スピノザ――神とは自然そのものである(神即自然・コナトゥス) — Epoché
近代 大陸合理論 約 29 分 本文 約 12,000 字 図 7・表 3 原典 2 節 この課の要点 神・感情・自由の 3 つ 神 実体は一つしかなく、それが神である。神以外の個々のものはすべて神のうちにあり、神の属性の様態である(第 1 部 定理 14・15)。神は外から世界を作る者ではなく、三角形の本性から内角の和が出てくるように、すべてが神の本性から必然に出てくる(定理 17 備考)。だから自然は目的のために働かない。スピノザはこれを「神すなわち自然」と呼んだ(第 4 部 序文)。 感情 どんなものも、できるかぎり自分のあり方に留まろうと努める。このコナトゥスがものの本質である(第 3 部 定理 6・7)。感情とは、体の行動する力を増やし減らし、助け妨げる体の変化と、その観念である(第 3 部 定義 3)。基本は喜び・悲しみ・欲望の三つ。原因の一部が外にあれば受動感情で、人は逆風に揺れる波のように揺さぶられる(第 3 部 定理 59 備考)。 自由 心には絶対の自由意志はなく、意志も原因に決められている(第 2 部 定理 48)。自由とは、原因から逃れることではなく、自分の本性の必然から行うことにある。必然を理解するほど受動感情は力を失い、第三種の認識から神への知的愛が生まれる、とスピノザは論じる(第 5 部)。「自由とは必然の認識」は本教材の言い換えである。 はじめに バルーフ・デ・スピノザ(1632〜1677)は、オランダのアムステルダムに生まれた哲学者です。ポルトガル系ユダヤ人の共同体で育ちましたが、1656 年に共同体から破門され、のちにライデンやハーグの近くに移り住んで著作を続けました [1] 。主著『エチカ』は、神・人間の心・感情・幸福を、幾何学の証明と同じ形で論じた本です [1] [2] 。 デカルトは心と物体を別々の実体に分け、心と体がどう結びつくかという問いを残しました。スピノザは、デカルトの用語を使いながら、まったく別の答えを出します。実体はただ一つで、それが神であり、自然である、という答えです [1] 。 一つ目の章では「神すなわち自然」と、自然に目的はないという主張を読みます。二つ目の章では、自分のあり方に留まろうとする努力、 コナトゥス から感情を説明し、すべてが必然の世界で人間がどう自由になれるのかを問います [1] 。 この課の問い 前の二つの課で、デカルトは考える心と広がる物体を別の実体に分け、パスカルは理性だけで神を語ることに疑問を向けました。では、神と自然と人間を、ひとつの必然のつながりとして、幾何学のように証明することはできるのでしょうか。そして、すべてが必然なら、人間の自由はどこに残るのでしょうか。 この課のことば 実体 それ自身のうちにあり、それ自身によって考えられるもの。ほかの何かを借りなくても、ありかつ理解されるものです。スピノザでは、実体は神ただ一つです。 属性 知性が、実体の本質をなすものとしてとらえるもの。神は無限の属性を持ちますが、人間が知るのは思考と延長(広がり)の二つだけです。 様態 ほかのもののうちにあり、ほかのものによって考えられるもの。石も机も人も、神の属性が一定のしかたで表れた様態です。 神すなわち自然 ラテン語で Deus seu Natura 。神と自然は二つではなく、同じ一つのものの二つの呼び名だ、という言い方です。 コナトゥス ラテン語で「努力」。どんなものも、できるかぎり自分のあり方に留まろうと努めます。スピノザは、その努力がそのものの本質だと言います。 受動と能動 自分の外に原因があって動かされるのが受動、原因がまるごと自分の本性にあるのが能動です。外から起こされる感情を受動感情と呼びます。 神即自然――神と自然は別のものなのか スピノザは、実体はただ一つしかないと証明しようとします。この章では、スピノザの生涯と『エチカ』の書き方、ただ一つの実体と「神すなわち自然」、自然に目的はないという主張を、順に読みます。 破門と幾何学の様式――定義から一歩ずつ証明する倫理学 スピノザは 1632 年、アムステルダムのポルトガル系ユダヤ人共同体に生まれました。ヘブライ語のバルーフ、ポルトガル語のベント、ラテン語のベネディクトゥスという三つの名は、どれも「祝福された」という意味です [1] 。17 歳で学業を切り上げ、家の輸入業を手伝うことになりました [1] 。 1656 年 7 月 27 日、共同体はスピノザに、それまでで最も厳しい破門(ヘーレム)を言い渡しました。破門は最後まで解かれませんでした [1] 。文書は「おぞましい異端」を責めますが、その中身は具体的に書いていません。