ヒューム――因果の必然性は習慣から生まれる(帰納の問題・情念) — Epoché
近代 イギリス経験論 約 30 分 本文 約 12,700 字 図 6・表 3 原典 2 節 この課の要点 因果・帰納・情念の 3 つ 因果 玉が玉に当たって動くのを何度見ても、見えるのは、当たることと動くことが続けて起こることだけで、「必ずそうなる」という結びつきは対象の中に見えない。必然性は、繰り返しが心に生む、一方から他方へ移る習慣の傾きにある、とヒュームは言う(『人間本性論』1.3.14)。 帰納 「未来は過去に似る」という前提は、否定しても矛盾しないので論証では示せず、経験から示そうとすれば同じ前提を使うので循環になる。それでも私たちが未来を過去から推すのは、理性ではなく習慣による(『人間知性研究』4.16〜5.5)。 情念 理性は事実や手段を教えるが、それだけでは人を動かさず、情念に逆らうこともできない。目的を決め、人を動かすのは情念で、「理性は情念の奴隷であり、またそうあるべきである」(『人間本性論』2.3.3.4)。道徳の区別も理性だけからは出ない、とヒュームは論じる。 はじめに デイヴィッド・ヒュームは、スコットランドのエディンバラに生まれた哲学者です(1711 年生まれとされ、1776 年に没しました)。1734 年にフランスに渡り、ラ・フレーシュなどで『人間本性論』を書きます。第 1・2 巻は 1739 年に、第 3 巻は 1740 年に、どれも名前を伏せて出されました [1] 。本人は後に、この本は「印刷機から死産した」と誇張して書いています [1] 。無神論者という評判もあって大学の職には就けず、のちに『イングランド史』で歴史家として名を上げます [1] 。 この本の副題は「実験的な推論の方法を道徳の主題に導入する試み」です [1] 。ここで言う「道徳の主題」は、倫理だけでなく、政治や心理のように人間の本性にかかわる学問の全体を指します。ヒュームは、自然の学問が観察と実験で進んだように、人間の心の働きも観察から調べようとしました。その出発点は、この編のロックの課で読んだのと同じく、知識の材料はすべて経験から来る、という経験論の立場です [1] 。けれども、この立場を最後まで押し進めると、私たちが当たり前に信じている「必ずそうなる」という結びつきは、経験のどこにも見つからなくなります。 この課では、ヒュームの仕事を二つの面から読みます。一つは、原因と結果の結びつきの「必然」はどこにあるのか、という問いと、そこから出てくる帰納の問題です。もう一つは、人を行為へ動かすのは理性か情念か、という問いです。ヒュームは第 1 巻の広告で、知性と情念という二つの主題は「それだけで完結した推論の鎖をなす」と述べています [1] 。この課の二つの章は、同じ方法で心を調べた一続きの仕事なのです。 この課の問い 火に手を近づければ熱く、玉が当たれば玉は動きます。私たちは、原因があれば結果が「必ず」起こると思っています。では、その「必ず」を、私たちはどこで見たのでしょうか。そして、何をするかを決めているのは、理性でしょうか、それとも情念でしょうか。 この課のことば 印象 見る・聞く・痛む・欲するなど、いま生き生きと感じている知覚です。外の感覚から来る感覚の印象と、喜びや恐れのような反省の印象があります。 観念 印象の弱い写しです。思い出した痛みや、思い浮かべた山は観念です。中身は印象と同じで、心を打つ力だけが弱いのです。 必然的結合 原因が起これば、結果が起こらずにはいない、という結びつきです。ヒュームは、因果の観念の要はこれだと考えました。 習慣 同じことを何度も経験した心が、考えを挟まずに、一方を見ればもう一方を思い浮かべるようになる傾きです。 帰納 見たことから、まだ見ていないことを推すことです。「これまで毎朝太陽が昇ったから、明日も昇る」がその例です。 情念 喜び・悲しみ・欲求・嫌悪・希望・恐れ・誇り・愛など、主に快と苦から起こる反省の印象です。今の言葉の感情や欲求に近いものです。 因果と帰納――「必ずそうなる」はどこにあるのか ヒュームは、人間の心を調べる中心となる道具の一つに、「単純な観念はみな印象の写しだ」という原理を置きました。ある観念の中身を確かめたければ、それがどの印象から来たかを探せばよいのです。この章では、まずこの原理を確かめ、次にそれを原因と結果の「必然」の観念に当て、最後にそこから出てくる帰納の問題を読みます。 印象と観念――考えることは、感じたことの写しである ヒュームは、心に現れるものをすべて 知覚 と呼び、それを印象と観念に分けます。二つの違いは、感じることと考えることの違いだと言います(『人間本性論』1.1.1.1) [1] 。