デカルト――疑っている私は確かに存在する(方法的懐疑・コギト・心身二元論) — Epoché
近代 大陸合理論 約 27 分 本文 約 11,100 字 図 7・表 2 原典 2 節 この課の要点 方法・発見・難問の 3 つ 方法 少しでも疑える意見は偽とみなすと決め、感覚の誤り・推論の誤り・夢、さらに欺く者の想定で、疑いを数学的な真理にまで広げました(方法的懐疑)。 発見 疑っている私は存在するという一点を第一の原理とし(コギト)、考える精神は広がりをもつ物体とは別のものだと論じました(心身二元論)。 難問 広がりのない精神がどうして身体を動かせるのかとエリザベトに問われ、心と身体の結びつきは感覚によって知られる別の基本概念だと答えました。 はじめに ルネ・デカルト(1596–1650)は、フランスの哲学者です。トゥレーヌ地方に生まれ、イエズス会のラ・フレーシュ学院で学びました [7] 。1620 年代の終わりからはオランダに移り住み、主な著作をそこで書きました。その地を選んだ理由は、『方法序説』第 3 部の末尾に書かれています [1] 。1649 年にスウェーデン女王クリスティナに招かれ、翌 1650 年にストックホルムで亡くなりました [7] 。 この課では、まず二つの著作を読みます。『方法序説』(1637 年)は、屈折光学・気象学・幾何学の三つの試論の序文として出版されました [1] 。形而上学を本格的に論じたのは、その後の『省察』(1641 年)です [2] 。さらに、ボヘミア王女エリザベトとの手紙のやりとりから、心と身体の結びつきをめぐる議論を読みます [3] 。本文の「AT VI 32」などの記号は、アダンとタヌリが編んだデカルト全集(AT 版)の巻と頁を示します。 前の課で読んだガリレオは、1633 年に断罪されました。デカルトはそれを知り、自分の宇宙論の書『世界論』の刊行を控えました [7] 。新しい自然学が疑いの目を向けられる時代に、デカルトは、学問を揺るがない土台の上に置こうとしました。この課は、その土台探しから始まります。 この課の問い 少しでも疑えるものをすべて退けたとき、それでも疑えずに残るものはあるのでしょうか。残ったのが「考えている私」だけだとすれば、その私とこの身体とは、どう結びついているのでしょうか。 この課のことば 方法的懐疑 確かな土台を見つけるために、少しでも疑えるものをいったん偽とみなして退けるやり方。 コギト ラテン語の「私は考える」。「私は考える、ゆえに私は存在する」という第一の原理を指します。 実体 ほかのものに頼らずに、それだけで存在するもの。デカルトは精神と物体を別々の実体としました。 延長 縦・横・高さに広がっていること。デカルトはこれを物体の本質としました。 心身二元論 心(精神)と身体(物体)を、本質の異なる二つのものとみる立場。後の時代の呼び名です。 原初的概念 ほかの概念から説明できず、それ自身で理解するしかない基本の概念。エリザベトに宛てた手紙の語です。 方法的懐疑とコギト――すべてを疑っても残るものはあるか 方法的懐疑――少しでも疑えるものは偽とみなす デカルトが『方法序説』第 4 部でまず語るのは、何を確かなものとして受け入れるかの基準です。生活の場では、多少不確かな意見にも、確かなものであるかのように従わなければならないことがあります。そのための暫定的な道徳を、デカルトは第 3 部で定めていました。しかし真理だけを探すときは逆にすべきだ、と彼は言います。 少しでも疑いうるものは、すべて偽とみなして退ける のです。そのうえで、それでも疑えないものが残るかを確かめます(第 4 部、AT VI 31) [1] 。これが方法的懐疑です。 なぜそこまで厳しくするのでしょうか。原典の筋を三段でたどります。一段目に、生活では判断を先に延ばせないので、不確かな意見に従うのはやむをえません。二段目に、学問の土台を探すときは事情が違います。疑いの余地を一つでも残せば、その上に建てたものがすべて揺らぎます。三段目に、意見を一つずつ調べていては果てがありません。そこで『省察』では、意見を支えてきた原理、つまり感覚や推論そのものを調べることにします(第一省察、AT VII 18) [2] 。 ここで、疑いの基準の低さに目を向けてください。デカルトは、意見がすべて偽だと示す必要はないと言います。明らかに偽なものと同じく、疑えるものにも同意を控えれば足りるのです(第一省察、AT VII 18) [2] 。偽だと証明するより、疑えると示すほうがずっとたやすいことです。だからこそ、この疑いは遠くまで届きます。 デカルト自身、この方法をたとえで説明しています。籠のリンゴの中に、腐ったものが混じっていないか心配だとします。