民主主義の起源――アテナイの民会とくじ引き — Epoché
思想 民主主義 約 28 分 本文 約 12,800 字 図 3・表 2 資料 1 節 この課の要点 語の意味・仕組み・現代の 3 つ 語の意味 デモクラティアは「民衆の支配」。トゥキュディデスが伝えるペリクレスの演説は、少数でなくより多くの者に治めがゆだねられていることを名の理由に挙げます。 仕組み アテナイでは市民が民会に出席し、評議会と法廷の人はくじで選ばれました。アリストテレスは、くじは民主的、選挙は寡頭的と見なされていると記します。 現代 近代の代表制は選挙を軸にしますが、くじは日本の裁判員や検察審査員の選び方に残り、市民の会議での使い方が論じられています。 はじめに 「民主主義」と聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのは選挙でしょう。候補者が演説し、有権者が投票し、票の多い人が議員になります。民主主義の国かどうかを、公正な選挙があるかどうかで見分けることも、よく行われます。 この課程の『ポピュリズム』の課では、「人民」の名で語る政治を見ました。では、民衆が自分たちを治めるという考えは、もともとどんな仕組みを指していたのでしょうか。この課では、民主主義ということばのもとになったギリシア語が使われた、古代ギリシアのアテナイにさかのぼります。 そこで出会うのは、今の常識とは逆向きの考え方です。アテナイでは、市民が民会に集まって決め、評議会や法廷で働く人をくじ引きで選びました。そしてアリストテレスは、役職をくじで決めるのは民主的、選挙で決めるのは寡頭的(少数者の支配に向く)と見なされている、と書き残しています。選挙こそ民主主義だと考える私たちには、意外に聞こえるでしょう。 なぜ今、二千数百年前の仕組みを学ぶのでしょうか。理由の一つは、選挙による代表制の民主主義が抱える問題を、くじで市民を選ぶことで解けるのではないか、という議論が現代の政治理論で行われているからです [1] 。選挙の他にどんな選び方がありうるのか、それぞれがどんな平等を実現するのかを考えるには、くじを本気で使った社会を知るのがいちばんの近道です。もう一つの理由は、民主主義ということばの意味が、時代によって大きく変わってきたことを知るためです。同じ語が何を指してきたかを確かめておくと、「これは本当の民主主義ではない」といった議論を、落ち着いて吟味できるようになります。 この課では、まず「民主主義」の定義と語の意味を確かめます。次に、アテナイの民会・評議会・法廷の仕組みと、くじ引きの手順を当時の史料で見ます。そのうえで、なぜくじが民主的とされたのか、その平等がどこまでの人に及んだのかを考えます。資料では、トゥキュディデスが伝えるペリクレスの演説の一節を原文から訳して読みます。最後に、くじで市民を選ぶ日本の裁判員制度や検察審査会に、この課の考えを当てはめます。 史料を読むときは、史料が言っていることと、後の研究者や本教材の解釈とを分けて示します。たとえば「アリストテレスはこう記した」と「本教材はこう読む」は、文の書き方で区別します。古代の史料は、書き手の立場や目的を持った言葉だからです。 この課の問い 民主主義は、はじめ何を意味していたのでしょうか。古代アテナイでは、なぜ選挙よりもくじ引きが「民主的」な選び方とされたのでしょうか。 この課のことば デモクラティア ギリシア語で「民衆(デーモス)の支配」。アテナイの国制の呼び名で、英語のデモクラシーのもとになった語です。 民会 市民が出席して、ポリスの大事なことを決めた集会。選ばれた代表ではなく、市民自身が出ました。 評議会 部族ごとにくじで選んだ 500 人の会議。当番の評議員が、評議会と民会で扱うことを前もって示しました。 くじ引き(抽選) 候補の中から偶然で人を選ぶ方法。誰が選ばれるかを人の好みで動かせず、候補の一人ひとりに同じ見込みがあります。 国制 ポリスの役職、とくに最高の決定権を、誰がどう持つかの組み立て。今の「憲法体制」に近い語です。 市民 政治の役職に加わる権利を持つ人。アテナイでは成年の男子に限られ、女性・奴隷・外国人は除かれました。 アテナイの民主政――誰が、どうやって治めたのか 「民主主義=選挙」という今の常識を、いったん脇に置きます。デーモス(民衆)の支配というギリシア語で国制を呼んだ古代ギリシアのアテナイで、人々が何を「民衆の支配」と呼び、どんな仕組みで決めていたのかを、当時の史料と現代の研究で順に確かめます。 「デモクラシー」ということば――民衆が治めるとはどういうことか 日常の会話では、民主主義はしばしば「選挙で代表を選ぶこと」や「多数決で決めること」と同じ意味で使われます。