印象には、外の感覚から来る感覚の印象と、欲求や情念のように、感覚や観念に心が応じて起こる反省の印象があります。観念には、記憶や想像の産物、そして信念が入ります [1] 。 では、印象と観念はどこが違うのでしょうか。ヒュームの答えは、心を打つ力と生き生きとした度合いです(1.1.1.3) [1] 。鋭い痛みを感じているときと、あとでその痛みを思い出すときを比べてみましょう。思い出している中身は同じ痛みです。違うのは、いま感じている痛みのほうが、はるかに強く心を打つという点です。中身は同じで、強さだけが違うのです。ここがヒュームの区別の要です [1] 。 印象 いま感じる、生き生きした知覚 (感覚・反省) 観念 印象の弱い写し(写しの原理) 問い この観念は、どの印象から来たのか 自己の観念 当たる印象が無い → 知覚の束 必然的結合 当たる印象は?(次の節へ) 図 1 写しの原理を道具にした、ヒュームの調べ方です(本教材の整理)。観念の出どころの印象を探し、見つからなければ、その観念の中身を考え直します。点線の段は、次の節で調べる問いです。 ここからヒュームは、最初の大きな原理を立てます。単純な観念はどれも、それに正確に似た単純な印象から生まれ、その写しである、という 写しの原理 です(『人間本性論』1.1.1.7、『人間知性研究』2.5) [1] [2] (図 1) 。複合の観念は、単純な知覚が組み合わさってできています(1.1.1.2) [1] 。金の山を見たことがなくても、金と山の観念を組み合わせれば思い浮かべられるのは、このためです。 ヒュームはこの原理を、哲学の言葉を調べる道具として使います。ある語に当たる観念を確かめたければ、それがどの印象の写しかを探せばよいのです。たとえば、知覚の下にずっと続く実体としての自己の印象は見つかりません。そこでヒュームは、自己とは結びつき合った知覚の束だ、と論じました(1.4.6) [1] 。次の節では、同じ探し方を、原因と結果の「必然」の観念に向けます。 ヒューム自身、この原理への反例になりうる例を挙げています。30 年間目が見え、あらゆる色をよく知っているのに、ある一つの青の色合いだけを見たことがない人がいるとします。その色合いを除いて、濃い青から薄い青まで並べると、その人は抜けた所に隙間を感じるでしょう(『人間知性研究』2.8) [1] 。ヒュームはこの例を認めながらも、原理を捨てませんでした。色合いの段階という珍しい場合で、原理を使いたい場面には広がらないからだ、と読まれています [1] 。 ここで間違えやすい 観念は印象の写しだから、ヒュームは見たことのないものは何も考えられないと言った、と取るのは誤りです。写しの原理が言うのは単純な観念のことで、複合の観念は単純な観念を組み合わせて作れます。また、写しの原理はヒュームの中心となる道具の一つですが、唯一の道具ではありません。観念を結びつける原理や、観察と実験の方法も合わせて使っています [1] 。 必然的結合の観念――結びつきは玉の中ではなく、見る人の心にある ヒュームによれば、私たちの因果の観念には三つの部分があります。原因と結果が場所の上で近いこと、原因が時間の上で先にあること、そして何より、両者のあいだの 必然的結合 です [1] 。前の二つは目で確かめられます。問題は三つ目です。ヒュームは写しの原理を当て、この観念を生む印象を探します [1] 。 探し方は組織立っています。外の印象か内の印象か、一回の例か繰り返しの例か、の二つの分け方で、四つの場合を調べるのです [1] 。一回の例では、外でも内でも、結びつきそのものは経験できません。玉突き台の上で、白い玉が赤い玉に当たり、赤い玉が動きだすとします。どれほど目をこらしても、見えるのは、当たることと動きだすことが続けて起こることだけです。生まれて初めてこれを見る人は、赤い玉が動くのか、止まったままなのか、白い玉が跳ね返るのかを、前もって言えません(色や場面は本教材の作例)。 一つ目:初めて見る ? ? ? 動く?止まる?跳ね返る? カチッ 結果を前もって言えない 二つ目:何度も見たあと 習慣の道 赤が動くぞ! 外の玉に塗り広げる 玉は同じ。変わったのは心 図 2 ビリヤードの玉の衝突を、二つの場面で描いたものです(玉の衝突は『人間本性論』1.3.14 の例、場面と吹き出しは本教材の絵)。一つ目は初めて見たとき、二つ目は何度も見たあとです。台も玉も同じで、変わったのは見ている人の心だけです。二つ目の点線の矢印は、心の予期を外の玉に投げかけることを示します。 では、同じ例を百回見たらどうでしょうか。ヒュームは、繰り返しは対象そのものに何も新しいものを加えない、と言います [1] 。