承認と多文化主義――違いをどう扱うか — Epoché
思想 自由・平等・正義 約 27 分 本文 約 12,000 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 問題・擁護・批判の 3 つ 問題 国家は学校の言語や休日の暦で特定の文化を前提にせざるをえず、同じ規則が少数派にだけ重くのしかかることがある。 擁護 テイラーは承認をアイデンティティの条件とみて承認の政治を唱え、キムリッカは文化を自由な選択の土台とみて集団別の権利を擁護した。 批判 文化の固定・無関心で足りる・平等は同じ扱い・集団の内側の弱者・再分配の後退という批判があり、擁護論はそれぞれに応答している。 はじめに ある公立中学校に、信仰の理由で髪をスカーフで覆う生徒が転入してきたとします(本教材の作例)。校則には「校内では帽子やかぶり物を脱ぐ」とあります。全員に同じ校則を当てるのが公平でしょうか。それとも、この生徒には例外を認めるのが公平でしょうか。どちらの答えにも、もっともな理由がありそうです。 この問いは、遠い外国の話ではありません。日本では 2019 年に、アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律(アイヌ施策推進法)ができました。この法律は、アイヌの人々が「民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会」の実現を目的に掲げています [10] 。同じ年の日本語教育の推進に関する法律(日本語教育推進法)は、「多様な文化を尊重した活力ある共生社会」の実現を目的の一つにしています [11] 。違いをどう扱うかは、日本の法律の言葉にもなっているのです。 政治理論では、この問いを「承認」と「多文化主義」という言葉で論じてきました。多文化主義は「アイデンティティの政治」「差異の政治」「承認の政治」と結びつけて語られます。共通するのは、軽んじられてきたアイデンティティの価値を見直し、ある集団を周辺に追いやる表現や伝え方の型を変えようとする姿勢です [1] 。ただし、多文化主義は文化だけの問題ではありません。周辺に置かれた集団の一員であるために被る、経済と政治の不利を正す要求も含みます [1] 。 この課程の『平等』の課では「何の平等を求めるのか」を、『分配的正義』の課では公正な分配の原理を見ました。この課では、平等のもう一つの面、つまり文化や宗教の違いを公正に扱うとはどういうことかを考えます。まず問題の形を確かめ(第 1 節)、承認の政治(第 2 節)とリベラルな多文化主義(第 3 節)という二つの擁護論を見て、最後に批判と争点を整理します(第 4 節)。本教材は、どの立場が正しいかを決めず、論点を並べます。 この課の問い 一つの社会に言語・宗教・民族の違う人々が暮らすとき、国家は全員を「同じに」扱えば公正なのでしょうか。それとも、違いに応じた扱いが要るのでしょうか。 この課のことば 承認 相手を対等な者として、また固有の特徴をもつ者として認めること。名前を正しく呼ぶ、言葉や習慣を見下さない、といった日常の態度から、法律や制度での扱いまでを含みます。 集団別の権利 少数派の集団やその成員に認める、多数派とは違う扱い。信仰の理由による規則の免除、少数言語の学校への補助、議席の割当て、限られた自治などがあります。 選択の文脈 人が人生の選択肢を意味のあるものとして思い描くための土台になる、言語や慣習の世界。キムリッカの言葉です。 内なる少数者 少数派の集団の中で、さらに弱い立場にある人。女性・子ども・性的少数者・異論をもつ信者などです。 参加の同等 誰もが対等な者として社会生活に加われる状態。フレイザーが、正義の基準として立てた言葉です。 違いの扱い方――同じに扱うか、違いに応じるか この章では、多文化主義が何を求めているのかを確かめたうえで、それを擁護する二つの代表的な議論と、それに向けられた批判を順に見ます。どの節でも、「〜すべき」という主張が誰のものかを示し、本教材の評価と分けて書きます。 問題――同じ規則が同じ重さとは限らない 多文化主義の名で出される要求は、思ったより幅広いものです。スタンフォード哲学百科事典(SEP)の「多文化主義」の項目は、例として五つの型を挙げます [1] 。第一は、一般の法からの免除です(信仰の理由による免除など)。第二は、多数派がすでにできていることへの援助です(多言語の投票用紙、少数言語の学校や民族団体への補助、積極的な差別是正措置)。第三は、統治機関での代表です(政党名簿や議席の割当て)。第四は、伝統の法の承認です(家族法の管轄を宗教裁判所に認めるなど)。第五は、限られた自治です(部族の主権の限られた承認、ケベックの自治を認める連邦の仕組み)。 