けれども政治理論では、もう少し広く定義されます。スタンフォード哲学百科事典(SEP)の項目「民主主義」は、民主主義を、決定の手続きの大事な段階で、参加者のあいだに何らかの平等がある、集団の決め方だと定義します [1] 。 この定義には、押さえておきたい点がいくつかあります。第一に、民主主義は、集団のために行われ、その全員を拘束する決定にかかわります。第二に、国家だけでなく、家族や団体、企業の中にも民主主義はありえます。第三に、この定義はそれ自体では「民主主義が望ましい」という評価を含みません。第四に、求められる平等の深さには幅があります。議員の選挙での一人一票という形だけの平等もあれば、投票の前の話し合いや連携づくりまで含む、もっと実質のある平等もあります [1] 。そのため民主主義には、住民が直接法律を決める形も、代表を選んで任せる形も含まれます [1] 。選挙は、平等を実現する方法の一つにすぎないのです。 定義が評価を含まないことには、意味があります。SEP は、規範的な民主主義理論の仕事は定義を決めることではなく、民主主義のとりうる形のうち、どれが、いつ、どのように望ましいかを決めることだと述べています [1] 。つまり、「民主主義とは何か」という問いと、「民主主義はよいものか」という問いは、分けて考えるのです。この課でも、アテナイの仕組みが何だったかを確かめることと、それを評価することとを分けて進みます。 ことばの成り立ちも見ておきましょう。デモクラシーは、ギリシア語のデーモス(民衆)による支配という意味の語から来ています [3] 。ただし、古代の哲学者にとって、この語は中立の呼び名ではありませんでした。アリストテレスは、支配する者が一人か少数か多数か、そして支配が共通の利益のためか支配者の利益のためかで、国制を六つに分けました。正しい形は王政・貴族政・ポリテイア(国制)、逸脱した形は僭主政・寡頭政・民主政です [3] 。さらに彼は、寡頭政で支配するのは多くの場合富者であり、民主政で支配するのは貧者だとも述べ、経済の階層を定義に含めるべきだとしました [3] 。アリストテレスにとって民主政とは、数の多い貧しい人々が、自分たちの利益のために治める形だったのです。 これに対して、アテナイの人々自身は、この語を誇りをもって使いました。トゥキュディデスが伝えるペリクレスの演説では、アテナイの国制が民主政と呼ばれる理由を、少数ではなく、より多くの者に治めがゆだねられていることに求めています [4] 。同じ語が、批判する哲学者には「貧者の支配」、担い手には「多数による統治」の名として使われていたわけです。この演説の一節は、後の「資料で確かめる」で原文から訳して読みます。 日本の例に当てはめます。日本で民主主義というと、まず国会議員の選挙が思い浮かびます。しかし、先の定義に照らせば、決定の大事な段階に平等があるかどうかが要です。日本にも、選挙ではなく、くじで市民を選んで裁判に加える仕組みがあります。これは第 4 節で見ます。民主主義と選挙を同じものと考えていると、こうした仕組みが民主主義とどう関わるのかが見えにくくなります。 ここで間違えやすい 民主主義を「選挙のこと」と同じ意味に考えるのは誤りです。SEP の定義の要は、決め方の大事な段階での平等で、選挙はその平等を作る一つの方法にすぎません。直接の決定や、くじによる選出も含めて考えます。 民会・評議会・法廷――アテナイの決め方の仕組み では、アテナイの民主政は、実際にはどう動いていたのでしょうか。SEP の「民主主義」の項目は、アテナイの民主政では、法を作るのに市民が直接決め、役職に就く人を選ぶのにくじを使ったとまとめています [1] 。アテナイの市民は、民会や評議会などに出席する権利、陪審として法廷に座る権利を持っていました [3] 。市民が加わる主な場は、民会・評議会・法廷の三つでした (図 1) 。 アテナイの市民 成年の男子。三つの場で決定に 加わる 民会 市民が出席して決める。出席に手当 評議会 各部族 50 人をくじで、計 500 人 法廷 30 歳を超える市民。入る法廷もくじ 図 1 アテナイの市民が決定に加わる三つの場(『アテナイ人の国制』の前 4 世紀の記述をもとにした本教材の整理)。上の市民から、民会・評議会・法廷の三つに分かれます。強調したのは、くじで人を選んだ評議会です。 この仕組みの土台を作ったのが、前 508/507 年のクレイステネスの改革です [11] 。アリストテレス(またはその学派)の名で伝わる『アテナイ人の国制』によれば、クレイステネスは、それまでの 4 部族に代えて、全市民を 10 の部族に分けました。混ぜ合わせて、より多くの者が国制に加われるようにするためだった、と同書は説明します。