自由主義――個人の自由から出発する — Epoché
思想 イデオロギー 約 30 分 本文 約 13,700 字 図 4・表 2 資料 2 節 この課の要点 核の考え・歴史・分かれの 3 つ 核の考え 自由を初期値に置き、法や政府による制限の側に正当化を求める 歴史 王も法に縛られるとした流れから、ロックの財産の保全、ミルの『自由論』へ 分かれ 自由の意味(消極的・積極的)と、市場と国家の役割(古典的・新しい)で割れる はじめに 学校で「スマートフォンの持ち込みを禁止する」という新しい決まりが提案されたとします。多くの人は、まず「なぜ禁止するのか、理由を説明してほしい」と感じるでしょう。反対に「持ち込んでよい理由を、持ち込みたい人が説明しなさい」と言われたら、順序が逆だと感じるかもしれません。この感覚の背後には、自由が初期値であり、制限する側こそが理由を示すべきだ、という考え方があります。政治思想の言葉では、これが自由主義(リベラリズム)の出発点です。 自由主義は、ある一つの党の政策の名前ではありません。17 世紀のイギリスで王の権力を法で縛ろうとした議論から、19 世紀のミルの『自由論』、20 世紀の福祉国家や正義の理論までを含む、思想の束です。この束の中で、人々は「自由」とは何か、市場と国家はどんな役割を持つべきかについて、互いに激しく論じ合ってきました。同じ「自由主義者」が、最低賃金を自由の制限とみることもあれば、自由の条件とみることもあります。 この課では、まず自由主義の核にある考え方を確かめ、次にそれがどんな歴史の中で形をとったかを見ます。そのうえで、自由の意味をめぐる分かれ(消極的自由と積極的自由)と、市場と国家をめぐる分かれ(古典的自由主義と新しい自由主義)を整理します。資料で確かめるの章では、ロックとホブハウスの文章を本教材の訳で読み、二人の「自由」の違いを自分で確かめます。この課程の『イデオロギーとは何か』の課では、右と左という言葉の由来を見ました。自由主義がその並びの一か所にきれいに収まらない理由も、この課で見えてくるはずです。 この課の問い 自由主義は、なぜ「個人の自由」を政治の出発点に置き、国や法の側に理由を求めるのでしょうか。また、同じ自由主義の中で、自由の意味と国家の役割をめぐって、なぜ意見が大きく分かれるのでしょうか。 この課のことば 自由の推定 自由が初期値で、制限する側が理由を示すべきだという考え方。新しい校則を作るなら、作る側が理由を説明する、という感覚に近いものです。 制限された政府 政府にできることを、目的と法によって限る考え方。王や政府が何でも決められる体制と対になります。 消極的自由・積極的自由 他人にわざと邪魔されないことと、自分で自分の生き方を方向づけられること(または実際にそれを行える力があること)。 古典的自由主義 私有財産と市場を自由の土台とみる、18〜19 世紀に形をとった自由主義の流れ。「古い」自由主義とも呼ばれます。 新しい自由主義 19 世紀末から 20 世紀初めに形をとった、市場が生む力の不平等を国が正すことも自由のためだとみる流れ。日本語の「新自由主義」とは別の語です。 自由主義の核と分かれ――なぜ自由から出発し、どこで意見が割れるのか 自由主義には、党の綱領のような一つの決まった中身はありません。この章では、自由主義者が共有する出発点を確かめたうえで、彼らがどこで意見を分けてきたのかを、四つの節で見ていきます。 自由が出発点――制限する側が理由を示す モーリス・クランストンは「定義からして、自由主義者とは自由を信じる人である」と書きました(1967)。スタンフォード哲学百科事典(SEP)の自由主義の項目は、この言葉を引いたうえで、自由主義者は二つの仕方で自由を政治の価値の第一に置いてきたと整理しています [1] 。 一つ目は、人はもともと自由だという前提です。ロックは、人が生まれつきある状態を、自分の行いを自分がよいと思うように律し、誰かに許しを求めることも、ほかの誰かの意志に頼ることもない「完全な自由の状態」と呼びました [1] [4] 。ミルも、立証の責任は自由に反対し制限や禁止を唱える側にあり、あらかじめの推定は自由の側にある、と述べています(SEP の引用による) [1] 。ここから SEP は、自由主義を「政治の権威は正当化されなければならない」という前提から出発する哲学だとまとめます。法による制約にも理由が要ります。市民に自制を求めるなら、とくに誰かの権威に従うよう求めるなら、そこには理由がなければならない、というのです [1] (図 1) 。 初期値 人はもともと自由である 制限の提案 法や政府が自由を狭めようとする 理由の提示 制限する側が正当化を示す 結果 理由の認められた制限だけが残る 図 1 自由の推定。