ベンサム――最大多数の最大幸福を目指す(功利性の原理・快楽計算) — Epoché
近代 功利主義と社会思想 約 17 分 本文 約 7,100 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 基礎・基準・測定の 3 つ 基礎 自然は人類を、快と苦という二人の主人のもとに置いた。快と苦は、私たちが何をすべきかを示し、何をするかを決める。功利性の原理はこの支配を認め、それを土台に置く(『序説』第 1 章 1 段)。 基準 行為も政府の施策も、関わる人々の幸福を増やす傾向が減らす傾向より大きいとき、功利性の原理にかなう。共同体の利益とは、それを成す個人の利益の和である(第 1 章 2〜7 段)。 測定 快と苦の値は、強さ・長さ・確かさ・近さ・多産性・純粋性・範囲の七つで見積もる。この手順を毎回厳密に踏むことは期待できないが、つねに念頭に置ける理想の型である(第 4 章 2〜6 段)。 はじめに ジェレミー・ベンサム(1748〜1832)は、イギリスの法学者・哲学者です。ロンドンの弁護士の家に生まれ、オックスフォードのクイーンズ・カレッジで学びました。1769 年に弁護士の資格を得ましたが、法廷で働くよりも、法そのものを分析し、作り直すことに生涯を向けました [1] 。 1776 年には匿名の小著『統治論断片』で、「最大多数の最大幸福が、正と不正の尺度である」と書きました。よく似た言い回しは、イタリアの法改革者ベッカリーアの書物に先にありました [1] 。 この課では、主著『道徳および立法の諸原理序説』(1789 年刊、以下『序説』)を読みます [1] [2] 。第 1 章は、善悪の基準を快と苦に置く「功利性の原理」を立て、第 4 章は快と苦の値の測り方を示します。 この課の問い 法や政治のよしあしを、人が感じる快と苦という、手で触れられる物差しで測ることはできるでしょうか。善い・悪い、すべき・すべきでない、を快と苦の量だけで決められるとすれば、それはどう数えればよいのでしょうか。 この課のことば 功利性の原理 どんな行為でも、関わる人々の幸福を増やすか減らすかの傾向に従って、よしとし、また退ける原理です。個人の行いだけでなく、政府の施策にも当てはめます。 最大幸福の原理 ベンサムが 1822 年の注で、功利性の原理の言い換えとして加えた名です。「功利」という語だけでは、快と苦や、関わる人の数が見えにくいからです。 心理的快楽説と倫理的快楽説 人は快を求め苦を避けて動く、という事実の説と、快だけが善で、行為は快を生む限り正しい、という規範の説です。ベンサムの『序説』の冒頭には、この二つがともに言われています。 擬制の存在 それに当たる実在が無いのに語られるもの。「共同体」「義務」などは、個々の人が感じる快と苦の話に言い換えて初めて意味を持つ、とベンサムは考えました。 快楽計算 快と苦の値を七つの次元で見積もり、行為の傾向を足し引きで求める手順です。「幸福計算」とも訳されます。この呼び名はベンサム自身のものではありません。 功利性の原理と快楽計算――善悪を快と苦で測ることはできるのか ヘーゲルが自由を制度と歴史のうちに見たのに対し、ベンサムは、法と道徳を、一人ひとりが感じる快と苦から組み立て直そうとしました。『序説』の第 1 章は功利性の原理を立て、第 4 章は快と苦の値の測り方を示します [1] 。この章では、快と苦という二人の主人、功利性の原理と共同体の幸福、快楽計算の七つの次元、を順に読みます。 二人の主人――快と苦が「すべき」も「する」も決める 『序説』の本文は、次の一文で始まります。「自然は人類を、苦と快という二人の主権者の支配のもとに置いた」。私たちが何をすべきかを示すのも、何をするかを決めるのも、この二人だけだ、とベンサムは続けます(第 1 章 1 段) [2] 。この一節は、あとの原典を読むで原文から読みます。 この短い一節には、二つの別の主張が入っています。SEP はこれを二つの快楽説に分けます [1] 。一つは、人の行為の動機はすべて、苦の予感か快の欲求に根ざす、という心理的快楽説です。「人は実際にどう動くか」という事実の主張です。もう一つは、快だけが善であり、行為は快を生み苦を防ぐ限りで正しい、という 倫理的快楽説 です。「どう動くべきか」という規範の主張です [1] 。ベンサムは、正と不正の基準も、原因と結果の鎖も、ともに快と苦の玉座につながれている、と言って、二つを一つの像にまとめます(1 段) [2] 。 では、この原理はどう証明されるのでしょうか。ベンサムの答えは、直接には証明できないし、その必要もない、というものです。他のすべてを証明するのに使うものは、それ自体を証明できません。