要求の中身も一様ではありません。同じ項目によると、移民の要求の中心は言語と宗教で、民族的な少数派が求める中心は自治の権利です [1] 。ひとまとめに「文化」と呼ばれますが、宗教・言語・民族・ナショナリティ・人種という別々の問題が含まれていて、分けて考えると何が争われているかが見えやすくなります [1] 。 では、なぜ全員に同じ規則を当てるだけでは足りないと言うのでしょうか。自由主義の立場から多文化主義を擁護する論者(キムリッカら)の答えは、国家は文化に対して中立になりきれない、というものです [1] [4] 。国家は人種による差別を禁じ、国教を置かないことはできます。しかし、公立学校の授業や役所の手続きにどの言語を使うかは、一つに決めないわけにいきません。週の休みや祝日も、特定の宗教の暦に沿って組まれがちです [1] 。言語の優位は、学校・職場・政治での優位につながります。さらに、国家がある言語や習慣を選ぶこと自体が、どの集団の文化がより重んじられているかを示してしまう、とも論じられます [1] 。 二つの求めの間に立つ生徒 かぶり物は禁止 学校 信仰の求め 髪を覆う 校則の求め 校内では脱ぐ 内在的な負担:信仰そのものが求める 外在的な負担:規則とぶつかって生じる 図 1 かぶり物を禁じる校則の前に立つ生徒(本教材のたとえの絵)。信仰はかぶることを求め、校則は脱ぐことを求めます。帽子の生徒は脱げば済みますが、スカーフの生徒には、二つの求めがぶつかる所で負担が生じます。内在的な負担と外在的な負担の区別はジョーンズによります [1] 。 規則の負担についても、区別が提案されています。ピーター・ジョーンズは、二種類の負担を分けました [1] 。一つは、祈りや断食のように、信仰そのものが求める「内在的な負担」です。もう一つは、信仰の求めと国家の求めがぶつかって生じる「外在的な負担」です。信仰が求めるのは特定の服装であって、学校や仕事を休むことではありません。それでも服装を禁じる規則があれば、信者は学校や職場に行くか、信仰を守るかの選択を迫られます。SEP は二つの例を挙げています [1] 。一つは、ユダヤ教の聖職者でもあった米空軍の将校シムハ・ゴールドマンが、ヤムルカ(小さな帽子)を着けたいと望んだ事件です(1986 年の連邦最高裁の判決)。もう一つは、フランスの公立学校での宗教的な服装の禁止で、スカーフで通学したいムスリムの女子生徒に負担をかけます。内在的な負担は本人が担うものですが、外在的な負担については少数派が担うのを助けることが正義の要求だ、と自由主義の多文化主義者は論じます [1] 。 日本の法律にも、この問題に触れる条文があります。日本語教育推進法 3 条 7 項は、日本に住む幼児期と学齢期の外国人等について、「家庭における教育等において使用される言語の重要性に配慮して」日本語教育を進めるよう定めています [11] 。日本語の習得を支える施策を進める際にも、家庭で使う言語の大切さに配慮するよう求める規定です。 ここで間違えやすい 「みんなに同じ規則を当てれば公平」とは限りません。規則の側が、多数派の言語や暦や服装を前提にしていることがあるからです。ただし逆に、負担が重いというだけで直ちに免除すべきだと決まるわけでもありません。どの負担を、誰が、どこまで分かち合うかが、第 4 節で見る争点です。 承認の政治――アイデンティティは他者との対話でつくられる 多文化主義を擁護する一つ目の議論は、自由主義への共同体論の批判から出てきました。自由主義者の多くは、一人ひとりが自分の善い生き方を自由に選び追求すべきだと考え、共同体の生活や集団の善よりも個人の権利と自由を優先します。共同体論者が問題にしたのは、個人が共同体に先立つという社会の見方でした。彼らは、集団の善を個人の幸福への貢献に還元できない、それ自体で価値のあるものとみます [1] 。 この見方に立って「承認の政治」を唱えたのが、哲学者チャールズ・テイラーです。テイラーはルソー、ヘルダー、ヘーゲルらに拠りながら、人は孤立して自分のアイデンティティを定めるのではないと論じます。私たちは、身近な重要な他者が自分に見たいと望むものとの対話の中で、ときにはそれとの闘いの中で、アイデンティティを定める、というのです [1] [3] 。そうだとすれば、私たちは他者からの承認に頼っています。テイラーによれば、周りの人々や社会が、ある人や集団に、狭く、卑しめられた、軽蔑すべき姿を映し返すと、その人や集団は本当の損傷や歪みを被りうるのです [1] [3] 。この闘いは、対等な者どうしが互いに承認し合う体制によってしか、満足のいく形で解決できないとされます [1] 。 