カルナップ――検証できない命題は無意味である(論理実証主義) — Epoché
現代 分析哲学と言語哲学 約 17 分 本文 約 7,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 規準・擬似文・表現の 3 つ 規準 語が意味を持つのは、その語が出てくるいちばん簡単な文が、どんな場合に正しく、どう確かめられるかが決まっているときである。規準の無い作り語「バービッヒ」は、気分や心の絵を伴っても何も言わない、とカルナップは論じた(「言語の論理的分析による形而上学の克服」1932)。 擬似文 形而上学の文は、規準の無い語を含むか、意味のある語を論理の構文に反して並べた擬似文で、正しくも誤りでもない。意味を持つのは経験の文と、論理だけで真偽の決まる文(恒真の文とその否定の矛盾文)である、とカルナップは言う(同)。 表現 形而上学は知識ではなく生の感じ方の表現で、それにふさわしいのは芸術だ、とカルナップは言う(同)。ただし決定的な検証を求める素朴な検証原理を彼が唱えたことは無く、科学の理論は確証の度合いを持つとみていた。のちには言葉の選び方に寛容の原理をとった(SEP)。 はじめに ルドルフ・カルナップ(1891〜1970)は、ドイツ生まれの哲学者です。イェーナ大学などで物理学・数学・哲学を学び、イェーナではフレーゲの論理学の講義を聞きました。第一次世界大戦に従軍した経験から、人々が共に暮らす土台として、誰もが確かめられる客観的な知識を重んじるようになります [1] 。 1926 年、カルナップはウィーン大学に移り、ウィーン学団の中心の一人になり、1928 年に『世界の論理的構築』を出しました [1] 。その立場は論理実証主義と呼ばれます。のちにアメリカに渡り、シカゴ大学などで教えました。 この課で読むのは、1932 年に雑誌『認識( Erkenntnis )』に載った論文「言語の論理的分析による形而上学の克服」です [2] 。カルナップはここで、形而上学の文の多くは、正しくも誤りでもない、何も言っていない文だと論じました。題名の「検証できない命題は無意味」は、この論文の立場を短く言ったものです。ただし、ここでの「検証」は一度の観察で決着をつけることではなく、文と観察とのつながりが決まっていることです(第 1 章の三つ目の節で見ます)。 この課の問い 「世界の根本の原理は何か」「無とは何か」。けれども、答える前に、その問いの文がそもそも何かを言っているのかを調べるべきではないでしょうか。どうすれば正しいと確かめられるのか、その道筋がまったく無い文にも、意味はあるのでしょうか。 この課のことば 論理実証主義 1920〜30 年代にウィーン学団を中心に広まった立場。新しい論理学で言葉を分析し、知識になるのは経験で確かめられる科学の文と、論理・数学の文だと考えました。論理経験主義とも呼びます。 ウィーン学団 1920 年代のウィーンで、哲学者・科学者・数学者が集まった討論の会。カルナップらが加わり、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を出発点として読みました。 形而上学 経験を超えたものの本当のありさま(ものの本質、世界の根本の原理、神、無など)を述べようとする学。この課では、カルナップが知識の装いをしているとみた学のことです。 検証 文が正しいかどうかを、観察や実験で確かめること。カルナップは、文の意味はその確かめ方によって与えられると考えました。 擬似文 文法の上では文の形をしていて、何かを言っているように見えるのに、実は何も言っていない語の並び。正しいとも誤りとも言えません。 分析的な文 語の意味と論理だけで正しいと決まり、経験で確かめる必要の無い文。「2+2=4」など。その否定は、論理だけで誤りと決まる矛盾文になります。 形而上学の克服――その文は何かを言っているのか 二つ前の課のラッセルは、「現在のフランス王は禿げている」の文法の形の下に、論理形式を取り出しました。前の課のウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』で、語りうることの限界を引こうとしました。カルナップは 1932 年の論文で、こうした論理による分析の道具を、形而上学という学そのものに向けます [2] 。この章では、語が意味を持つ条件、文が意味を持つ条件、そして形而上学が本当は何をしているのか、を順に読みます。 語の意味――確かめる規準の無い語は何も言わない カルナップは、語の意味をどう決めるかから始めます [2] 。まず、その語が出てくるいちばん簡単な文の形を決めます。「石」なら「x は石である」という形です。次に、この文がどんな観察の文から導かれ、どんな条件で正しく、どんな条件で誤りになるかを決めます。