自由主義は、自由ではなく制限の側に理由を求める(SEP の整理をもとに本教材が作図) 二つ目は、正当化できる制限は控えめなものだ、という考えです。SEP によれば、ロックのような典型的な自由主義者は、正当化できるのは制限された政府だけで、政府の基本の仕事は市民の平等な自由を守ることだとします。ロールズの正義の第一原理、「各人は、すべての人の同様な体系と両立する、平等な基本的自由の最も広い体系に対して、平等な権利を持つ」も、この型の典型として挙げられています [1] 。自由を守るために政府は要るが、その政府も目的によって縛られる、という二重の考え方です。 SEP はさらに、自由主義者とはされないホッブズにも、自由主義の哲学の口火を切った人とみる理由がある、と言います。ホッブズは、臣民はどんな根拠で主権者に従う義務を負うのかを問いました。この問いには、臣民は王の持ち物だという前提を退け、王の力はむしろ、意味のある形で「否」と言える市民から与えられる、という見方が含まれているからです [1] 。本教材の整理として言えば、自由主義の核は「何が正しい生き方か」の答えよりも、「力を使う側に理由を求める」という問いの向きにあります。 日本の例に当てはめてみます。日本国憲法 13 条は「すべて国民は、個人として尊重される」と定め、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と続けます [6] 。権利の「最大の尊重」を原則とし、制限は「公共の福祉」という理由がある場合に限る、という組み立ては、自由の推定と同じ型をしています。ただし、これは考え方の型が似ているという本教材の当てはめです。憲法 13 条がロックの思想から直接に生まれたと言っているのではありません。 ここで間違えやすい 自由主義は「何をしてもよい」という考えではありません。ロック自身、自由の状態は「放縦の状態ではない」と書き、誰も他人の生命・健康・自由・所有物を害してはならないとしました [4] 。自由の推定は「制限は要らない」という主張ではなく、「制限には理由が要る」という主張です。 王の権力を法で縛る――マグナ・カルタからロックとミルへ 「力を使う側に理由を求める」考え方は、一人の思想家が突然つくったものではありません。SEP は、イギリスでは何世紀もかけて、市民と王の関係の見方が形をとってきたと述べます。1215 年に始まるマグナ・カルタは、貴族たちとジョン王の争いから生まれた一連の取り決めで、やがて王も法の支配に縛られることを定着させました。ただし SEP によれば、1215 年の時点のマグナ・カルタは、立憲的な自由主義の議論を終わらせたものではなく、始めたものでした。14 世紀半ばまでには、陪審による裁判、適正な手続、法の前の平等という個人の権利の考えがより固まりました。15 世紀半ばには、首席裁判官(在任 1442–1461)のジョン・フォーテスキューが、絶対君主政と制限君主政の違いを論じて、制限君主政を擁護しています [1] (図 2) 。 1215 マグナ・カルタの取り決めが 始まる 1442–1461 フォーテスキューが首席裁判官と して在任 1688 名誉革命 1689 ロック『統治二論』を匿名で出版 1859 ミル『自由論』 1871–72 中村正直訳『自由之理』の版 1911 ホブハウス『自由主義』 1971 ロールズ『正義論』 図 2 王の権力を法で縛る流れから現代の正義論まで(SEP・電子版の扉・国立国会図書館の目録による) ロック(1632–1704)の『統治二論』は、この流れの中に位置づけられます。SEP のロックの項目によれば、1688 年の名誉革命で国王ジェームズ 2 世はフランスへ逃れ、イギリスの統治の力の重心は王から議会へ移りました。亡命先のオランダから 1689 年 2 月に帰国したロックは、同じ 1689 年に『統治二論』を匿名で出版しました。序文が名誉革命の後に書かれたため、この本は名誉革命を正当化するために書かれたという印象を与えました。しかし今では、本文は 1681 年の排斥法危機のころに書かれたことが分かっている、と SEP は述べています [2] 。 ロックは『統治二論』後編で、自然の状態で自由な人々が、なぜその自由を手放して政府の下に入るのかを問いました。自然の状態でも、人は自分の身体と所有物の主人です。けれども、その享受はとても不確かで、いつも他人に侵されるおそれがあります。そこで人々は「生命、自由、資産」を互いに保全するために結びつく、とロックは言い、この三つをまとめて「財産(プロパティ)」と呼びました(第 123 節)。