バトラー――ジェンダーは繰り返される行為でつくられる(パフォーマティヴィティ) — Epoché
現代 構造主義とポスト構造主義 約 19 分 本文 約 8,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 行為・規範・身体の 3 つ 行為 ジェンダーは、人がもともと持つ芯(本質)から出てくるものではない。服装・歩き方・座り方など、様式化された行為が時間の中でくり返されることでつくられ、そのくり返しが、芯があるかのような見かけを生む、とバトラーは言う(『ジェンダー・トラブル』1990)。 規範 「女」を何か共通の特徴で定義すると、当てはまらない人を締め出す規範になる。だからフェミニズムは「女」を定義して土台にするのでなく、権力が「女らしさ」の理解をどう形づくるかを調べるべきだ、とバトラーは論じる。 身体 体の性(セックス)も、社会の意味づけの外にある素材ではない。「女の子です」という言葉のような行為のくり返しが、性が二つに分かれて自然にあるかのように見せる。ただしバトラーは体の存在そのものを否定していない(『問題=物質となる身体』1993)。 はじめに この課で読むジュディス・バトラーは、アメリカの哲学者です。1990 年の『ジェンダー・トラブル』と 1993 年の『問題=物質となる身体』で、ジェンダーの パフォーマティヴィティ (行為遂行性)という考えを打ち出しました [6] 。この考えは、フェミニズムの理論に大きな影響を与えています [2] 。現在はカリフォルニア大学バークレー校の大学院の特別教授で [7] 、2024 年には Who's Afraid of Gender?(邦訳の題は未確認)も出しました [8] 。英語では本人の選んだ代名詞 they で呼ばれることが多く、本教材は名前で書きます。 出発点は、ボーヴォワールの課で読んだ「人は女に生まれるのではなく、女になる」という言葉です [2] 。バトラーはさらに進み、女であることは一度なれば終わる到着点ではなく、休みなく続けられる行為のくり返しそのものだ、と考えました。道具になったのは、言説(ある時代に通用する語り方)は記述しているように見えるものを生み出す、というこの編のフーコーの見方 [2] と、「言うことがそのまま行うことになる」発言というオースティンの考えです [1] 。 この課では、ジェンダーが行為のくり返しでつくられること、「女」の定義が外れる人を締め出す規範になること、体の性もまた形づくられること、の三つを読みます。最後に『ジェンダー・トラブル』第 3 章の結びの節を要約で読み、ボーヴォワール・オースティンと比べます。 この課の問い 子どもが生まれると、医師や助産師が「女の子です」と言います。そこから名前、服の色、座り方、遊び方まで、「女の子なんだから」という言葉が何千回もくり返されます。私たちはふつう、内側に「女らしさ」「男らしさ」の芯があり、それがふるまいに表れると考えています。もし順序が逆で、くり返される行為のほうが芯の見かけをつくっているのだとしたら、「本当の女」「本当の男」とは何なのでしょうか。そして、くり返し方を変えることはできるのでしょうか。 この課のことば ジェンダー 社会や文化の中で「女らしい」「男らしい」とされるふるまい・役割・見かけ。体の特徴による性(セックス)と分けて使われてきた語です。たとえば「女の子は人形で遊ぶもの」という決まりごとは、体ではなくジェンダーの側の話です。 パフォーマティヴィティ(行為遂行性) 言うこと・することのくり返しが、それが表しているように見えるものを、じつはつくりだしてしまう働き。バトラーは、ジェンダーは前からある芯の表現でなく、様式化された行為のくり返しでつくられると考えました。 異性愛の枠組み 体の性が女なら女らしくふるまい、男性を好きになる、というように、体・ふるまい・欲望の三つが一筋に揃うのが「自然」で「分かる」性のあり方だとする見方。並びから外れる人は「間違っている」と扱われます。 アイデンティティの政治 ある集団に共通する経験や特徴をよりどころに人々をまとめ、権利を求める政治のやり方。フェミニズムの場合は「女」という集団がよりどころになります。 攪乱(かくらん) 決まったくり返しを、少しずらしてくり返すことで、それが「自然」ではないことを見えるようにすること。バトラーは、異性の装いで演じるドラァグなどに、その働きを見ました。 物質化 体や物質を、初めからそこにある素材としてではなく、時間の中で安定して、境界や固さの効果を生んでいく過程として捉える、バトラーの考え方です。 パフォーマティヴィティ――性は「ある」のか「する」のか ジェンダーについて、私たちはふつう「ある」という言葉で考えます。