SEP は、のちの著作に出てくる考えを、すでに口にしていたのだろうと推測します。魂の不死を認めないこと、人の世を見守り導く超越した神を退けること、律法は神が文字どおり与えたものではないとすること、の三つです [1] 。 その後スピノザはアムステルダムを離れ、ライデンやハーグの近くの村に移り住みました [1] (図 1) 。レンズを磨いて暮らしを立てたとも伝えられます。生前に自分の名で出した本は『デカルトの哲学原理』だけで、1670 年の『神学・政治論』は匿名で出て、騒ぎを呼びました。1677 年にハーグで亡くなり、遺稿は友人たちの手で出版されました [1] 。 1632 年 アムステルダムの ユダヤ人共同体に生まれる 1656 年 共同体から最も厳しい破門を 受ける 1661 年 レインスブルフに住み、方法の 論文を書く 1663 年 『デカルトの哲学原理』。 フォールブルフへ 1670 年 『神学・政治論』を匿名で出す 1677 年 ハーグで没。遺稿集に『エチカ』 図 1 スピノザの生涯の主な出来事(本教材の整理)。年は SEP によります [1] 。『エチカ』は 1663 年ごろにはすでに書き進められていて、没後に遺稿集で出ました。 主著『エチカ』の正式な題は『幾何学的秩序で証明された倫理学』( Ethica ordine geometrico demonstrata )です [2] 。第 1 部は、実体・属性・神などの定義と、いくつかの公理から始まります。続いて定理が並び、それぞれに証明が付き、ときに系(すぐ導ける帰結)と備考(説明の文)が添えられます。証明は、定義・公理やほかの定理を番号で示しながら組み立てられます [2] 。 教材の作例で考えてみましょう。中学の幾何では、点や直線の定義と、「等しいものに等しいものは互いに等しい」といった公理を先に置き、そこから一歩ずつ「三角形の内角の和は二直角」を証明します。読む人は、どの一歩が何に拠っているかを、前のページに戻って確かめられます。スピノザは、神と心と感情と幸福について、同じことをしようとしました。 なぜこの形なのでしょうか。スピノザは第 3 部の序文で、人間を自然の中の「国家の中の国家」のように扱う人々を退け、感情を線や面や立体のように考察すると宣言します [2] 。人間も自然の同じ法則のうちにある、という中身に、誰でもたどれる証明の形が合っていたのです。そして本が最後に伝えたいのは、幸福は受動感情とうつろう善に縛られた生ではなく、理性に導かれる生にある、という倫理の教えです [1] 。 ここで間違えやすい 幾何学の様式を、中身と関係のない飾りと取らないようにしましょう。神から感情までがすべて必然のつながりで出てくるという考えと、前に置いたものから順に証明する形とは、スピノザでは切り離せません [1] 。また、破門の理由が記録で分かっていると思うのも誤りです。文書は罪の中身を具体的に書いておらず、上の三つは SEP の推測です [1] 。 実体はただ一つ――神すなわち自然 スピノザはまず、ものごとのあり方を三つに分けます (表 1) 。 実体 は、それ自身のうちにあり、それ自身によって考えられるものです(第 1 部 定義 3)。属性は、知性が実体の本質をなすものとしてとらえるもので(定義 4)、様態は、ほかのもののうちにあり、ほかのものによって考えられるものです(定義 5) [1] [2] 。 この表で分かること: 神(実体)・属性・様態は、何のうちにあり、何によって考えられるかで分かれ、石も人も心も様態の側に入ります。 あり方 何のうちにあるか 何によって考えられるか 例 実体(神) それ自身のうち それ自身によって ただ一つ・無限 属性 実体の本質をなす それ自身によって 思考・延長 様態 ほかのもの(神)のうち 神によって 石・川・人の体・心 表 1 『エチカ』第 1 部 定義 3〜5・定理 10 によるあり方の区別(本教材の整理) [2] 。 ここから論証が進みます (図 2) 。同じ本性、つまり同じ属性を持つ実体が二つあることはできません(定理 5)。無限に多くの属性から成る実体、つまり神は、必然に存在します(定理 11)。神はありうる属性をすべて持つので、もし神のほかに実体があれば、神と同じ属性を持つことになってしまいます。だから神のほかに実体はありえず、考えられもしません(定理 14)。あるものはすべて神のうちにあります(定理 15) [1] [2] 。 定義 実体・属性・神を定める(定義 3・4・6) 定理 5 同じ属性を持つ実体は二つない 定理 11 無限の属性を持つ実体=神は必然に 存在する 定理 14 神のほかに実体はない 定理 15 神以外の個々のものは、神のうちにある 様態 第 4 部 序文 この永遠で無限の存在を「神すな わち自然」と呼ぶ 図 2 『エチカ』第 1 部の論証の筋道(本教材の要約)。