーだ、とカントは論じます [1] 。 だから、どんな出来事にも原因がある、という自然の法則は前もって知りえます。心が経験をその法則に従って組み立てるからです。代わりに、知識は経験に現れるもの(現象)に限られ、心から独立にそれ自体としてあるもの(物自体)は知りえません。カントはこの限界を、神・自由・魂の不死を道徳の根拠から信じる余地として受け取りました [1] 。 理性が経験を越えると矛盾に陥る — アンチノミー 理性には、条件の付いたものをさかのぼり、それ以上条件の無いものを求める性質があります。こうして魂・世界の全体・神という理念を作り、主観の側の必要を物自体についての真理と取り違えます。世界の全体について考えると、正反対の主張がどちらも証明できてしまいます。カントはこれをアンチノミー(二律背反)と呼び、四つを挙げました [4] 。 世界は時間と空間に限りがあるか、無いか。 物は、それ以上分けられない部分からできているか、限りなく分けられるか。 自然の因果のほかに自由という最初の原因があるか、無いか。 必然的に存在するものがあるか、無いか。 初めの二つは両方とも誤りとされます。世界の全体は経験に与えられないので、「有限か無限か」の二択が成り立たないからです。後の二つは両方が正しくありうるとされます。自然の因果は現象について、自由は現象の外について考えうる、と分けるのです。カントは、この解決が自分の立場を間接に支えると考えました [4] 。 段階 2 以上向けの補足です。現象と物自体の区別には標準の解釈がありません。二種類の別の対象と見る伝統的な読みと、同じ対象を二つの面から見る読みが並び、テキストにはどちらにも合う箇所があります [1] 。 カント 2 — 何をなすべきか、何を望みうるか 道徳についてのカントの答えは、欲求や目的を条件にせずに命じる原理、定言命法です。それに従うことが、自分で自分に法を与える自律であり、自由だとされます。『判断力批判』は美と生き物を手がかりに、自然と自由の溝に橋を架けようとしました。啓蒙と平和も論じました。 何が問題になったか — 責任と自由 ある人が盗みをしたとします。それを悪いと言えるのは、その人に盗まないこともできた場合だけです。ところが決断も自然の出来事なら、原因は生まれる前までさかのぼり、他にしようがなかったことになります。カントは、行為の原因が時間の外にありうるとして、自由の余地を確保しようとします(この読みには異論もあります)。自由は理論的には知りえませんが、道徳の法則に縛られているという誰もが持つ意識(理性の事実)が、自由を信じる根拠になります [1] 。 どう答えたか — 定言命法と自律 「コーヒーが欲しいなら喫茶店へ行け」は、欲しいという条件の付いた命令で、仮言命法と呼ばれます。「盗むな」は、盗みたい欲求があっても取り下げられない、条件なしの命令です。カントは道徳の法則を、この定言命法と考えました [1] 。言い表し方はいくつかあります [5] 。 普遍的法則の方式: 自分の行為の方針(格率)が普遍的な法則になることを、意志できるかを問う。 人間性の方式: 自他の人間性を、単なる手段としてだけでなく、目的として扱う。 自律の方式と目的の国の方式: 自分を、皆と等しく法則を与える立法者の一人として考える。 カント自身の例があります。記録の無い預かり物を否認してよい、が皆の法則になれば、誰も預けなくなります。この方針は法則にすると自分を壊すので、許されません。欲求を満たすためだけに行うとき、人は内なる自然に法則を決めさせています。法則を自分の理性から自分に与えるとき、人は自律しており、自由です [1] 。 何を望みうるか — 最高善と要請 理性は、徳と幸福がそろった世界(最高善)という理念も作ります。それを目指すには、それが可能だと信じる必要があり、そのために魂の不死と神の存在を信じる必要がある、とカントは論じました。知識ではなく、道徳の側から求められる信念で、純粋実践理性の要請と呼ばれます [1] 。 『判断力批判』 — 美と生き物 自然と自由の溝に、カントは判断力で橋を架けようとします。個別のものから、それに合う普遍を見つけ出す「反省的」な判断力です [1][6] 。美しいという判断は、関心を離れた快にもとづき、概念によらずに皆の同意を求めます。目的を当てずに目的にかなった形を感じ取り(目的なき合目的性)、皆が同意すべきだという必然性を含みます [6] 。自分で自分を保つ生き物は、目的を当てて考えるほかありません。ただしそれは自然の性質ではなく、探究を導く規則だとされます [1] 。 啓蒙と永遠平和 「啓蒙とは何か」は、啓蒙を、自分で招いた未成年の状態から抜け出し、自分で考えることだと説明します。理性の私的使用と公的使用も分けました。牧師は職務の説教では教会の教えを説き、学者としてはその欠点を論じてよい、という区別です [7] 。 『永遠平和のために』は、常備軍の廃止や内政干渉の禁止などの予備条項の後に、三つの確定条項を立てます。各国が共和制であること、国家どうしが連合に加わること、訪問の権利としての世界市民法です。共和制なら、戦争を決める人と代価を払う人が同じになるので、戦争にためらいが生まれる、とカントは考えました [7] 。 ヘーゲル 1 — 『精神現象学』と意識の経験 ヘーゲルは、知りえない物自体を残したカントの結論を受け入れませんでした。