7.15 訳を比べる — 何を先に立てたか — Epoché
この課でできるようになること ★ 同じ原文の訳が分かれる理由 が言える。 ★ 先に立てる四つ (意味・語順・文体・音)が分かる。 ★ 読み手を決めてから訳す ことができる。 ★ 自分の訳を、自分で採点できる 。 前提 : 7.14 まで。 なぜ訳す ★ ここまでの訳編は、 どう訳すか でした 。★ この課は 訳されたものを読む側 に回ります 。 ★ 同じ原文に、 いくつもの邦訳があるのはなぜか 。★ どれかが間違っているから、ではありません 。★ 訳す人が 何を先に立てたか が違う からです。 ★ 先に立てられるものは四つ です——★ 意味 (原文が言っていること)、★ 語順 (情報の出てくる順)、★ 文体 (硬さ・古さ・語り手の距離)、★ 音 (長さ・拍・響き)。★ 四つ全部を立てることはできません ——★ だから訳は分かれます 。 ★ 読む側がこれを知っていると、 訳文の選び方が変わります 。★ 「読みやすい訳」を探すのではなく、 自分の用に合う訳 を探せるように なります。 手順 ★ 訳を比べるときは、 次の順で見ます 。 どの段 何を見るか 見分け方 ★ 一 ★ 骨が同じか ★ 主語と動詞が入れ替わっていないか ★ 二 ★ 語順を守ったか ★ 原文の順に情報が出るか ★ 三 ★ 文体をどこに置いたか ★ 文末(です・だ・である)と語の硬さ ★ 四 ★ 音を残したか ★ 声に出したときの長さと切れ目 ★ 一が違えば誤訳 です。★ 二から四が違うのは、 選択 であって誤りではありません 。★ この区別を付けられることが、 この課の到達点 です。 実例 一 — 三語の文(『白鯨』の語り出し) Call me Ishmael [1] どの訳か 訳例 先に立てたもの ★ 甲 ★ 「わたしをイシュメールと呼んでくれ」 ★ 語順と音 ★ 乙 ★ 「イシュメールという名で通してもらおう」 ★ 意味 丙 「名はイシュメールとしておく」 ★ 文体(語り手の距離) ★ 三語しかないのに、 訳は分かれます 。★ 分かれ目は この語り手が名乗っているのか、名乗りを避けているのか です。★ 原文は My name is Ishmael ではありません ——★ 本当の名かどうかを、 言わずに済ませている のです。 ★ 甲は原文の三語をそのまま写します ——★ 短さと、呼びかけの形が残ります 。★ 乙は含みを開いて説明します ——★ 分かりやすいが、長くなります 。★ 丙は語り手を遠くに置きます ——★ 硬いが、名乗りを避けた感じが出ます 。 二 — 長い一文(ミル『自由論』) The only freedom which deserves the name, is that of pursuing our own good in our own way, so long as we do not attempt to deprive others of theirs, or impede their efforts to obtain it [2] どの訳か 訳例 先に立てたもの ★ 甲 ★ 「その名に値する唯一の自由は、他人の自由を奪おうとせず、それを得ようとする努力を妨げないかぎりにおいて、自分の善を自分のやり方で追い求める自由である」 ★ 意味と文体 ★ 乙 ★ 「自由と呼べるものは一つだけだ。自分にとってよいことを、自分のやり方で追うこと。ただし、他人の自由を奪わず、他人がそれを求めるのを妨げないかぎりで」 ★ 語順と読みやすさ ★ 甲は一文のまま です——★ 原文が一文なら訳も一文、という立て方 。★ 乙は三文に割りました ——★ 原文の順に情報を出し、 条件を最後に置いた 。 ★ どちらも骨は同じ です——★ 主語は The only freedom 、述語は is that of pursuing 。★ 3.34 型編 の長文の解剖 が、そのまま 割り方の設計図 になっています。 ★ 論文や法の文書では甲 を、★ 入門書や記事では乙 を選びます。★ 読み手を決めれば、 どちらかは自動的に決まります 。 三 — 音が意味になっている文(『ハムレット』) To be, or not to be, that is the question [3] どの訳か 訳例 先に立てたもの ★ 甲 ★ 「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」 ★ 音(拍の数と切れ目) ★ 乙 ★ 「あるか、あらぬか、それが問いだ」 ★ 意味(原文は生死と言っていない) ★ 原文に live も die も出てきません ——★ あるのは to be だけ です。