一つ一つの衝突は互いに別々の出来事で、今日の二つの玉の衝突は、一年前の衝突と何の関わりもありません(『人間本性論』1.3.14) [2] 。けれども、繰り返しは心の側に変化を起こします。何度も見たあとでは、白い玉が近づくだけで、赤い玉が動くことを思い浮かべずにはいられなくなります。この、一方から他方へ移る心の傾きが、必然の観念のもとになる反省の印象です [1] (図 2) 。 私たちはふつう、この心の傾きを、玉そのものの性質のように感じています。ヒュームは、心には「外の物に自分を塗り広げる」大きな傾きがある、と言います(1.3.14.25) [1] 。必然を見ているつもりで、実は自分の予期を外の玉に投げかけているのです。ヒュームはここから原因を二通りに定めます。一つは、似たものがいつも似たものに続く、という恒常的連接による定義です。もう一つは、一方の現れがいつも心をもう一方の考えへ運ぶ、という心の移りによる定義です(『人間知性研究』7.29) [1] 。 この結論をどこまで強く読むかは、今も争われています。ヒュームは世界の中の客観的な必然的結合を、考えることさえできないとして退けた、と読む「古いヒューム派」があります。他方、そうした結合を考えることも、それがありうることも認めていた、と読む「新しいヒューム派」もあります [1] 。 ここで間違えやすい ヒュームが、原因と結果など無い、世界はでたらめだ、と言った、と取るのは誤りです。ヒュームは、私たちが因果を信じて推論することを疑っておらず、その信念がどこから来るのかを説明しています。原因の定義も二つ与えています。また、「必然性は心の中にある」を、一人ひとりが勝手に作る思いこみ、と取るのも粗い読みです。習慣は誰の心にも働く自然の傾きで、しかも外で繰り返される規則正しい続き方に応じて生まれます [1] 。 帰納の問題――明日も太陽が昇ると、なぜ言えるのか ヒュームは知識を二つの種類に分けます。後に「ヒュームのフォーク」と呼ばれる分け方です [1] 。一つは「2+2=4」のような 観念の関係 で、経験に頼らずに確かめられ、否定すると矛盾します。もう一つは「サメは肉を食べる」のような事実の問題で、経験でしか確かめられず、否定しても矛盾しません(『人間知性研究』4.1) [1] (表 1) 。 この表で分かること: 「未来は過去に似る」と同じく、「明日も太陽が昇る」は否定しても矛盾しない事実の問題なので、論証では示せません。 命題 種類 否定すると どう確かめるか 2+2=4 観念の関係 矛盾する 考えるだけで サメは肉を食べる 事実の問題 矛盾しない 経験で 明日も太陽が昇る 事実の問題 矛盾しない 経験で、と思うと循環 表 1 ヒュームのフォーク(『人間知性研究』4.1)の当てはめです。一行目と二行目は SEP の例、三行目は本教材の当てはめです [1] 。 経験から引き出す結論は、どれも「未来は過去に似る」という前提に立っている、とヒュームは言います(4.19) [1] 。この前提を 一様性の原理 と呼びます。では、この原理は何に支えられているのでしょうか。SEP の整理では、ヒュームは四つの候補を調べます [1] (図 3) 。感覚は、いま見えているものしか教えません。直観も使えません。この原理は自明ではないからです(4.16) [1] 。 残るのは推論です。論証は使えません。「未来は過去に似ない」と考えても矛盾しないからです(4.18) [1] 。最後の候補は、経験に基づく蓋然的な推論です。しかし、「これまで未来は過去に似てきた、だからこれからも似る」と推すこと自体が、一様性の原理を前提にしています。これでは循環です(4.19) [1] 。こうしてヒュームは、一様性の原理は理性に基づかない、と結論します。 一様性の原理 未来は過去に似る。これは何に 支えられるか 直観 観念の関係・すぐに:自明ではない (×) 論証 観念の関係・推論で:否定しても 矛盾しない(×) 感覚 事実の問題・すぐに:いま見える ものしか教えない(×) 蓋然的な推論 事実の問題・推論で:原理を前提に するので循環(×) では何が? 習慣(『人間知性研究』5.5) 図 3 上の箱の一様性の原理を支えうる候補を、観念の関係か事実の問題か、すぐにか推論でか、の二つの分け方で四つに並べたものです(SEP の整理による)。上から順に、四つともふさがります。そこでヒュームは、答えを理性の外の習慣に求めます。 それでも私たちは、明日も太陽が昇ると思い、火に手をかざしません。ヒュームの答えは 習慣 です。同じことを繰り返し経験した心は、推論を挟まずに、同じ動きを繰り返す傾きを持つのです(5.5) [1] 。後にラッセルは『哲学の諸問題』(1912 年)で、毎日えさをくれた人に、