証明の鎖は、どこかで始まらなければならないからです(11 段) [2] 。そのうえでベンサムは、反対する人の議論を逆手に取ります。功利性の原理と戦おうとする人は、知らないうちに、この原理そのものから理由を引いている、と言うのです(13 段) [2] 。 地球を動かすには、もう一つの地球が要る 地球 功利性の原理を 退ける議論 足場が無い じつは功利性の原理に立っている もう一つの地球が要る 地球のたとえは本人の例(第 1 章 13 段) てこ・支点・宙に浮く人は本教材の描き方 図 1 地球を動かそうとてこを構える人と、足場にするもう一つの地球の絵です。地球のたとえは本人のもの(第 1 章 13 段)、てこ・支点・宙に浮く人は本教材の描き方です。功利性の原理を退ける足場は、この原理の外には見つからない、という言い分を示します。 13 段の終わりには、短いたとえが置かれています。人は地球を動かせるか、とベンサムは問い、動かせる、ただしまず足を置くためのもう一つの地球を見つけなければならない、と答えます [2] (図 1) 。てこの理屈なら地球も動かせますが、支えにする場所が地球の外に要ります。功利性の原理を退けるには、この原理の外に足場が要るのに、そんな足場は見つからない、という意味です。 快と苦の支配は、人間だけに及ぶものではありません。ベンサムは、動物への残酷さを刑法で扱う構想の中で、問うべきは「理性を使えるか」「話せるか」ではなく、「苦しむことができるか」だ、と書きました。SEP は、これがのちの動物の倫理の議論の始まりにあると述べます [1] 。 ここで間違えやすい ベンサムが「快楽を追い求めて生きよ」と、ぜいたくや享楽を勧めたと取らないようにしましょう。ここでの快と苦は、立法者が人々の幸福を考えるときの単位で、目指すのは、関わる人々全体で快が苦を上回ることです(第 1 章 2〜6 段) [2] 。また、「快だけが善」と「人はいつも快を求めて動く」は別の主張で、1 段にはその両方があります。片方だけで読むと、第 1 章の運びが見えなくなります [1] 。 功利性の原理と共同体――共同体の幸福は、一人ひとりの幸福の和である 第 1 章 2 段は、功利性の原理を定めます。どんな行為でも、利害が問われている人々の幸福を増やすか減らすかの傾向に従って、よしとし、また退ける原理です [2] 。ここで言う行為には、個人の行いだけでなく、政府の施策も含まれます [2] 。ベンサムは、この原理を、立法者が法を作り直すための物差しとして立てています。 では、その「人々」が共同体全体であるとき、共同体の幸福とは何でしょうか。「共同体の利益」という言葉はよく使われるのに、その意味はしばしば見失われる、とベンサムは言います。意味があるとすれば、こうです。共同体は、成員とみなされる個々の人から成る 擬制の体 であり、共同体の利益とは、それを成す成員の利益の和だ、というのです(4 段) [2] 。SEP は、ベンサムが「共同体」「義務」のような語を、個人の快と苦の話に言い換えて初めて意味を持つ擬制の存在として扱ったことを説明します [1] 。 だから、ある行為が共同体の幸福を増やす傾向が、減らす傾向より大きいとき、その行為は功利性の原理にかなう、と言えます(6 段)。政府の施策も同じ仕方で判定されます(7 段) [2] 。こう解したときにだけ、「すべき」「正しい」「不正」という語は意味を持つ、とベンサムは言います(10 段) [2] 。 気持ちだけを基準にすると 私はこれが好きだ 私は好きではない 止 議論はここで終わる (第 1 章 14 段) 結果を持ち出すと + - + + - 誰の快と苦がどれだけ増え減るか (第 1 章 2〜6 段) 図 2 好き嫌いの原理と功利性の原理の二つの場面です。一つ目は、二人が「好きだ」「好きではない」と言い合い、議論が行き止まる場面(本人の例、第 1 章 14 段)。二つ目は、同じ二人が、行為で影響を受ける人々の快(+)と苦(-)を指さして話を続ける場面です。机・止の標識・人々の印は本教材の描き方です。 功利性の原理を退ける人は、何を基準にするのでしょうか。14 段でベンサムは、行為の結果を見ずに、自分の賛成や反対の気持ちだけを基準にする原理を取り上げます [2] 。それを自分だけの基準にすれば、他のすべての人への専制になります。誰の気持ちも基準になると認めれば、無政府の状態になり、人の数だけ正と不正の基準があることになります。二人が「私はこれが好きだ」「私は好きではない」と言い合ったら、もう言うことは何も残らないのではないか、とベンサムは問います [2] (図 2) 。結果を持ち出せば、二人は、誰の快と苦がどれだけ増え減るかで話を続けられます。 