14.82 歴史はひとりの中にある — 抽象だけで押す随筆 — Epoché
この篇でできるようになること ★ 抽象名詞だけで押す文章 の読み方が分かる。 ★ 長い一文の次に短い言い切りを置く 作りが見える。 ★ 段落の頭はいつも短い という型が数で確かめられる。 ★ 具体を固有名詞の列で入れる やり方が読める。 前提 : 特別編に門はありません。第 5 期まで済んでいれば、どこからでも読めます(目安は 3.40 まで/4.60 まで)。 読む前に ★ 特別編はどの篇から読んでもかまいません 。★前の篇を読んでいなくても通じるように書いてあります。 ★ この随筆は 歴史の本ではありません 。★ 「歴史を読むとはどういうことか」を論じた文 です。★ だから固有名詞は出てきますが、 説明はいっさい付きません ——★ 名前は 例の材料 として並ぶだけ です。 どちらのことか 確かめること ★ ことばのこと ★ 抽象を言う語はラテン・フランス由来の層 —— mind と individuality のような差( 12.1 知編 ) ★ 背景のこと ★ エマソンは十九世紀の米国の思想家 ——この随筆は経験から考えを起こす流れの中にあります( 12.16 知編 ) ★ 同じ人の別の文はそちらにあります 。★ 8.114 読編 と 8.115 読編 が 『 Essays : First Series 』の別の一篇(自己信頼) ——★ この篇とまったく同じ本 です。★ 8.159 読編 は講演の文。★ 言い方が同じかどうか、読み比べてみてください 。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1753 語、段落は 9 つ、文は 84 本、一文の平均は 20.9 語です。 ★ ここで一つ、下調べが外れました 。★ 「エマソンは一文が長い」と聞いていたのですが、 測ると平均は 20.9 語 ——★ 前の篇(フランクリンの手紙)のほうが長いのです 。★ 本当の特徴は 長さではなく、幅と置き方 でした——★ いちばん短い文が 4 語、いちばん長い文が 90 語 。 どう測ったか 出た数 ★ 十語以下の文 ★ 84 本のうち 18 本 ★ 四十語以上の文 ★ 7 本 ★ 段落の長さ ★ 93 語から 356 語 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 すべての個々の人間に共通する、ひとつの精神があります。人は誰もが、その同じ精神へ、そしてその同じ精神のすべてへと通じる入り江です。ひとたび理性の権利を認められた者は、その全領地の自由民となります。プラトンが考えたことを、その人も考えることができます。聖者が感じたことを、その人も感じることができます。いつであれ、誰かの身に起こったことを、その人は理解することができます。この普遍的な精神に近づける者は、なされたこと、なされうることのすべてにあずかる者です。なぜなら、これこそが唯一にして至高の行為者だからです。 この精神の働きを記録したものが歴史です。その天分は、日々の連なりの全体によって示されます。人間は、その歴史の全部をもってしなければ説明がつきません。急がず、休まず、人間の霊は初めから歩み出て、自らに属するあらゆる能力、あらゆる思想、あらゆる感情を、それにふさわしい出来事のうちに形にしてゆきます。しかし、思想はつねに事実に先立ちます。歴史の事実はすべて、法則として精神のうちに先に存在しているのです。それぞれの法則は、そのときどきに優勢な事情によって順に作られ、自然の限界のために、一度に力を持てるのはただひとつだけです。一人の人間は、事実の百科全書のすべてです。千の森の創造が一粒のどんぐりの中にあり、エジプト、ギリシア、ローマ、ガリア、ブリテン、アメリカは、最初の人間の中にすでに折りたたまれて横たわっています。時代につぐ時代、陣営、王国、帝国、共和国、民主国は、人間の多様な霊を多様な世界にあてはめたものにすぎません。 この人間の精神が歴史を書いたのであり、この精神こそがそれを読まねばなりません。スフィンクスは自分の謎を自分で解かねばならないのです。歴史の全体が一人の人間の中にあるのなら、そのすべては個人の経験から説明されるはずです。私たちの人生の時間と、時の世紀とのあいだには、つながりがあります。私の吸う空気が自然の大きな貯えから引き出され、私の本を照らす光が一億マイルのかなたの星からもたらされ、私の体の釣り合いが遠心力と求心力の均衡にかかっているように、時間は時代に教えられ、時代は時間によって説明されるべきです。普遍的な精神にとって、個々の人間はひとりひとりが、もうひとつの化身です。その性質のすべてが、その人の中にあります。