ソシュール――言葉の意味は差異の体系から生まれる(差異の体系・恣意性) — Epoché
現代 構造主義とポスト構造主義 約 17 分 本文 約 7,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 記号・恣意・差異の 3 つ 記号 言葉は物に貼る名札ではない。言語記号は、頭の中の概念(シニフィエ)と音の型(シニフィアン)が、紙の表と裏のように離れずに結びついたものだ、と『一般言語学講義』は説く(第 1 部 第 1 章)。 恣意 概念と音の結びつきには自然の理由が無い。だから言語ごとに音が違う。ただし恣意的とは、一人一人が勝手に変えられるという意味ではない、と同書は説く(第 1 部 第 1・2 章)。 差異 概念も音も、言語より前に区切られてはいない。一つの語の価値は、同じ言語のほかの語との違いで決まり、言語には違いしか無い、と同書は説く(第 2 部 第 4 章)。 はじめに フェルディナン・ド・ソシュールは、スイスのジュネーヴに生まれた言語学者です(1857〜1913) [1] 。21 歳で出した『覚え書』の、失われた音の仮説で名を知られました [1] 。 ソシュールはパリの高等研究実習院で約 10 年教えたのち、1891 年から故郷のジュネーヴ大学で教えました [1] [4] 。一般言語学の本は生前に出さず、いま主著とされる『一般言語学講義』(1916)は、没後に弟子のバイイとセシュエが、受講生のノートをもとに編んだ本です [1] [2] 。 そのため、この本の細かい所が、ソシュール本人の考えなのか、編者の整理なのかは、見分けにくいとされます [1] 。この課の「『講義』は言う」は、本にそう書かれているという意味で、本人の頭の中を言い当てるものではありません。 それでも『講義』は、構造言語学の出発点とされ、言語学の外にも広く読まれました [2] 。この編で読む構造主義とポスト構造主義は、ここから始まります。ソシュールが調べようとしたのは、ある言語の歴史の移り変わりだけでなく、ある時点での決まりの全体(共時的な体系)でした [1] 。 この課の問い 「いぬ」という言葉は、なぜ犬を指すのでしょうか。犬という動物が先にいて、それに名札を貼ったのが言葉なのでしょうか。もしそうなら、どの言語にも、同じものを指す言葉がぴったり一つずつあるはずです。けれども外国語を学ぶと、ぴったり重ならない言葉にすぐ出会います。言葉の意味は、いったいどこで決まっているのでしょうか。 この課のことば 言語記号 言葉の一つ一つの単位です。ソシュールは、物と名前ではなく、頭の中の概念と音の型の結びつきだと考えました。 シニフィアン(能記) 記号の、音の型の面です。耳に聞こえる音ではなく、声に出さずに心の中で言える、音の跡です。 シニフィエ(所記) 記号の、概念の面です。言葉が指す目の前の物ではなく、頭の中にある「木というもの」の考えを言います。 恣意性(しいせい) シニフィアンとシニフィエの結びつきに、自然の理由が無いことです。話す人が好きに選べるという意味ではありません。 価値 ある語が、同じ言語のほかの語との違いによって持つ受け持ちの範囲です。語がある概念を表すこと(意味)と分けて、こう呼ばれます。 ラングとパロール ラングは、ある社会の人々が共有する言語の決まりの体系、パロールは一人一人がその場で話す実際の言葉です。言語学が対象にするのはラングだ、とソシュールは考えました。 言葉の意味はどこで決まるか――名札から差異の体系へ 前の編のハーバーマスの課では、正しさを自由な討議で確かめる考えを読みました。この課では、その討議を支える言葉そのものに目を向けます。ソシュールは言語を、語の寄せ集めではなく、違いで成り立つ一つの体系として捉え直しました [1] 。この章では、記号の二つの面、恣意性、価値と差異の順に読みます。 記号の二つの面――言葉は物の名札ではない 言葉は物の名前の一覧だ、という見方があります。この木には「木」、あの馬には「馬」と、物ごとに名札を貼っていけば言語ができる、という考えです。『講義』は第 1 部 第 1 章「言語記号の性質」で、この名称目録の見方を退けます [2] [3] 。この見方は、言葉より前に出来上がった考えがあると決めてかかり、名前と物の結びつきを単純にしすぎている、というのです [3] 。 では、言語記号は何と何を結ぶのでしょうか。『講義』の答えは、物と名前ではなく、頭の中の概念と、音の心の中の型(聴覚映像)です [1] [3] 。音の型が物としての音でないことは、唇も舌も動かさずに、心の中で自分に話しかけたり、詩を暗唱したりできることから分かる、と『講義』は言います [3] 。