たとえば「節足動物」なら、「x は動物で、体が節に分かれ、節のある脚を持つ」といった観察の文から導かれる、と決めます。こうして確かめる規準が決まれば、語の意味が決まる、とカルナップは言います [2] 。 カルナップは、その文が何から導かれるか、どんな条件で正しいか、どう検証されるか、その意味は何か、という四つの問いの答えは、同じことを言い表すと考えます [2] 。ここから、文の意味はその確かめ方にある、という考えが出てきます。ただし、ここでの確かめ方は、観察の文とのつながりのことです。一度の観察で決着がつくことまでは求めていません。この点は三つ目の節で見ます。 規準の無い語の例として、カルナップは作り語「バービッヒ」( babig )を持ち出します(第 2 節) [2] (図 1) 。ある人が、ものにはバービッヒなものとそうでないものがある、と言います。どうすれば見分けられるのかと聞かれても、その人は経験で確かめる目印を一つも示せません。それでも「この語を聞くと、ある感じがする」と言い張るとします。カルナップによれば、その気分や心の絵は話し手の心理の事実で、語に意味を与えはしません [2] 。 確かめる規準の無い語 バービッヒなもの バービッヒでないもの ? ? どれで分かる? 気分・心の絵 この石はバービッヒだ。 道具では分からない。でも感じはする どちらの箱に入れても何も言っていない 図 1 作り語「バービッヒ」の場面です。作り語はカルナップ本人の例で、机・二つの箱・道具を抱えた聞き手は本教材の絵です。石から二つの箱へ伸びる点線は、どちらにも届きません。 カルナップは、形而上学の語の多くも同じだと言います [2] 。「原理」は、「y は x から生じる」のように経験の規則に言い換えられるかぎり、意味を持ちます。しかし形而上学者がその言い換えを拒み、経験を超えた意味で使うと言うなら、語は意味を失います。「神」も、経験を超えた存在とされると同じことになる、とカルナップは論じます [2] 。SEP によれば、カルナップは、哲学の問題の多くは、科学以前の暮らしのためにできた言葉の不備から生まれると考えていました [1] 。だから、答える前に言葉を調べるのです。 ここで間違えやすい カルナップの言う「無意味」を、「つまらない」「まちがっている」の意味に取らないでください。誤った文は、確かめ方が決まっていて、確かめた結果が否だっただけで、意味を持っています。「この石は鉄でできている」が実際には誤りでも、何を調べればよいかは分かります。無意味とは、正しいとも誤りとも言えない、何も主張していない、ということです。また、語に伴う気分や心の絵があることを否定しているのでもありません [2] 。 文の意味――文法の網の目は論理の規則より粗い 擬似文には二つの種類がある、とカルナップは言います [2] 。一つは、前の節で見た、確かめる規準の無い語を含む文です。もう一つは、語はみな意味を持つのに、並べ方が論理の構文の規則に反する文です (図 2) 。 文の形をした語の並び 語の規準と論理の構文で調べる 擬似文 ① 確かめる規準の無い語を含む(この石は バービッヒだ) 擬似文 ② 並べ方が論理の構文に反する (カエサルは素数である) 経験の文 観察で正しいか誤りかが決まる(この 石は鉄でできている) 論理で決まる文 恒真の文(2+2=4)と、その否定の 矛盾文 図 2 語の並びが文として何かを言っているかの見分け方です。上の二つが擬似文、下の二つが意味のある文です。二種類の擬似文とカエサルの例はカルナップ本人の分け方で、四つを縦に並べる描き方と、鉄の石・2+2=4 の例は本教材のものです [2] 。 二つ目の種類を、カルナップは「カエサル」の例で示します [2] 。「カエサルはそして」は文法の誤りで、誰も文とは思いません。ところが「カエサルは素数である」は、「カエサルは将軍である」と同じ「〇〇は△△である」の形で、文法の上では正しい文です。しかし素数かどうかは数についてだけ問えることで、人について言えば正しくも誤りでもありません。日常の言葉の文法は、このような並びを通してしまう、とカルナップは言います [2] (表 1) 。 この表で分かること: 文法の形が同じでも、語の規準と論理の構文で見ると、経験の文・論理で決まる文・二種類の擬似文に分かれます。形而上学の文は擬似文の側に入る、とカルナップは見ました。 文 語に規準は 論理の構文は カルナップの判定 この石は鉄でできている ある 合う 経験の文(観察で真偽) 2+2=4 ある 合う 分析的な文(論理だけで真) 2+2=5 ある 合う 矛盾文(論理だけで偽) この石はバービッヒだ 無い (問えない) 擬似文 ① カエサルは素数である ある 合わない 擬似文 ② 無そのものが無化する 「無」を名前に誤用 合わない 擬似文 ②(形而上学) 表 1 文の種類とカルナップの判定。