定義から、神のほかに実体はないという定理 14 を経て、神以外の個々のものは神のうちの様態だという定理 15 に至ります。神自身は様態ではなく、ただ一つの実体です。 石も川も人も、それ自身で立つ実体ではありません。神の属性が一定のしかたで表れた様態です。神自身は様態ではなく、ただ一つの実体です [1] 。神の属性は無限にありますが、人間が知るのは思考と延長(広がり)の二つだけです。人の心は思考の様態で、体は延長の様態です。心と体は二つの実体ではなく、同じ一つのものを二つの属性のもとで見たものだ、とスピノザは考えます [1] 。 教材の作例で言えば、海と波の関係に少し似ています。波は一つ一つ形が違いますが、海と別のものではなく、海が一時とった形です。ただし、このたとえが表せるのは延長の側だけです。 神は、世界を外から、無から作る者ではありません。三角形の本性から内角の和が二直角であることが永遠に出てくるように、神の本性からすべてが必然に出てきます(第 1 部 定理 17 備考) [1] 。だから自然には、偶然のものは何もありません [1] 。この永遠で無限の存在を、スピノザは第 4 部の序文で「神すなわち自然」( Deus seu Natura )と呼びます [1] [2] 。この句はラテン語版にありますが、友人たちはオランダ語版で「すなわち自然」を落としました。読者の反発を恐れたのだろう、と SEP は見ています [1] 。 ここで間違えやすい スピノザを「自然を神としてあがめる人」と決めつけないようにしましょう。SEP によれば、自然のうちに超自然の神的なものが宿るという意味の汎神論とは相いれません。また、神を自然の全体と同じとみる読みをとっても、スピノザは自然を前にあがめたり畏れたりすべきだとは言いません。その点で、宗教の一種としての汎神論と呼ぶのは誤りだ、と SEP は論じます [1] 。 自然は目的のために働かない――無知の避難所 第 1 部の付録で、スピノザは人々に根強い偏見を取り上げます。人は、自然のものはみな人間と同じく目的のために働くと思い、神がすべてを人間のために導くと信じています [1] [2] 。目は見るため、歯は噛むため、太陽は照らすため、と考えるのです。それらは自分で用意したものではないので、人間のために用意した、人間のような支配者がいるはずだと推します [1] 。 その支配者の心は分からないので、人は自分の心から推しはかります。こうして、神々は人間を自分に結びつけるためにすべてを導く、と考えられ、偏見は迷信に変わりました [1] 。スピノザは、目的を自然のうちに見ることは、本当は結果であるものを原因の前に置き、自然を逆さまにすることだと言います。奇跡を信じるのも、出来事の本当の原因を知らないからです [1] 。 スピノザ自身が挙げる例があります(第 1 部 付録) [1] (図 3) 。屋根から石が落ちて、下を通った人の頭に当たり、その人が死んだとします。目的を信じる人は、石はその人を殺すために落ちたのだと言います。風が強く、その人がそこを歩いていたからだと答えると、なぜその時に風が強かったのか、なぜその時にそこを歩いていたのかと問い続けます。前の日に海が荒れ始め、その人は友人に招かれていた、と答えても、問いは止みません。最後には「神の意志」に逃げ込みます。スピノザはそれを「無知の避難所」と呼びました [1] 。 石は人を殺すために落ちたのか 強い風 倒れた人 答える人 問い続ける人 なぜ石は落ちた? なぜ風が強かった? なぜそこを歩いた? なぜ海が荒れ始めた? なぜ友に招かれた? 神の意志 =無知の避難所 図 3 第 1 部 付録の、屋根から落ちる石の例を絵にしたものです(本教材の絵)。石・風・海・友人の招き・無知の避難所は本人の例で、人物の配置と吹き出しの並べ方は本教材の描き方です。原因をたどる問いは際限なく続き、最後に「神の意志」へ逃げ込みます。 第 4 部の序文は、目的因の正体をさらに解き明かします。目的因と呼ばれるものは人間の欲求にすぎず、それは実は作用因(ものを生み出す原因)です。人は自分の欲求の原因を知らないので、それを第一の原因とみなすのです [2] 。家の例を使ったこの段は、原典を読む章で読みます。 完全・不完全という言い方も同じです。人は家や塔の手本を頭の中に作り、それに合うものを完全、合わないものを不完全と呼びます。自然のものにも同じ手本を当てて、自然がしくじったと思うのです。スピノザは、完全・不完全は、ものを比べることから作る考え方にすぎないと言います(第 4 部 序文) [2] 。 ここ