哲学とは何か――問い・理由・反論で考える — Epoché
はじめに 総説 約 20 分 本文 約 8,500 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 問い・理由・反論の 3 つ 問い 問い:哲学は、当たり前と思っていたことに引っかかる「驚き」から始まる、とプラトンの対話篇のソクラテスは語り(『テアイテトス』155d)、アリストテレスも、人は驚くことで哲学を始めたと述べる(『形而上学』A2 982b12–13)。 理由 理由:問いに対しては、好みや言い伝えではなく、誰もが確かめられる理由を挙げて答えを示す。理由から結論へのつなぎ方そのものも、検討の対象になる。 反論 反論:挙げた理由は、反論や反例で試される。答えが崩れて行き詰まることもあるが、それも何が知でないかを知る一歩だと読める。プラトンのソクラテスは、吟味の無い生は人間にとって生きるに値しないと言う(『弁明』38a)。 はじめに この課は、西洋哲学の課程のいちばん最初の課です。まず、「哲学」という言葉そのものから見てみます。哲学は、ギリシア語の φιλοσοφία (フィロソフィア)を訳した語です。「フィロ」は「愛する」、「ソフィア」は「知」を意味します。つまり、もとの意味は「知を愛し求めること」です。知をすでに持っている状態ではなく、持っていないからこそ求め続ける営みを指す言葉だ、と本教材は受け取ります。 では、知を求めるとは、具体的に何をすることなのでしょうか。この課では、それを三つの動きに分けて考えます。一つ目は、当たり前と思っていたことに引っかかり、 問い を立てること。二つ目は、問いへの答えを、誰もが確かめられる 理由 とともに示すこと。三つ目は、その理由を 反論 にさらして吟味することです。この三つは、これから読むどの哲学者の課にも、形を変えて繰り返し出てきます。この課は、その地図を手に入れるための課です。 手がかりにするのは、哲学のいちばん古い場面の一つです。プラトン(前 427 年ごろ〜前 347 年)の対話篇『テアイテトス』では、ソクラテスが若い数学者テアイテトスと、「知識とは何か」を問答で探ります [1] 。そこに、「驚くことこそ哲学の始まりだ」という有名な言葉が出てきます。アリストテレスの『形而上学』と、プラトンの『ソクラテスの弁明』も、あわせて読みます。 この課の進み方も、先に示しておきます。第 1 章では、問い・理由・反論の三つの動きを、節を一つずつ使って確かめます。続く「原典を読む」では、『テアイテトス』の驚きの一節を、ギリシア語の原文から訳して細かく読みます。最後の「比べてみる」では、この課程で後に出会う四人の哲学者に、三つの動きがどう現れるかを見渡します。 なお、この課からは、原典の箇所を「155d」「982b12」のような番号で示します。これは昔の印刷本の頁・段・行の番号で、多くの訳書の欄外に載っています。訳書を手に取ったときは、この番号で同じ箇所を探してみてください。 この課の問い ふだん当たり前に使っている「大きい」「知っている」「よい」といった言葉に、改めて引っかかって立ち止まるとき、何が始まっているのでしょうか。そして哲学は、その引っかかりをどう扱う営みなのでしょうか。 この課のことば 哲学(フィロソフィア) ギリシア語で「知を愛し求めること」。知を持っている状態ではなく、求め続ける営みを指す語です。 驚き(タウマゼイン) 分かっているつもりのことが急に分からなくなり、思わず立ち止まる心の動き。感動や仰天とは少し違います。 反論・反例 反論は、主張や理由の弱い所を突く言葉。反例は「そうでない場合がある」と示す一つの例で、反論のいちばん強い形です。 行き詰まり(アポリア) 「道が無い」という意味の語。どちらに進んでも困る問いの前で、議論が先へ進めなくなった状態です。 吟味 自分や相手の考えを問いにかけ、理由が本当にその考えを支えているかを調べることです。 問い・理由・反論――哲学はどんな営みか この課程では、古代ギリシアから現代まで、たくさんの哲学者の主張を一人ずつ読んでいきます。その前に、どの課でも繰り返し出てくる三つの動きを見ておきます。問いを立てる、理由を挙げる、反論で吟味する、の三つです。 三つの動きを、哲学のいちばん古い場面に即して、一つずつ確かめます。後の課を読むときの地図にするためです。 驚きから問いへ――当たり前に引っかかる まず、『テアイテトス』の一場面を見ます。対話篇とは、登場人物どうしの会話の形で書かれた作品です。この作品では、ソクラテスが、才能ある若い数学者テアイテトスと、その先生テオドロスを相手に問答を進めます [1] 。 話の途中で、ソクラテスは小さな例を出します(154c) [4] 。