ベンサムはのちに 1822 年の注で、「最大幸福の原理」という名を加えました [2] 。SEP によれば、晩年には「最大多数の」という言い方そのものを問題にします。多数の感情だけを数え、少数の感情を勘定から外せば、共同体の幸福の総和は増えるどころか減る、と論じたのです [1] 。 ここで間違えやすい 「最大多数の最大幸福」を、多数が得をするなら少数を犠牲にしてよい、という多数決の原理だと取らないようにしましょう。ベンサム自身、少数の感情を外すと全体の幸福が減ると論じました [1] 。『立法の理論』には、法や施策を決めるとき各人と全員の利益が等しく数えられねばならない、という考えも見えます [1] 。これはデュモンが仏語でまとめたベンサムの草稿を、ヒルドレスが英語に訳し戻した本です。ただし、総和を求める計算は一人ひとりの別々さを尊重しない、というロールズやノージックの批判があり、ベンサムのこの面がそれにどこまで答えるかは議論が続いています [1] 。 快楽計算――快と苦の値を、七つの次元で見積もる 第 4 章の初めでベンサムは、快を得ることと苦を避けることが立法者の目的であり、快と苦は立法者の道具だ、と言います。だから立法者はその値を知らねばならない、というのです(第 4 章 1 段) [2] 。 一人の人にとって、ある快や苦の値は、強さ、長さ、確かさ(本当に生じるか)、近さ(どれほど早く生じるか)の四つで決まります(2 段) [2] 。行為の傾向を見積もるときは、同じ種類の感覚が後に続く見込みである多産性と、反対の種類が後に続かない見込みである純粋性を加えます。この二つは、厳密には快や苦ではなく、それを生んだ行為の性質です(3 段) [2] 。多くの人に関わるときは、影響を受ける人の数である 範囲 が加わり、七つになります(4 段) [1] [2] (表 1) 。 この表で分かること: 七つの次元は、快や苦そのものの性質(四つ)、それを生む行為の性質(二つ)、関わる人の数(一つ)の三つの層に分かれます。土地の例では、人々は長さ・確かさ・近さで見積もります。 次元 何を見るか 何の性質か 土地の例(8 段) 強さ 快や苦がどれほど強いか 快・苦そのもの 使い方しだいで前もって考えない 長さ どれほど続くか 快・苦そのもの 何年持てるか 確かさ 本当に生じるか 快・苦そのもの 本当に手に入るか 近さ どれほど早く生じるか 快・苦そのもの いつ手に入るか 多産性 同じ種類の感覚が後に続くか 行為の性質(3 段) 考えない 純粋性 反対の種類が後に続かないか 行為の性質(3 段) 考えない 範囲 影響を受ける人の数 多くの人に関わるとき 例に無い 表 1 快と苦の値の七つの次元(『序説』第 4 章 2〜4 段・8 段、本教材の整理) [2] 。 手順はこうです (図 3) 。最も直接に影響を受ける一人から始め、はじめに生じる快と苦、その後に続く快と苦の値を数え、快の側と苦の側を差し引きます。これを関わる人の数だけ繰り返し、よい傾向の人の分と悪い傾向の人の分を差し引けば、行為の全体の傾向が出ます(5 段) [2] 。 ① 行為・施策 よしあしを判定したい行いや政府の 施策を一つ決める ② 一人目 最も直接に影響を受ける一人から始める (5 段) ③ 四つの事情 強さ・長さ・確かさ・近さで快と苦の 値を見積もる ④ 後に続くもの 多産性と純粋性で、後に続く快と苦も 数える ⑤ 差し引き 快の側と苦の側を足して差し引き、その 人への傾向を出す ⑥ 範囲 関わる人の数だけ繰り返し、よい傾向と 悪い傾向を差し引く ⑦ 全体の傾向 共同体にとっての、その行為の傾向が 出る 理想の型 毎回厳密に踏むことは期待できず、 念頭に置く型(6 段) 図 3 快と苦の値から行為の全体の傾向を出す手順です(『序説』第 4 章 2〜6 段を本教材が段に分けたもの)。点線の段は、この手順が毎回踏む規則ではなく、念頭に置く型であることを示します。 ベンサムは、この手順を、道徳の判断や立法・裁判の前に毎回厳密に踏むことは期待できない、と認めます。それでも、つねに念頭に置くことはでき、実際の手順がこれに近いほど正確になる、と言います(6 段) [2] 。SEP はこれを理想の計算の型と説明します [1] 。 しかも、人々はすでにこう考えている、とベンサムは言います。土地の値打ちは、何年持てるか、本当に手に入るか、いつ手に入るか、で上がり下がりすると誰もが知っています。強さが考えられないのは、それが持ち主の使い方しだいだからです(8 段) [2] 。 ここで間違えやすい ベンサムが、人は何かをする前に毎回、快と苦を数字にして計算せよ、と求めたと取らないようにしましょう。ベンサムは、毎回厳密に行うことは期待できないと明言し、念頭に置く理想の型と