そのときは、いったん籠を空にして全部を出し、一つずつ確かめて、よいものだけを籠に戻すでしょう(第七答弁、AT VII 481) [2] (図 1) 。意見も同じで、一度すべてを出してから、確かなものだけを戻すのです。 もとの籠 並べて調べる 戻した籠 破線=腐りの疑い ① いったん全部出す ② 確かめたものだけ戻す 第七答弁 AT VII 481 のたとえ 図 1 リンゴの籠のたとえ。疑わしいものを一つずつ取り除くのではなく、まず全部を出してから、確かめたものだけを戻します。方法的懐疑の全体の形です。 ここで間違えやすい 方法的懐疑は、疑うために疑う懐疑論とは違います。目的は、確かな土台を見つけることです。また、デカルトは、すべてが本当に偽だと主張したのでも、日々の暮らしの判断を止めたのでもありません。生活の場では、第 3 部の暫定的な道徳に従っています。 疑いの段――感覚・推論・夢、そして欺く者 では、疑いはどのような段を踏んで広がるのでしょうか。『方法序説』と『省察』では、段の順が違います。ここでは混ぜずに、一冊ずつ見ていきます (図 2) 。 まず『方法序説』です(第 4 部、AT VI 31–32) [1] 。一段目は感覚です。感覚はときに私たちを欺くので、感覚が示すとおりの物は何もないと仮定します。二段目は推論です。幾何学でさえ、推論を誤る人がいます。そこで、それまで証明とみなしてきた推論も、すべて偽として退けます。三段目は夢です。目覚めているときの思いは、どれも夢の中にも現れえます。そこで、心に入ってきたすべてのものは、夢の幻と同じく真ではないと仮定します。『序説』では、この夢の段が最後で、いちばん広い段です。 次に『省察』です(第一省察、AT VII 18–22) [2] 。一段目は同じく感覚で、遠くの物や小さな物について感覚が誤ることから始まります。二段目に、早くも夢が来ます。デカルトは、暖炉のそばに座り、冬のガウンを着て、この紙を手にしている場面を挙げます(AT VII 18)。いちばん確かに思える場面ですが、同じことを夢で見たこともあるのです。三段目は『序説』にない段です。全能の神が、私が 2 と 3 を足すたびに私を誤らせているかもしれない、と問います(AT VII 21)。さらに、私を欺こうとする「悪しき霊」を仮定します(AT VII 22)。こうして疑いは、目の前の物から数学の真理にまで及びます。 『方法序説』 『省察』 1 感覚の誤り 感覚が示す物を ないと仮定 2 推論の誤り 証明とした推論 を偽として退ける 3 夢 心に入ったすべて (最も広い段) 1 感覚の誤り 遠くの物や 小さな物 2 夢 目覚めの場面の すべて 3 欺く神・悪霊 2+3 も疑う (最も広い段) それでも、疑っている私は 何ものかである 図 2 疑いの段の比べ。左右とも三段ですが、二段目と三段目が違います。『序説』の最後は夢、『省察』の最後は欺く者です。どちらの道でも、最後に「疑っている私」が残ります。 この表で分かること: 『序説』と『省察』はともに疑いを段ごとに広げますが、最後の、いちばん広い段は『序説』では夢、『省察』では欺く者です。 段 『方法序説』 『省察』 一段目 感覚の誤り:感覚が示す物 感覚の誤り:遠く小さな物 二段目 推論の誤り:証明とした推論 夢:目覚めの場面のすべて 三段目 夢:心に入ったすべて 欺く神・悪しき霊:2+3 も 表 1 二つの本の疑いの段。『方法序説』第 4 部 AT VI 31–32 [1] 、第一省察 AT VII 18–22 [2] 。 ここで間違えやすい 欺く神や悪しき霊は、デカルトが実在すると主張したものではありません。疑いを最後まで押し進めるための想定です。欺く神は「かもしれない」という問いの形で出され(AT VII 21)、悪しき霊は「仮定しよう」という形で導かれます(AT VII 22)。また、二つの本の段の順を混ぜないようにしましょう。『序説』の最後は夢、『省察』の最後は欺く者です(図 2・表 1)。 コギト――疑っている私は存在する 疑いをここまで押し進めたとき、何が残るのでしょうか。デカルトは、すべてを偽と考えようとしている間、そう考えている私は何ものかでなければならない、と気づきます。そして、「私は考える、ゆえに私は存在する」という真理は、どんな疑いにも揺らがないと判断しました。これを哲学の第一の原理として受け入れたのです(『方法序説』第 4 部、AT VI 32) [1] 。ラテン語の「私は考える」( cogito )から、この原理をコギトと呼びます。 筋道を三段でたどります (図 3) 。一段目に、疑うことも考えることの一つです。デカルトのいう「考えるもの」とは、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、想像し、感じるもののことです(『省察』第二省察、AT VII 28) [2] 。