理性は頭の中だけでなく、世界の中にもある、と考えたのです。『精神現象学』は、意識がものの見方を試しては崩し、次の見方へ進む道筋をたどり、読者を哲学の立場まで導きます。 何が問題になったか — カントの残した壁 ヘーゲルは、知識は人の理性のあり方による、というカントの転回を受け入れました。けれども、世界がそれ自体でどうあるかは知りえない、という結論は退けます。人の内にある理性は、世界を形づくる原理でもあるからです。カントは理性が自分で生む矛盾を錯覚として扱いましたが、ヘーゲルにとってそれはものごとの側にもある矛盾で、より広い概念へ進むきっかけでした [3] 。 どう答えたか — 意識の経験の道筋 『精神現象学』は、ナポレオンの軍がイェーナを占領するさなかに書き上がり、1807 年に出ました。読者を純粋に概念で考える立場まで導く準備の本で、主人公の成長をたどる教養小説にたとえられます。主人公の「意識」は、何が確かな知識かの基準を試し、その基準が内側から矛盾を生んで崩れると、次の基準へ進みます [2] 。章の流れは次のとおりです [2] 。 意識: 目の前の「これ」を受け取る感覚的確信から、知覚、悟性へ。いちばん直接に見える中身も、概念を通してつかまれていると分かります。 自己意識: 自己意識は、自分を認める他者を自分も認めることに支えられます。承認をめぐる闘争が論じられます。 理性: 自然を観察する理性と、行為する理性の歩みです [8] 。 精神: 社会の習わし(人倫)や文化の形が主題になり、終わりにカント的な道徳の立場が置かれます。 宗教と絶対知: 理論と実践の知をまとめ、本来の哲学が始まる立場に至ります。 とくに知られる承認の議論は、20 世紀にコジェーヴの講義が広め、近年はホネットらが別の仕方で読み直しています [2] 。解説書でも、この章の「支配と従属(主と奴)」に独立の節が立てられています [9] 。 「正・反・合」という言い方について ヘーゲルの弁証法は、正・反・合の三拍子だとよく説明されます。この読みには手がかりがあり、『論理学』の冒頭で「存在」と「無」が「生成」へ進む所はこの型に合います。いまも支持する研究者がいます。一方で、型に収まらない箇所が多く、ヘーゲルは自分の哲学をこの語で説明していません。三つ組を形だけ当てはめるやり方を、生気の無い図式だと批判してもいます [3] 。 ヘーゲル自身は、論理の三つの面を説きます。概念が固定して見える面、その一面性が崩れて反対へ移る面、対立の統一をつかむ面です。三つ目は、前のものを否定しつつ保つ「止揚」と呼ばれます [3] 。三拍子を入口の目安にとどめ、原典では移り行きを一つずつ確かめる読み方もあります。 ヘーゲル 2 — 論理学と、法・歴史・国家 『論理学』は、思考の基本の枠組み(カテゴリー)を、思考自身の力で展開していく本です。『法の哲学』は、家族・市民社会・国家と、自由が形をとる社会の仕組みを描きます。歴史は、精神が自分を自覚していく歩みとして語られました。 論理学 — 思考の枠組みを展開する 始まりは「存在」です。どんな考えの中身も、とにかく「ある」はずだからです。ところが中身の無い存在は「無」と区別できず、両方を含む「生成」が求められます。概念が矛盾で崩れ、それを含み込む次の概念が求められる。この進み方が全体を通して続きます。20 世紀には、新しい論理学に追い越された本だというラッセルの見方が広まりました。いまは、存在と思考の構造を示すカテゴリーの理論として読む解釈と、カントの「超越論的論理学」を継ぐものとして読む解釈が並んでいます [2] 。 法と国家 — 『法の哲学』 ヘーゲルはこの本の序文で、哲学をその時代を思考でとらえたものだと述べています。本は権利を持つ個人の意志から始まりますが、社会契約説のように個人を社会の原子とは考えません。所有も、互いを持ち主と認め合う承認に根ざすとされます。社会の倫理(人倫)は、愛で結ばれる家族と、市場で結ばれる市民社会の二つの原理で組み立てられ、国家が両者を互いに補わせます [2] 。 市民社会の分析は、後に影響を残しました。ヘーゲルは、各自の利己心が皆の必要を満たすというアダム・スミスの見方に同意します。そのうえで、歯止めの無い市場は貧困から抜け出せない層を生む、と見ました。マルクスはこれを生産手段の社会化の根拠にしましたが、ヘーゲル自身は経済を国家の枠に収め、福祉の介入で和らげる道を考えました [2] 。 歴史 — 精神が自分を自覚していく歩み 歴史哲学の講義では、ある民族が自分の原理に従って生き、それを振り返って自覚し、その自覚が新しい原理と共同体を生む、という歩みが語られます。事典は、この歴史像がはっきりとヨーロッパ中心だと書いています。その面を認めたうえで、基本の考えを切り離して生かそうとする研究もあります [2] 。 段階 2 以上向けの補足です。ポパーは『開かれた社会とその敵』(1945 年)で、ヘーゲルの国家観を 20 世紀の全体主義の先駆けとして批判しました。フィンドレイの 1958 年の入門書は、これへの反論として書かれたと見られています [2] 。 主著にはどの順で入るか 『純粋理性批判』と『精神現象学』は、独学で最初に開く本ではありません。入口の本、短めの原典、主著の前の 1 冊、主著と解説書の並