あの人は女で「ある」、この人は男で「ある」、と。バトラーは、ジェンダーを「する」の側から考え直しました。この章では、ふるまい、「女」という集まり、体の性の順に、その考え直しが何を変えるかを見ていきます。 ジェンダーは「ある」ものでなく「する」もの――芯の見かけをつくるくり返し ふつうの見方では、女らしくふるまうことや男性を好きになることは、その人が女であることの「表れ」とされます。内側に芯(本質)があり、ふるまいはそこから外へ出てくる、という順序です [1] 。バトラーはこの順序を逆にしました。ジェンダーは、さまざまな行為がそこから出てくる安定したアイデンティティではありません。様式化された行為のくり返しによって、時間の中でつくりあげられるものだ、とバトラーは言います(『ジェンダー・トラブル』1999 年版 179 頁) [3] [1] (図 1) 。 ふつうの見方 芯から、ふるまいが出る 芯 スカート 異性への好意 人形 座り方 矢印は内から外へ向く 芯が原因、ふるまいはその表れ バトラーの見方 くり返しが、芯の見かけをつくる スカート 異性への好意 人形 座り方 女の子なんだから 1日目→100日目→1000日目 芯の場所は、じつは空っぽ 図 1 ふるまいと芯の関係を二つの見方で比べた絵です(本教材の絵)。上では芯から矢印が外へ出て、芯がふるまいの原因です。下ではくり返しから矢印が内へ集まり、層を重ねた玉の中心は空っぽです。くり返しが芯の見かけを生むという論点はバトラーのもので [1] 、層の玉のたとえは本教材の作例です。 例は、決まった服を着る、決まったしかたで歩き座る、といった身近な行為です。ジェンダーは人が「である」ものでなく「する」ものだ、というのです。女らしくする行為、男らしくする行為をくり返すうちに、ジェンダーは固まり、人々はそれを自分が生まれつき「である」ものだと思いこむようになります [1] 。SEP の整理では、男性と関係をもつ女性は、それによって女としてのジェンダーを「表している」のではありません。その行為が、ほかの行為とともに、彼女を女にしているのです [1] (表 1) 。 この表で分かること: 同じふるまいを、ふつうの見方は芯の「表れ」と読み、バトラーは芯をつくる「くり返し」と読みます。因果の向きが逆になります。 ふるまい ふつうの見方 バトラーの見方 スカートをはく 女らしさが表れている くり返しが女らしさをつくる 脚をそろえて座る 生まれつきのしとやかさ 教えられ、くり返された型 男性を好きになる 女であることの自然な表れ 異性愛の規範に沿った行為 「女の子です」と言う 事実をそのまま報告する その子を女の子にする行為 表 1 ふるまいの二通りの読み方です。例はバトラーの挙げるものと SEP の説明によります [1] [2] 。表の形は本教材の整理です。 このくり返しは、本人が一人で好きに選ぶものではありません。1988 年の論文でバトラーは、ジェンダーは決まった筋書きの圧力と罰の下で、毎日休みなく身につけられるものだと書きました。それでも、くり返し方をずらすことの中に、ジェンダーが変わる可能性がある、とバトラーは言います [5] [6] 。 身近な場面に置いてみます(本教材の作例)。入学式の朝に赤いランドセルを背負い、「女の子なんだから脚をそろえて」と言われる子がいます。何千回とくり返されたのち、その子は「私はもともと、おとなしい女の子だった」と思います。バトラーの見方では、この「もともと」の芯こそ、くり返しが後からつくった見かけです。 ここで間違えやすい 「ジェンダーは演技にすぎず、服を選ぶように自由に選べる」と取るのは誤りです。くり返しは決まった筋書きと罰の下で行われます。また「つくられたものだから偽物だ」と取るのも誤りです。くり返しでつくられたジェンダーは現実の力をもちます。問われているのは、それを「生まれつきの芯の表れ」と見る見方です。 「女」を定義しない――規範としてのアイデンティティとずらし フェミニズムは長く、「女」という集団を政治のよりどころにしてきました。そのために、「女」を何か共通の特徴で定義しようとしてきたのです。バトラーは、この試みそのものを問い直しました [1] 。 まず、ふつうの見方が前提にしている並びを見ましょう。女は女の体をもち、女らしくふるまい、男性を欲望し、男はその逆だ、という並びです。SEP の整理では、バトラーは、この三つが一筋に揃っていることが「分かるジェンダー」の条件とされている、と指摘します(1999 年版 23〜24 頁) [1] (図 2) 。この並びに合わない人、たとえばレズビアンの女性は、ジェンダーを「間違えている」と見なされ、悪口や露骨な差別によって正されようとします [1] 。 