市域・海岸・内陸の三つの地域から一つずつの区画を、くじで各部族に割り当てたとも書かれています。評議会も 400 人から 500 人に増やし、各部族から 50 人ずつとしました [6] 。 前 4 世紀のアテナイについて、『アテナイ人の国制』は評議会の動かし方を細かく記しています [6] 。評議会の 500 人は、各部族から 50 人ずつ、くじで選ばれました。部族は 1 年を 10 の期に分けて交代で当番を務め、太陰暦の 1 年なので、はじめの 4 部族は 36 日、残りの 6 部族は 35 日ずつでした。当番の評議員は、休みの日を除いて毎日評議会を招集し、民会は当番期ごとに 4 回招集しました。何を議題にするかを前もって掲示するのも当番の役目でした [6] 。 民会で何を決めたのかも、同書から分かります。当番期ごとの民会のうち一つは主要民会で、役職者がよく務めているかを挙手で確かめ、穀物と国土の守りについて論じ、弾劾の訴えを受け付けました。第 6 の当番期の主要民会では、その年に陶片追放を行うかどうかも挙手で決めました [6] 。役職者をくじで選んでも、その働きぶりを民会が繰り返し確かめる仕組みがあったのです。くじと、民会による点検とが組み合わされていたことは、第 3 節でくじの理由を考えるときの手がかりになります。 法廷も市民の手で動いていました。前 5 世紀の様子として、同書は陪審員(ディカスタイ)を 6000 人と記しています [6] 。前 4 世紀の記述では、陪審員になれるのは 30 歳を超え、国庫に負債がなく、市民権を失っていない者でした [6] 。その日にどの陪審員がどの法廷に入るかもくじで決めました。この手順は第 3 節で見ます。 もう一つ大事なのが手当です。同書によると、アテナイははじめ民会に出る人に手当を払いませんでした。ところが人が集まらないので、アギュリオスが 1 オボロス(銀貨の単位)の手当を設け、ヘラクレイデスが 2 オボロスに、アギュリオスがさらに 3 オボロスに上げました [6] 。これは前 403 年に民主政が回復した後のことです [11] 。同書が書かれた時代には、ふつうの民会に 1 ドラクマ、主要な民会に 9 オボロス、法廷に 3 オボロス、評議会に 5 オボロスが払われていました [6] 。 手当は、日々の仕事を休めない貧しい市民が、決定の場に出られるようにする仕組みです。アリストテレスも、民会・法廷・役職に手当を払うことを、民主的な制度の一つに数えています [5] 。現代の政治理論家ウォレンも、素人の市民が市民を代表するのは古い民主主義の理想で、代表者に手当を払う慣行もこの考えに立つ、と指摘しています [2] 。出席する権利があっても、出席できる条件がなければ平等は形だけになります。アテナイの制度は、その点に手を打っていたと言えます(本教材の整理)。 ここで間違えやすい アテナイを「全市民が毎日集まり、何でも話し合って決めた」国と想像するのは誤りです。民会は当番期ごとに 4 回招集され、日々の準備は評議会、裁判は法廷、行政は多くの役職者が分担しました。民会に出るのも市民の権利で、全員が毎回出たわけではありません。 くじ引きと選挙――なぜくじが民主的とされたのか アリストテレスは『政治学』第 4 巻で、民主政と寡頭政を混ぜ合わせて国制を作る方法を論じています。その中で彼は、たとえば、役職をくじで決めるのは民主的、選挙で決めるのは寡頭的と見なされている、財産の資格を設けないのは民主的、設けるのは寡頭的だ、と書きます。そして、選挙で役職を決めることを寡頭政から、財産の資格を設けないことを民主政から取れば、貴族政やポリテイアの性格を持つ混ぜ方になる、と続けます [5] 。くじと選挙の区別は、ここでは国制の性格を分ける目印として使われています (表 1) 。 この表で分かること: くじは候補に等しい見込みを与え、選挙は人の評価で選びます。アテナイは役職の性格で使い分けました 観点 くじ 選挙(挙手) 何で決まるか 偶然(見込みは等しい) 選ぶ人による評価 アリストテレスの記す見方 民主的と見なされる 寡頭的と見なされる アテナイで使った所 評議会・法廷・日常の行政 軍事の役職と一部の財務など くり返し就くこと 同じ役職は一度(評議員は 2 回まで) 軍事の役職は何度でも 表 1 くじと選挙の比べ(アリストテレス『政治学』1294b・1317b と『アテナイ人の国制』43・62 章をもとにした本教材の整理)。「くり返し」の欄の決まり(62 章)は役職(アルケー)についてのもので、法廷の陪審員には当てていません。また、この決まりは役職が軍事かどうかによるもので、選挙で選ぶ軍事以外の役職も一度だけです。 なぜくじが民主的なのでしょうか。アリストテレスは第 6 巻で、民主