バービッヒ・カエサル・無の例はカルナップ本人のもので、鉄の石と数の式の行は本教材の作例です [2] 。 カルナップはこの道具を、ハイデガーの講演『形而上学とは何か』(1929 年)に向けます [2] 。ハイデガーは、学が調べるのは存在するものだけだと言い、その外の「無」を問い進めて「無そのものが無化する」と書きました。カルナップによれば、日常で「外には何も無い」と言うとき、「何も無い」は何かの名前ではありません。「外にあるものは無い」という否定の言い方です。それを名前のように主語の位置に置くから、「無とは何か」と問えてしまい、「無化する」という動詞まで作られる、とカルナップは論じます [2] 。 こうしてカルナップは、形而上学の文は、経験の文でも、論理だけで真偽の決まる文でもない、と結びます [2] 。論理だけで決まる文(恒真の文と、その否定の矛盾文)は事実を述べませんが、意味のある文です(第 6 節) [2] 。 ここで間違えやすい カルナップがハイデガーの文を、言い回しが難しいから退けた、と取らないでください。批判の要は、文法の形は整っているのに、論理の構文の規則に反している、という点です。ハイデガー自身が「無」で何を考えていたかは、この課程のハイデガーの課で読みます。 生の感じ方の表現――形而上学者は音楽の才の無い音楽家 擬似文ばかりなら、なぜ多くの賢い人々が長い間、形而上学を書いてきたのでしょうか。カルナップの答えは、形而上学の文は事実を述べてはいないが、人が世界と人生にどう向き合っているかという生の感じ方を表している、というものです [2] 。 生の感じ方を表すのにふさわしいのは、詩や音楽などの芸術だ、とカルナップは言います [2] 。抒情詩人は気分を詩で表しますが、その詩が理論として正しいとは主張しません。形而上学者は同じものを、論証と体系の形で表そうとします。そのため、知識を述べているという思い違いが、本人にも読む人にも生まれます [2] 。カルナップは、一元論の体系は調和した生の感じ方を表しているのかもしれない、と例を挙げ、形而上学者を「音楽の才の無い音楽家」にたとえます [2] (図 3) 。 作曲家:音で表す 生の感じ方 気分は音で伝わる 真偽は誰も問わない 形而上学者:理論で表す 生の感じ方 万物は一なる絶対者の… 「正しい」「誤りだ」 確かめようのない争い 図 3 同じ生の感じ方を、二つの手段で表す二人です。一つ目の作曲家は音で表し、聴き手にも同じ気分が浮かびます。二つ目の形而上学者は理論の文にし、読み手は正しいか誤りかで争い始めます。音楽の才の無い音楽家のたとえはカルナップ本人のもので、二人の場面は本教材の絵です。 SEP は、カルナップにとって形而上学は、知識を装った失敗した芸術で、にせの芸術であり、にせの知識でもあった、とまとめます [1] 。論理や数学の証明や、科学の理論の確証と違って、形而上学の提案は広い同意を得られず、何で判断するかの規準まで争われるからです [1] 。カルナップが形而上学を退けたのは、権威や伝統を受け身で受け入れず、客観的な知識に基づいて選ぶという、啓蒙の価値のためでした [1] 。 ただし、科学の文と形而上学の文の境を正確に引こうとする彼の試みは、何十年かけても、どれも成功しませんでした [1] 。そこでカルナップは次第にゆるやかになり、過去の形而上学のいくつかを、知識の最も一般的な枠組みを作る有益な一歩と認めるようになります [1] 。 ここで間違えやすい 二つの誤解に気をつけましょう。一つは、カルナップが詩や音楽や生き方の価値まで否定した、と取ることです。退けたのは、生の感じ方が知識の装いをすることだけです。SEP は、文学・芸術・音楽が人の価値を形作ることを、彼はあまりに当然とみて、ことさら言わなかったほどだと言います [1] 。もう一つは、経験で決定的に確かめられる文だけが意味を持つ、という素朴な検証原理を、カルナップが唱えたと取ることです。SEP によれば、その形の原理は、彼も学団の主な人々も唱えていません [1] 。科学の法則は厳密には検証できず、確証の度合いを持つだけだと、彼は早くから認めていました(Carnap 1926: 7–9) [1] 。退けたのは、経験とどうつないでも確かめようのない文で、論理・数学の文や確証できる科学の理論は外していません。題名の「検証できない」は、この「どうつないでも確かめようのない」という意味です。 原典を読む 第 1 章の一つ目の節で見た作り語「バービッヒ」の段を読みます。カルナップは日本で著作の保護期間内にあるため、本教材の言葉で要約します。原語の文は引用しません。 カルナップ「言語