体の性 女の体/男の体 ジェンダー 体に合った女らしい/男らしいふるまい 欲望 異性を好きになる。三つが揃うと 「分かる」とされる 外れる人への罰 並びに合わない人は、悪口や差別で 「正される」 ずらしたくり返し 同性どうしの関係やトランスの人々の 演じ方が、並びの規範を見せる 図 2 異性愛の枠組みの並びです。上の三つの段が揃うと「分かる」ジェンダーとされ、外れる人は正されようとします。点線の段は、ずらしたくり返しが、この並びが自然でないことを見えるようにする働きです。三つの並びと罰はバトラーの論点で [1] 、ずらしの効果は予測できないという批判もあります [2] 。箱の並べ方は本教材の整理です。 バトラーによれば、この並びを支える「芯」は錯覚です。異性愛だけを自然とする見方(異性愛主義)が、ジェンダーを一様にしようとする理想とふるまいによって、それをつくりだしたのです(同 42 頁) [1] 。女か男かのどちらかにはっきり分かれ、互いに引かれ合うのが自然だ、という思いこみは、異性愛を中心とする社会の秩序に仕えている、というのです。 ここから、「女」を定義することの危うさが見えてきます。たとえば「本当の女は女らしい人柄をもつ」と定義すれば、そうでない人は「本当は」女の仲間に入らないことになります。そこでバトラーは、「女」を始まりも終わりも決められない、途中にある語として開いておき、意味を書き換える余地を残すべきだと論じました(同 43 頁)。「女」はフェミニズムの政治の土台であってはならず(同 9 頁)、むしろ権力が社会の中でもフェミニズムの運動の中でも、「女らしさ」の理解をどう形づくるかを調べるべきだ、というのです [1] 。 では、並びはどうすれば揺らぐのでしょうか。SEP によれば、バトラーにとって、同性どうしの関係はジェンダーと異性愛の結びつきを揺るがし、トランスの人々の演じ方はジェンダーと体の形の結びつきを揺るがします。体の形とジェンダーの演じ方が揃うことも、一つの規範にすぎないからです [2] 。この見方では、トランスの人のジェンダーは、ほかの誰のジェンダーとも同じく本物だということになります [1] 。ただしマクネイは、ドラァグが型を崩すことも強めることもあるように、演じ方の効果は予測できない、と指摘しました [2] 。 ここで間違えやすい バトラーが「女は存在しない」「フェミニズムは要らない」と言った、と取るのは誤りです。バトラーは「女」という語や女性の権利を求める政治を捨てよと言ったのではありません。「女」を一つの定義で固めて土台にすることを問い直し、その語を開いたままにしておくべきだと言ったのです。また、ドラァグをすればそれだけで規範が崩れる、というわけでもありません。ずらしの効果は一様でない、という批判があります。 体の性もまたつくられる――「女の子です」という言葉の働き ここまでは、ふるまいの側の話でした。ジェンダーはつくられるとしても、体の性(セックス)は生物学が決める事実ではないのか、と思う人も多いでしょう。バトラーは、生物学の性と社会のジェンダーを分けること自体が成り立たない、と論じました。性の変わらない性格が疑われるなら、「セックス」もジェンダーと同じく文化がつくったものかもしれません。もともとすでにジェンダーだったのかもしれない、というのです(『ジェンダー・トラブル』1999 年版 10〜11 頁) [1] [3] 。 鍵になるのが、生まれたときの一言です。SEP の体の項目は、バトラーの考えをこう説明します。子が生まれて助産師が「女の子です」と言うとき、助産師は決まった事実を報告しているのではなく、その事実をつくりあげる慣わしに加わっています。この種の行為がくり返されることで、男と女という二つの本性が分かれてあるかのように見えてくるのです [2] (図 3) 。 「女の子です」は報告か、行為か 女の子です! 名札 出生届 服の色 入学式 同じ呼びかけが、くり返し引用される 助産師 鏡の中:私はもともと女の子 図 3 「女の子です」の一言と、その後のくり返しの絵です(本教材の絵)。助産師の大きな吹き出しから、名札・出生届・服の色・入学式へと同じ呼びかけが小さな吹き出しで引き継がれ、最後に鏡の前の子が「もともとそうだった」と思います。呼びかけがその状態をつくる慣わしの一部だという論点はバトラーのもので [2] [1] 、四つの場面と鏡は本教材の作例です。体の存在そのものは否定されていません [1] 。 バトラーは、性の割り当てはつねに規範をふくむと指摘しました(『問題=物質となる身体』序文)。SEP の性とジェンダーの項目はこれを受けて、医師の発言を、オースティンの言う発語内行為(言うことで何かを行う発言)として説明しています。この発言が