★ 甲は 場面から補って います (この場面のハムレットは死を考えている)。★ 乙は 補わずに置きます ——★ 読み手に考えさせる代わりに、 何のことか分かりにくくなります 。 ★ 短く、 同じ形が二度出て、三つめで受ける ——★ これが原文の作り です( 5.40 聞編 の三点の構え)。★ 甲はこの作りを 日本語で写しました ——★ 「べきか」が二度、「それが」で受ける 。★ 音を先に立てたので、 意味の一部を足すことになった のです。 やってみる ★ 三語を五通りに 。 Call me Ishmael を 五通りに訳し 、★ それぞれ何を先に立てたか を一行で書く。 ★ 長い一文を割る 。ミルの一文を 二文・三文・四文 に割ってみて、★ どこで骨が壊れるか を見つける。 ★ 文末をそろえる 。同じ訳を 「です・ます」 と 「である」 の両方で書き、★ 語の硬さも一緒に動く ことを確かめる。 ★ 自分の訳を採点する 。 8.180 読編 から一段落を選んで訳し、 手順の四つの段 で自分に点を付ける。 練習 ★ 三つの実例を音読 する。★ 原文を読んでから、 自分の訳を続けて読む ——★ 長さの差 を耳で確かめる。 ★ シャドーイング 。ハムレットの一行を、 切れ目をまねて 三度重ねて読む。 ★ 訳を裏返す 。自分の日本語訳だけを見て英語に戻し、 原文とどこが違うか を見る。 この課のまとめ ★ 訳が分かれるのは腕の差ではない —— 何を先に立てたか の差。 ★ 先に立てられるのは四つ ——意味・語順・文体・音。★四つ全部は立てられない。 ★ 骨(主語と動詞)が違えば誤訳、それ以外の違いは選択。 ★ 読み手を決めれば、捨てるものが決まる ——論文なら意味、入門書なら読みやすさ。 ★ 短い文ほど訳は分かれる ——三語の Call me Ishmael で何通りにもなる。 ★ 原文に無い語を足すことがある —— to be に「生きる」を足すのは、音を立てた代償。 ★ 長い一文は割ってよい ——骨が残っているかどうかだけを見る( 3.34 型編 )。 次の課へ 次の課は 7.16 、 訳編の最後 です。★ この課で 訳を比べました 。★ 次の課は 訳から離れます ——★ 英語を英語のまま扱う ところまで行きます。 答え 「やってみる」の四つの答えです。 ★ 五通りに訳したとき。 ★ 三語しかないのに分かれるのは、 call が「呼べ」とも「呼んでくれ」とも「そう呼んでおけばよい」とも取れる からです。★ 命令形の強さは、 日本語では文末で決まります ——★ 英語では 形が一つ ( 3.3 型編 )。 ★ 割ってみたとき。 ★ 四文に割ると、たいてい骨が壊れます ——★ 条件( so long as 以下)が 独立した文になってしまい、本文との結び付きが切れる からです。★ 割ってよいのは、 結び付きを言葉で足せるところまで ——★ 「ただし」「そのかぎりで」のような語です。 ★ 文末をそろえたとき。 ★ 「です・ます」にすると、 語まで柔らかくなります ——★ 「追い求める」が「追う」に、「妨げない」が「じゃましない」に なりがちです。★ 文末は 文体の入口 であって、それだけを取り替えることはできません。 ★ 自分に点を付けたとき。 ★ いちばん落としやすいのは 二(語順) です。★ 日本語に直すとき、 原文の最後にあるものを先に出してしまう ——★ 読みやすさのために 強調の位置が入れ替わる ( 3.42 型編 )。★ それが悪いのではなく、 やったと気づいているか が大事 です。 参考文献 Herman Melville, "Moby-Dick; or, The Whale"(1851)。パブリックドメイン。https://www.gutenberg.org/ebooks/2701 John Stuart Mill, "On Liberty"(1859)。パブリックドメイン。https://www.gutenberg.org/ebooks/34901 William Shakespeare, "Hamlet"(1603 年ごろ)。パブリックドメイン。https://www.gutenberg.org/ebooks/1524