その人の私的な経験に起こる新しい事実のひとつひとつが、人間の大きな集団がしてきたことに光を投げかけ、その人の人生の危機は国家の危機に通じます。どの革命も、はじめは一人の人間の心に浮かんだ考えでした。そして同じ考えが別の人の心に浮かぶとき、それがその時代を解く鍵になります。どの改革も、かつては一人の私的な意見でした。そしてそれが再び私的な意見となるとき、それは時代の問題を解くでしょう。語られた事実は、信じられ、理解されるためには、私の中の何かに対応していなければなりません。私たちは読みながら、ギリシア人にも、ローマ人にも、トルコ人にも、司祭にも王にも、殉教者にも処刑人にもならなければなりません。そしてこれらの像を、私たちの秘められた経験の中の何らかの現実に結びつけなければなりません。さもなければ、何ひとつ正しく学ぶことはないでしょう。ハスドルバルやチェーザレ・ボルジアの身に起こったことは、私たちの身に起こったことと同じく、精神の力と堕落を示す例なのです。新しい法律や政治の動きのひとつひとつが、あなたにとって意味を持っています。その銘板のひとつひとつの前に立ち、「この仮面の下に、私のプロテウスの本性は身を隠していたのだ」と言いなさい。こうすることで、私たちが自分自身に近すぎるという欠点が正されます。こうすることで、私たちの行いは遠近の中に置かれます。そして、蟹も、山羊も、蠍も、天秤も、水瓶も、十二宮の星座として天に掛けられると卑しさを失うように、私は自分自身の悪徳を、ソロモンやアルキビアデスやカティリナという遠い人物の中に、熱くならずに見ることができるのです。 個々の人や物に価値を与えるのは、普遍的な本性です。人間の生命は、これを含んでいるからこそ神秘的で侵しがたく、私たちはそれを刑罰と法律で囲って守ります。すべての法律は、その究極の根拠をここから引き出しています。どの法律も、多かれ少なかれはっきりと、この至高で限りない本質の何らかの命令を言い表しています。財産もまた魂に属し、大きな霊的な事実を覆っています。そのため私たちは本能的に、はじめは剣と法律と、広く複雑な結びつきによって、それにしがみつくのです。この事実をぼんやりと意識していることが、私たちの一日のすべての光であり、要求の中の要求であり、教育を、正義を、慈善を求める訴えであり、友情と愛の、そして自らを恃む行いに属する英雄的な気高さと偉大さの土台なのです。注目すべきことに、私たちは思わず知らず、いつも自分を優れた存在として読みます。万国の歴史も、詩人たちも、物語作家たちも、そのもっとも堂々とした場面において、つまり聖職の宮殿や皇帝の宮殿において、意志や天分の勝利においても、どこにおいても私たちの耳を失わず、どこにおいても、自分は踏み込んではならない所に入っている、これはもっと優れた人々のためのものだ、と私たちに感じさせはしません。むしろ、そのもっとも雄大な筆致においてこそ、私たちはもっともくつろぐのです。シェイクスピアが王について言うことはすべて、隅で本を読んでいるあそこの小さな少年が、自分のことだと感じます。私たちは歴史の偉大な瞬間に、偉大な発見に、偉大な抵抗に、人間の偉大な繁栄に共感します。なぜなら、そこでは私たちのために法が定められ、海が探られ、陸地が見つけられ、一撃が加えられたからであり、私たち自身がその場にいたら、そうしたか、それに喝采したであろうからです。 身分や人柄についても、私たちは同じ関心を持っています。私たちが富める人を敬うのは、人間にふさわしい、つまり私たちにふさわしいと感じる自由と力と優雅さを、彼らが外面的に持っているからです。ですから、ストア派であれ東洋の人であれ現代の随筆家であれ、賢者について言われることはすべて、読者ひとりひとりに自分自身の理想を描き出し、まだ到達していないが到達しうる自分自身を描き出すのです。あらゆる文学が、賢者の人柄を書いています。書物も、記念碑も、絵画も、会話も、その人が形づくりつつある面影を見いだす肖像です。寡黙な者も雄弁な者も彼を称え、彼に語りかけます。そして彼は、どこへ行っても、まるで自分のことを言われたかのように奮い立たされます。ですから真に志す者は、人の話の中に、自分個人をほめる当てこすりを探す必要などけっしてありません。彼が聞くのは、自分自身への称賛ではなく、もっと快い、自分の求める人柄への称賛です。それを彼は、人柄について言われるあらゆる言葉の中に、いや、さらにあらゆる事実と事情の中に、流れる川の中に、さやぐ穀物の中に聞くのです。物言わぬ自然から、山々から、天空の光から、称賛のまなざしが向けられ、敬意が捧げられ、愛が流れてきます。 いわば眠りと夜から落とされたこれらの暗示を、私たちは真昼に用いましょう。