人々が国家に結びつき、政府の下に身を置く「大きな主な目的」は、この財産の保全だとされます(第 124 節) [4] 。SEP は、ロックが同意を、政治社会がつくられ人々がそれに加わる仕組みとして強調したと説明しています [3] 。 ロックの政治思想には、宗教の寛容もあります。SEP によれば、ロックの『寛容についての書簡』の中心の主張は、政府は力を使って人々を真の宗教に導こうとしてはならない、というものでした [3] 。信仰のように力では強いることのできない領域を、国家の仕事から外すという発想です。なお、ロックを読む研究者の間では、ロックの中心が「自然権」にあるのか、他人を殺さない・奴隷にしない・盗まないという「自然法の義務」にあるのかで争いがあります。SEP は、義務を第一とみる読みをより多くの研究者がとっていると紹介し、多くの研究者がロックに、困っている人を助ける慈善の義務も読み取っているとしています [3] 。ロックを「権利だけを説いた個人主義者」と単純にまとめないほうがよいでしょう。 19 世紀には、J・S・ミルの『自由論』(1859)が出ます [12] 。ミルの危害原理と言論の自由の議論は、この課程の『言論の自由』の課で読みました。日本では明治のはじめに、中村正直がこの本を『自由之理』の題で訳しています [10] 。国立国会図書館の目録には、1871〜72 年の刊記を持つ『自由之理』の版がいくつも載っています [9] 。西洋の自由主義の古典は、日本の近代の政治の言葉にも早くから入ってきたのです。 ここで間違えやすい ロックの「財産」は、土地やお金のことだけではありません。第 123 節でロックは、生命・自由・資産をまとめて「財産」と呼んでいます [4] 。「自由主義は財産を守る思想だ」という説明を聞いたら、どの意味の財産なのかを確かめる必要があります。 自由の意味で割れる――邪魔されないことか、自分で決められることか 自由主義者は、自由を第一に置く点では一致します。しかし SEP は、「自由」の概念そのものについては意見が分かれ、その違いが政府の仕事についての見方の違いにつながると言います [1] 。この課程の『自由』の課で見た二つの自由が、ここでは自由主義の内部の分かれとして現れます。 一つは、アイザイア・バーリンが擁護した消極的自由です。バーリンによれば、人が自由であるのは、ほかの人や人の集まりが自分の活動に干渉しない程度においてです。他人に妨げられて、本来ならできたことができないとき、人はその分だけ不自由です。ただし、強制はあらゆる「できない」を指す語ではありません。空中に 10 フィート(約 3 メートル)以上跳べないことを、強制されているとは言いません。強制とは、他の人間がわざと干渉することです [1] 。この見方に立つと、自由主義の国家が自由を守る仕事は、市民が十分な理由なしに互いを強制しないようにすることになります [1] 。 もう一つは積極的自由です。SEP によれば、ルソーも積極的自由を唱えたように見えます。しかし、これを最もよく発展させたのは、19 世紀末から 20 世紀初めのイギリスの新ヘーゲル派、トマス・ヒル・グリーンやバーナード・ボザンケでした。グリーンは、抑えられない衝動や渇望に支配された人を、「自分のではなく他人の意志を実行している奴隷」の状態にたとえました。自由とは、自分の行いが本当に自分のものであること、つまり自律だという考えです [1] 。SEP は、この自律の理想の根がルソーとカントだけでなくミルの『自由論』にもあり、今日の自由主義の有力な流れだとしています [1] 。 積極的自由には、もう一つの意味が重ねられることがあります。イギリスの社会主義者 R・H・トーニーの言う「行う力」としての自由です。SEP の挙げる例では、カントリークラブの会員になることを禁じられてはいないが、貧しくて会費が払えない人は、この見方では会員になる自由を持っていません。この意味の自由は、物質的な資源と強く結びつきます。教育を誰もが受けられるようにすることも、この自由を広く行き渡らせると言えます [1] 。これに対してハイエクは、「自由と富はどちらも良いものだが、それでも別のものである」と述べ、二つを区別しました [1] (図 3) 。 消極的自由 積極的自由 他人にわざと 邪魔されないこと 自分で方向づける こと・行う力 問い:誰がどこまで 干渉するか 問い:実際に自分で 選び行えるか 論者:バーリン 論者:グリーン、 トーニー できないこと一般は 不自由と呼ばない 資源や教育とも 結びつく 図 3 消極的自由と積極的自由(SEP の自由主義の項目をもとに本教材が整理) 本教材の作例で考えてみます。大学に