そのうえで、概念をシニフィエ、音の型をシニフィアン、二つを合わせた全体を記号と呼ぶことにします [3] 。『講義』自身は、ラテン語の arbor (木)を例にして、この点を説明しています [3] 。 本教材の作例で確かめましょう。電車の中で、好きな歌の歌詞を、声を出さずに心の中でたどることがあります。耳には何も聞こえていませんが、音の並びははっきりあります。これがシニフィアンです。そして、その歌詞の「雨」という語で思い浮かぶ、降る雨の考えがシニフィエです。窓の外に本物の雨が降っているかどうかは、ここには関わりません。 言語は一枚の紙――考えを切れば音も切れる 考え(表) 音(裏) はさみ 概念「木」 =シニフィエ 音の型「き」 =シニフィアン 表だけ・裏だけは切り取れない 図 1 『講義』の紙のたとえを絵にしたものです(本教材の絵。雲と波の模様、はさみ、「木」の札は本教材の補い)。紙の表が考え、裏が音で、切り取った一切れには、概念と音の型がいっしょに付いてきます。まわりの紙にも切れ目が入っていて、切れ端どうしは境目で接しています。 二つの面は切り離せません。『講義』は第 2 部 第 4 章で、言語を一枚の紙にたとえます。考えが表、音が裏で、表を切れば必ず裏も切れます [2] [3] (図 1) 。図 1 の切れ端のように、言語の一つの単位は、考えの一区切りと音の一区切りが、同時に切り出されたものです。だから言語の中には、表現の無い意味も、意味の無い表現も無いとされます [1] 。切れ端どうしが境目で接していることにも目を留めておきましょう。これが三つ目の節の、違いの体系につながります。 では、外の物はどこへ行ったのでしょうか。記号が外の物を指すことはあります。けれども『講義』は、それを言語学の扱う範囲の外に置きました [1] 。言語学が調べるのは、記号どうしの関係だというのです。この割り切りが、次の二つの節を支えます。 ここで間違えやすい シニフィアンを耳に聞こえる音や紙の上の文字と取り、シニフィエを目の前の木そのものと取るのは誤りです。どちらも頭の中のもので、シニフィアンは音の型、シニフィエは概念です。また、『講義』は記号が物を指すことを否定したのではありません。それを言語学の外に置いただけです [1] 。 恣意性――その音でなければならない理由は無い 『講義』は第 1 部 第 1 章の「第一原理:記号の恣意性」の節で、シニフィアンとシニフィエを結ぶきずなは恣意的だ、と言います [3] 。たとえば、フランス語で「姉妹」の概念は s・ö・r( sœur )の音で表されますが、二つの間に内側のつながりは何もありません [3] 。その証拠に、言語が違えば音が違います。「牛」の概念は、国境の一方では b・ö・f( bœuf )、他方では o・k・s( Ochs )の音で表されます [3] 。牛のほうは、国境の両側で何も違いません。 恣意性をはっきりさせるために、『講義』は象徴と比べます (図 2) 。正義の象徴の天秤は、車など何にでも置き換えられるわけではありません。象徴には、表すものと表されるものの間に、自然のつながりの名残があるからです [3] 。言語記号にはそれが無いので、『講義』は言語記号を象徴と呼ぶのを避けます。 象徴 言語記号 例:正義を表す天秤 例:「姉妹」と s・ö・r の音 車に替えると正義を 表せない 言語が違えば音も 違う 自然のつながりの 名残がある 擬音語でさえ 言語ごとに違う 「牛」の概念は、国境の一方で bœuf、他方で Ochs と 呼ばれます。 図 2 象徴と言語記号の違いです(『講義』第 1 部 第 1 章の例。並べ方は本教材の整理)。どちらの列も、上から、例、置き換えられるか、表すものとのつながりの順です。 反論もありえます。擬音語は音と意味が似ているので、恣意的ではないのではないか、というものです。『講義』は、擬音語は数が少なく、しかも犬の鳴き声がフランス語では ouaoua 、ドイツ語では wauwau と言語ごとに違うので、すでに半ば取り決めだと答えます [3] 。痛いときの叫びも、フランス語の aïe とドイツ語の au のように違います [3] 。日本語の「ワンワン」を並べると、このことはいっそうはっきりします(日本語の例は本教材の補い)。 ただし、恣意的だからといって、一人一人が音を変えられるわけではありません。第 1 部 第 2 章によれば、言語は社会のみなが受け継いで使うものです [3] 。しかも結びつきに理由が無いので、「この音のほうが理にかなう」と議論する足場もありません。 sœur より sister を選ぶ理由は無い、というのです [3] 。こうして言語は、一人の意志では動かない社会の事実になります [1] 。 ここで間違えやすい 恣意的を「でたらめ」「好きに変えてよい」と取るのは誤りです。