二段目に、疑いの中身はすべて退けられても、そう考えている私は退けられません。『省察』は、欺く者が私を欺くなら、欺かれている私は存在する、と言います(AT VII 25)。三段目に、デカルトは、これは「考えるものはすべて存在する」という大前提からの推論ではないと答えています。単純な精神の直観によって知られる、というのです(第二答弁、AT VII 140) [2] 。 すべてを偽だと考えてみる 考えられた中身 感覚の物・夢・ 数学の証明 →偽とみなしうる 考えている私 1 疑うことも 考えることの一つ 2 退けられない 3 推論ではなく、直観で知る 大前提「考えるものは存在する」から導かない 私は考える、ゆえに私は存在する どんな疑いにも揺らがない第一の原理 懐疑論者のどんな想定でも揺らがない 図 3 疑いの分かれ道と、本文の三段(丸の番号)。考えられた中身はすべて偽とみなせますが、そう考えている私だけは退けられません。それは推論ではなく直観で知られ、第一の原理として残ります(AT VII 25・28・140) [2] 。 『省察』では、この原理は「ゆえに」の形をとりません。「私はある、私は存在する」という言明は、私がそれを言うたびに、あるいは心に抱くたびに、必ず真である、と書かれます(第二省察、AT VII 25) [2] 。確かなのは、考えている「その間」の私の存在です。 コギトを推論と読むか直観と読むかは、研究者の間で分かれています。『序説』や『哲学原理』(第 1 部 7)は「ゆえに」の形で書いており、第二答弁が退けているのは大前提から導く読み方だけだからです [6] 。本教材では、第二答弁でのデカルト自身の言い分を紹介するに留めます。 身近な場面に置き換えてみます。仮想現実のゴーグルをかけていて、見えている景色が全部作り物だったとします。それでも、「見えている」と思っている誰かがいることまでは、作り物にできません。このたとえは本教材のもので、デカルト自身の例ではありません。 ここで間違えやすい 「考える」は、理屈をこねることだけではありません。疑う、理解する、肯定する、否定する、欲する、欲しない、想像する、感じる、のすべてを含みます(AT VII 28)。また、ここで確かになったのは「考えるもの」としての私だけです。身体をもつ人間であることまでは、まだ確かになっていません。 心と身体――考える私はこの身体とどう結びつくか 前の章で確かになったのは、考えている私だけでした。身体はまだ疑えます。では、その私とは何者で、毎日動かしているこの身体とどんな関係にあるのでしょうか。デカルトの区別の議論と、それに向けられたエリザベトの鋭い問いを読みます。 心身の区別――精神は考えるもの、物体は広がるもの 考えている私が存在することは確かになりました。では、その私とは何なのでしょうか。『方法序説』は、コギトのすぐ後でこう論じます。私は、自分に身体がなく、世界も、自分のいる場所もないと仮定することはできます。しかし、自分がいないと仮定することはできません(第 4 部、AT VI 32) [1] 。 反対に、考えるのをやめてしまえば、ほかのすべてが真であっても、私がいたと信じる理由はなくなります。ここからデカルトは、私は 本質が考えることだけにある実体 だと結論します(AT VI 32–33) [1] 。実体とは、ほかのものに頼らずに、それだけで存在するもののことです。 『省察』第六省察は、同じ結論を別の筋で示します(AT VII 78) [2] 。一段目に、あるものを他のものなしに、はっきりと、他と紛れずに(明晰かつ判明に)理解できるなら、両者は少なくとも神によって別々に置かれえます。だから両者は異なるものです。二段目に、精神は考えて広がりをもたず、物体は広がりをもって考えません。ゆえに私は身体から実際に区別され、身体なしに存在しうる、とデカルトは結論します (図 4) 。 精神(考えるもの) 本質 考えること 広がり 広がりをもたない 最もよく知る仕方 純粋な知性 考えて、広がらない 物体(広がるもの) 本質 広がり(延長) 考える働き 考えない 最もよく知る仕方 想像に助けられた知性 広がって、考えない 図 4 精神と物体の対比。本質も性質も、ちょうど反対になっています。下の段の「知る仕方」は、後のエリザベト宛ての手紙(AT III 691–692)によるもので、この章の三つ目の節で読みます [3] 。 『序説』の論じ方には、出版後に反論が寄せられました。精神が自分を考えるものとしか知覚しないからといって、その本質が考えることだけにあるとは帰結しない、という反論です。デカルトは『省察