平等な尊重の政治 承認の政治 権利の規則を 例外なく一律に 当てる 善い生についての 判断に基づく 集団としての目標を 疑う 文化の存続を集団の 善として守る 違いに 冷たくなりうる (テイラーの評) すべての文化の 等しい価値を 推定する 図 2 テイラーによる二つの政治の対比(典拠は SEP [1] とテイラー [3] )。二つの列の項目は、同じ観点の順にそろえています。 テイラーは、承認の政治を、従来の自由主義の「平等な尊重の政治」と対比しました。平等な尊重の政治は、権利の規則を例外なく一律に当てることを求め、集団としての目標を疑います。そのため違いに対して冷たい、とテイラーは評します [1] [3] 。これに対して承認の政治は、善い生とは何かについての判断、とくにそれぞれの文化がまとまりを保って存続することに重きを置く判断に基づきます。テイラーが挙げる例は、ケベックのフランス語の存続です。フランス語は、個人が使いたいから残す共同の資源にとどまらず、それ自体として守られるべき集団の善だとされます。そこからテイラーは、すべての文化が等しい価値をもつと「推定」すべきだと論じました [1] [3] 。推定であって、すべての文化が等しく価値をもつと断定したわけではありません。 では、違いを承認するとは、相手の文化を高く評価することでしょうか。SEP の「承認」の項目は、ここに二つの読み方があると整理します [2] 。一つは、違いへの配慮を、対等な地位をもつ者への、事情に応じた尊重とみる読み方です。もう一つは、特有の性質やアイデンティティそのものを価値あるものとして評価すべきだとする読み方です。後者には難しさがあります。よく知らないまま、あるいは自分の信念に反して評価するのは本当の評価ではなく、かえって侮辱になりうるからです。そこでテイラーは、異なる文化に最大限に開かれ、長い歴史をもつ伝統には何か価値あるものがあるはずだ、という原理に導かれるよう求めました [2] 。他方で、評価は公共の政治が配るものではなく、全員から尊重され、身近な人々から評価されれば足りるという立場(ロールズ、ハーバーマス)もあります [2] 。 日本では、2008 年 6 月 6 日に衆議院と参議院の本会議で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が可決されました。衆議院では異議なく、参議院では投票総数 231・賛成 231・反対 0 の全会一致でした [12] 。決議は、近代化の過程で多数のアイヌの人々が「法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされた」歴史を受け止めるべきだと述べ、政府にアイヌの人々を先住民族として認めるよう求めています [12] 。2019 年のアイヌ施策推進法は、それまでのアイヌ文化振興法(1997 年)を廃止して制定され [10] 、第 1 条で「誇りが尊重される社会」を目的に掲げました。法的に同じ国民として扱うだけでは足りず、民族としての誇りの尊重を求めるという筋は、テイラーの言う承認の語彙に近いと読めます(本教材の読み)。 ここで間違えやすい 承認は、相手を好きになることや、相手のすべての習慣を良いと認めることではありません。対等な地位を認める尊重と、特有の価値を評価することは区別され、後者を政治が配れるかどうかには争いがあります。 リベラルな多文化主義――文化は自由な選択の土台 二つ目の擁護論は、自由主義の内側から出てきました。共同体論の批判を受け止めて自由主義を作り直した、ウィル・キムリッカの議論です。SEP は、これを最も影響力のある自由主義の多文化主義の理論と呼んでいます [1] 。キムリッカは、テイラーのように集団の善それ自体から出発しません。文化は個人にとって役に立つから価値がある、とみます。理由は二つです [1] [4] 。 第一に、文化は自律の条件です。自分で人生を選ぶには、意味のある選択肢が十分な幅でそろっている必要があります。キムリッカは、文化を「選択の文脈」と呼びます。人は、文化が与える選択肢と筋書きによって、目標を立て、見直し、追い求めるのです [1] [4] 。第二に、文化は自分が何者かを支える錨です。キムリッカは、文化への帰属が「自己理解の錨」と、努力なしに得られる確かな帰属の安心を与えるという、哲学者マルガリートとラズの言葉を引きます [1] 。だから大事なのは、どれか一つの文化ではなく、自分の文化に近づけることです。 選択の文脈 文化は意味のある選択肢と自己理解の 錨を与える 選んでいない不利 少数派は自分の文化に近づきにくい 費用の分かち合い 国家は中立になれないので、多数派も 調整を担う 集団別の権利 外部からの保護は認め、内部への制約は 退ける 図 3 キムリッカの論証の流れ(本教材の整理。典拠は SEP [1] )。最後の段の「外部からの保護」は、集団が成員を縛る「内部への制約」を