結びつきに自然の理由が無いだけで、結びつきそのものは社会の中で固く定まっています [1] 。また、言葉が恣意的だという考えはソシュールの発明ではありません。古代ギリシア以来の古い問いで、近代ではロックも論じました [1] 。ソシュールの新しさは、この原理から、次の節の価値の考えを引き出した所にあります。 価値と差異――意味はまわりの言葉との違いで決まる 『講義』の第 2 部 第 4 章「言語の価値」は、もう一歩進みます。言語より前の考えは、星雲のように形の無いかたまりで、前もって区切られた考えはありません [3] 。音の側も同じです。言語は、形の無い考えと形の無い音の間で、両方を同時に区切ります [3] 。すると、一つの語の値打ちは、それが何を表すかだけでは決まらなくなります。 『講義』はここで、意味と価値を分けます [1] 。五フランの硬貨の値打ちは、パンとどれだけ換えられるかと、ほかの硬貨とどう比べられるかの、両方で決まります [3] 。語も、概念と換えられる(意味を持つ)だけでなく、同じ言語のほかの語と比べて、初めて価値が定まります。 名高いのが羊の例です。フランス語の mouton と英語の sheep は、同じ意味を持ちえます。けれども同じ価値は持ちません。食卓に出る調理した肉を、英語では mutton と言い、 sheep とは言わないからです [2] [3] (図 3) 。 mouton は生きた羊も肉も受け持ちますが、 sheep の受け持ちは、隣の mutton に区切られています (表 1) 。 英語 境目 sheep mutton 羊と肉で語が二つに分かれる フランス語 mouton 一つの語が羊も肉も受け持つ 図 3 羊の例を絵にしたものです(本教材の絵。羊と肉の例は『講義』の例)。一つ目は英語で、生きた羊を sheep、食卓の肉を mutton と、二つの語が分けて受け持ちます。二つ目はフランス語で、mouton 一語が両方を受け持ちます。羊も肉も同じで、違うのは語の区切り方です。 この表で分かること: 生きた羊を指す点では mouton と sheep は同じですが、英語では mutton が隣にあるので、sheep は肉を受け持ちません。 語 牧場の生きた羊 食卓の羊の肉 隣で区切る語 フランス語 mouton 指す 指す 無い 英語 sheep 指す 指さない mutton 英語 mutton 指さない 指す sheep 表 1 『講義』第 2 部 第 4 章の羊の例を表にしたものです [3] 。表の組み方と mutton の行は本教材の整理です。 同じ言語の中でも同じことが起きます。「恐れる」に近い redouter ・ craindre ・ avoir peur は、互いに対立することでだけ、それぞれの値打ちを持ちます。一つが無くなれば、その中身はほかの語に移ります [1] [3] 。こうして『講義』は、言語の中には違いしか無く、しかもそれだけで立つ項の無い違いしか無い、と結びます。言語は実質ではなく形式だ、というのです [3] 。 『講義』は第 2 部 第 3 章で、チェスのたとえも使います。騎士(ナイト)の駒をなくしても、形のまったく違う物を代わりに置き、同じ働きを持たせれば、勝負は続けられます [3] 。駒を駒にしているのは、木を彫った形ではなく、盤の上でほかの駒との関係の中で持つ働き、つまり価値です。駒の材料を木から金属に変えても勝負が変わらないのと同じで、言語の単位も、音や形の材料ではなく、体系の中の関係で決まります(本教材の言い換え)。 ここで間違えやすい 「意味は違いで決まる」を、言葉の意味は人それぞれで何とでもなる、と取るのは誤りです。ここでの違いは、社会が共有するラングの中の違いで、一人では動かせません。また、言語が違えば互いに通じ合えない、とまで言うのも行き過ぎです。この節が述べるのは、語の区切り方が言語ごとに違う、ということまでです。 原典を読む 第 1 章の三つ目の節で見た羊の例を、『講義』第 2 部 第 4 章の文脈ごと確かめます。『講義』は協力者リードランジェ(1978 年没)の手も入った本で、権利の扱いが確かめられないため、訳ではなく本教材の要約で読みます。 ソシュール『一般言語学講義』第 2 部 第 4 章「言語の価値」より 意味は同じでも、価値は違う この章で『講義』は、言語が考えと音を同時に区切ることを述べたあと、語の価値を概念の面から論じます。その所の要点を、本教材の言葉でまとめます。 1 ソシュールの言い分の芯はこうです。語の値打ちは、その語が何を指すかだけでは決まらず、同じ言語の中でまわりにどんな語があるかで決まる、と『講義』は論じます。 2 太陽を表すよう