骰子(さいころ)が六つあるとします。四つと並べれば、六つは「多い」と言えます。四つの一倍半です。十二と並べれば、六つは「少ない」と言えます。十二の半分です。六つの骰子には、何も足されず、何も引かれていません。それなのに、同じ六つが「多い」とも「少ない」とも言えてしまうのです (図 1) 。 六つの骰子は「多い」のか「少ない」のか テオドロス 多い 少ない 四つ 六つ 十二 ? 目が回る テアイテトス ソクラテス 図 1 『テアイテトス』の骰子の例を絵にしたものです(本教材の絵)。何も足されも引かれもしていない同じ六つが、四つと比べれば「多い」、十二と比べれば「少ない」と言えてしまい、若者は目を回して立ち止まります。 ソクラテスは、自分の背丈についても同じことを言います(155b–c) [4] 。年をとった自分は、この一年で伸びも縮みもしていない。それでも今は若いテアイテトスより大きく、一年後、背の伸びた彼と比べれば小さい、と言えてしまう。テアイテトスは、こうしたことを見つめていると本当に目が回る、と答えます(155c) [4] 。 ソクラテスはこれを受けて、驚くことこそ知を愛し求める者の経験であり、哲学の始まりはこれよりほかにない、と語ります(155d) [4] 。アリストテレスも『形而上学』A巻第 2 章で、人は今も昔も、驚くことによって哲学を始めた、と述べます(982b12–13) [5] 。初めは身近な不思議に驚き、少しずつ進んで、月の満ち欠けや太陽・星、さらに万物の成り立ちといった大きな事柄に行き詰まるようになった、というのです。 アリストテレスは続けて、行き詰まって驚く人は、自分が知らないと思っている、と言います。だから人は無知から逃れるために、何かの役に立つかどうかとは別に、知ること自体のために探究したのだ、と論じます(以上 982b12–21) [5] 。ここで驚きは、自分の無知に気づく入口として描かれています。 本教材は、驚きを問いの「材料」として読みます。「多いとは、どういうことか」「大きさは物そのものにあるのか、それとも比べる相手との間にあるのか」。引っかかりを、このような「〜とは何か」「本当に〜か」という問いの形に言い直したとき、探究が動き出します。 ここで間違えやすい 驚きを、珍しいものに感動することや、びっくりして終わることと考えないようにしましょう。ここでの驚きは、よく知っているはずのことが分からなくなる経験です。また、プラトンのソクラテスとアリストテレスでは、驚きの位置づけが少し違うとも読めます。アリストテレスは同じ章の少し後で、知に至れば驚きは逆の状態に変わる、と述べているとされます(正方形の対角線と辺の比の例)。驚きを探究の出発点とだけ見るか、探究にずっと付き添うものと見るかは、読み方が分かれうる所です。 理由を挙げる――答えを支える筋道を見せる 驚いたままでは、何に引っかかっているのかがはっきりしません。実は『テアイテトス』のソクラテスは、テアイテトスが目を回す直前に、骰子の例がなぜ人を混乱させるのかを診断していました(155a–c) [4] 。 ソクラテスは、私たちがふだん認めている三つのことを、一つずつ言葉にします。①自分自身と等しいままのものは、大きさでも数でも、大きくも小さくもならない。②何も足されも引かれもしないものは、増えも減りもせず、いつも等しい。③前になかったものが後にあるには、そうなる過程が要る。テアイテトスは、三つとも認めます [4] 。 ところが、骰子や背丈の例を語ると、この三つの合意が「私たちの魂の中で互いに争う」とソクラテスは言います(155b–c) [4] 。背丈の例でいえば、ソクラテスは伸びも縮みもしていません(①②)。それなのに、前は大きかった者が、小さくなる過程を経ずに後には小さい(③)。一つずつはもっともらしい前提が、全部いっしょには成り立たないのです。目が回る理由が、こうして形になりました。 そうなれば、問いは「どの前提を見直すべきか」という、理由を挙げて検討できる形に変わります。ここに 論証 の考え方があります。論証とは、前提(「こうだから」)を挙げ、そこから結論(「だからこうだ」)を導く筋道のことです (図 2) 。 ① 驚き 「当たり前」の言葉が、急に 分からなくなる ② 問い 「〜とは何か」「本当に〜か」と 言い直す ③ 答えと理由 前提を並べ、そこから結論を導く ④ 反論・反例 「この場合はどうか」と理由を試す ⑤ 直すか、行き詰まるか 理由を直して答えを改めるか、 行き詰まり(アポリア)に至る 新しい、より正確な問いへ どちらからも、②の問いに戻って探究が 続く 図 2 哲学の三つの動きの流れです(本教材の整理)。①②が「問い」、③が「理由」、④⑤が「反論」に当たり、点線の段は、そこから②の問いへ戻ることを示します。