学ぶ者は、歴史を受け身ではなく能動的に読み、自分自身の人生を本文とし、書物をその注釈とみなすべきです。そう迫られれば、歴史の詩神は、自らを重んじない者にはけっして告げないような神託を告げるでしょう。遠い時代に、名を遠くまでとどろかせた人々によってなされたことが、自分が今日していることよりも深い意味を持つと考える者が、歴史を正しく読むとは、私は少しも思いません。 世界は、ひとりひとりの人間の教育のために存在しています。歴史の中のどんな時代、どんな社会の状態、どんな行動の様式であれ、その人の人生の中に何かしら対応するもののないものはありません。あらゆるものが、驚くべきしかたで自らを縮め、自らの力をその人に差し出そうとします。人は、自分が歴史の全体を自分の身のうちで生きられることを悟るべきです。人はどっしりと家に腰を据え、王や帝国に脅されるままにならず、自分は世界のすべての地理、すべての政府よりも偉大なのだと知らなければなりません。歴史をふつう読むときの視点を、ローマやアテネやロンドンから自分自身へと移さなければなりません。そして、自分こそが法廷なのだという確信を否定してはなりません。イングランドやエジプトが何か言うことがあるなら、彼がその件を裁くでしょう。なければ、彼らは永久に黙っているがよいのです。事実がその秘められた意味を明け渡し、詩と年代記が等しくなる、あの高い見晴らしに達し、それを保たなければなりません。精神の本能、自然の目的は、私たちが歴史の名高い物語をどう用いるかに表れます。時は、事実の固い角ばりを、輝くエーテルへと散らします。どんな錨も、綱も、柵も、事実を事実のままにとどめてはおけません。バビロンも、トロイアも、テュロスも、パレスチナも、そして初期のローマでさえ、すでに作り話へと移りつつあります。エデンの園も、ギベオンで太陽が止まったことも、それ以来すべての国民にとって詩です。私たちがそれを天に掛けて不滅のしるしとする星座にしてしまったとき、事実がどうであったかを誰が気にするでしょう。ロンドンもパリもニューヨークも、同じ道をたどるに違いありません。ナポレオンは「歴史とは、合意された作り話にすぎないではないか」と言いました。私たちのこの人生は、エジプト、ギリシア、ガリア、イングランド、戦争、植民、教会、宮廷、商業で、ちょうどたくさんの花や、まじめなものも陽気なものもある野の飾りで囲むように、ぐるりと飾られています。私はそれらをこれ以上重んじるつもりはありません。私は永遠を信じます。私はギリシアも、アジアも、イタリアも、スペインも、島々も、つまりそれぞれの時代とすべての時代の天分と創造の原理を、自分自身の精神の中に見いだすことができるのです。 私たちはいつも、自分の私的な経験の中で、歴史の際立った事実に追いつき、ここでそれを確かめています。すべての歴史は主観的になります。言いかえれば、本来、歴史というものはなく、あるのは伝記だけなのです。どの精神も、学ぶべきことの全体を自分で知らなければなりません。土地の全体を自分で歩き回らなければなりません。自分で見ないもの、自分で生きないものを、その精神は知ることがないでしょう。前の時代が、扱いの便利のために公式や規則へと要約したものについては、その精神は、その規則という壁のせいで、自分で確かめることのよさをすべて失うでしょう。どこかで、いつか、精神は自分でその仕事をすることによって、その損失の埋め合わせを求め、見いだすでしょう。ファーガソンは、とうに知られていた多くのことを天文学で発見しました。それは彼にとってかえってよかったのです。 歴史はこうしたものでなければならず、さもなければ何ものでもありません。国家が定めるどの法律も、人間の本性のひとつの事実を示しています。それだけのことです。私たちは自分自身のうちに、あらゆる事実の必然の理由を見なければなりません。それがどのようにして起こりえたか、起こらねばならなかったかを見なければなりません。ですから、公のものであれ私的なものであれ、あらゆる仕事の前にそのように立ちなさい。バークの演説の前に、ナポレオンの勝利の前に、サー・トマス・モアの、シドニーの、マーマデューク・ロビンソンの殉教の前に、フランスの恐怖政治と、セイラムの魔女の絞首刑の前に、狂信的な信仰復興運動と、パリやプロヴィデンスでの動物磁気の前に。私たちは、自分たちも同じ影響の下にあれば同じように動かされ、同じようなことを成し遂げるはずだと考えます。そして、私たちの仲間、私たちの代理人が達したのと同じ高み、あるいは同じ堕落に、その歩みを知的に身につけて達しようとするのです。 語釈 帯の外の語は 155 語あります。★ 多いので二つに割りました ——★ 前半は 名前 ( 47 語)、後半は 考えを言う語 ( 108 語) 。★ 名前は覚えなくてかまい