①は『テアイテトス』155d・『形而上学』982b、④⑤は『弁明』38a・『テアイテトス』210a–b に対応します。 理由を挙げるとは、自分も相手も同じ手がかりで確かめられるようにすることです。本教材の作例で考えます。「うそをついてはいけない」と主張するとき、「みんながそう言うから」では理由になりません。「うそは相手の信頼を裏切るから」と挙げて、初めて「では、相手を守るためのうそはどうか」と問い返せます。理由を挙げることは、相手に反論の手がかりを渡すことでもあるのです (表 1) 。 この表で分かること: 本教材の読み方として、哲学の答え方の特徴は、誰もが確かめられる理由を挙げ、反論が来たら理由ごと直す点にあります。 問いへの向き合い方 答えの拠り所 反論が来たら 行き着く先 言い伝えに従う 昔からそう言われている 退けるか、聞き流す 答えは変わらない 好みで言う 自分にはそう思える 「人それぞれ」で終える 話がそこで止まる 理由を挙げて吟味する 誰もが確かめられる理由 理由を直すか、取り下げる よりよい答えか、新しい問い 表 1 問いへの三つの向き合い方。本教材の整理です。 アリストテレスも、理由をこのように扱いました。彼は新しい探究を始めるとき、先人たちの説を見直すのを常としました [2] 。『形而上学』B巻では、取り組むべき行き詰まり(アポリア)を並べ、それらが私たちの思考を結び目のように縛る、と述べています [2] 。他人の答えも、その理由ごと受け取り、どこで縛られているかを確かめるのです。 ここで間違えやすい 理由を挙げることを、相手を言い負かす技術と考えないようにしましょう。論証は、勝つためではなく、どこが確かでどこが怪しいかを双方に見えるようにする道具です。また、筋道が正しくても前提が誤っていれば、結論は誤りえます。結論が正しくても、筋道が誤っていることもあります。なお『テアイテトス』の冒頭近くでは、ソクラテスとテアイテトスが三つの主張を論証なしに認め合っています(145d–e) [1] 。古典の中でも、どの主張に理由が挙がり、どの主張が前提として置かれているかを見分けて読む必要があります。 反論で吟味する――問答と行き詰まり 理由を挙げた答えは、そこで終わりではありません。「その理由だと、こういう場合も認めることになりますが、それでよいですか」と問い返されます。これが反論です。中でも、そうでない場合を一つ示す反例は、反論のいちばん強い形です。反例が一つ見つかれば、答えは少なくともそのままでは保てません。 本教材の作例で、問答の一往復を見てみます (図 3) 。ある人が自信をもって「勇気とは、持ち場を離れずに踏みとどまることだ」と答えます。そこへ「では、退きながら戦って勝つ者は勇敢ではないのか」と反例が向けられます。答えた人は、理由を直すか、答えを取り下げるかを選ばなければなりません。「問いの前」の絵では答えが一人の声で語られ、「問いの後」の絵では、問いが二人のものになっています。 問いの前 勇気とは、持ち場を離れず 踏みとどまることだ では、退きながら 戦って勝つ者は 勇敢ではないのか? 反例 答える人 ソクラテス 問いの後 では、勇気とは何だろう 答えた人 ソクラテス 図 3 問答の前と後(本教材の作例で、特定の対話篇の場面の再現ではありません)。「問いの前」では答えが一人の声で語られ、反例を受けた「問いの後」では、言い負かした者も負けた者もなく、二人が同じ問いの前に並びます。 直した答えにも、また反論が向けられます。この往復を重ねて、答えは少しずつ確かになるか、あるいは行き詰まります。『テアイテトス』の問答は、行き詰まる例です。知識とは感覚である、正しい思いなしである、説明を伴う正しい思いなしである、という三つの答えを順に退け、答えの無いまま終わります(210a–b) [1] 。 これは失敗でしょうか。スタンフォード哲学百科事典(SEP)の『テアイテトス』の項は、プラトンの見方に立って、そう読みません。何が知識でないかを確かめたことは、乏しい結果ではなく、探究を続けるための欠かせない土台だ、と読むのです [1] 。少なくとも、検討した答えが知ではなかったことが分かり、問いはより正確な形で残ります。 プラトンの『ソクラテスの弁明』は、この営みを一人の生き方として描きます。裁判の場で、ソクラテスは陪審員に語ります。毎日、徳について語り合い、自分と他人を吟味することこそ、人間にとって最大の善である。吟味の無い生は、人間にとって生きるに値しない、と(38a) [4] 。そう言えば、あなたがたはなおさら信じないだろう、と添えながらです。 同じ『弁明』で、ソクラテスは吟味を始めたいきさつも語ります。友人カイレ