メルロ=ポンティ――世界を知るのは身体である(知覚の現象学・身体図式) — Epoché
現代 現象学と実存主義 約 16 分 本文 約 6,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 身体・図式・習慣の 3 つ 身体 私たちの体は、外から測れる物の一つでも、心が操る道具でもなく、世界へいつも向かっている「生きられた身体」である。失った腕がまだあるように感じられる幻影肢は、神経の説明だけでも思い込みの説明だけでも解けない、とメルロ=ポンティは言う(『知覚の現象学』1945、第 1 部第 1 章)。 図式 私たちは手の位置を地図の上の点として知るのではなく、届く・つかむという仕事の中で知っている。この考える前の体のまとまりを、メルロ=ポンティは身体図式と呼ぶ。脳を損なった患者シュナイダーとの比べから、体の空間は「私は考える」ではなく「私はできる」の空間だと論じる(同、第 1 部第 3 章)。 習慣 習慣を身に付けるとは、規則を頭で覚えることではなく、体が世界との新しい付き合い方を覚えることである。慣れた盲人の杖の先は、物としての棒の端ではなく、触れる感覚そのものの場所になる、とメルロ=ポンティは言う(同、第 1 部第 3 章)。 はじめに モーリス・メルロ=ポンティ(1908〜1961)は、学生の頃にフッサールの講演を聞き、のちにその未刊の草稿も読んだフランスの哲学者です。1945 年に本課で読む『知覚の現象学』を著し、同じ年にサルトル、ボーヴォワールと雑誌『レ・タン・モデルヌ』を始めました [1] 。 この編のフッサールの課では、意識はいつも何かについての意識だ、と読みました。ハイデガーの課では、人間は物を眺める前に道具を使い、すでに世界の中に住んでいる、と読みました。では、世界の中に住んでいるのは何なのでしょうか。メルロ=ポンティの答えは、体です。本課は、意識の働きや道具の世界をくり返さず、この体の話に絞ります。 この課の問い 目を閉じたままでも、自分の右手がいまどこにあるかは分かりますし、鼻の頭を掻くこともできます。私たちはふつう、世界を知るのは頭(心)の仕事で、体はその命令を受けて動く道具だと思っています。けれども、世界がいつも意味のあるものとして目の前にあるのは、私たちが体を持ち、体で世界に住んでいるからではないでしょうか。体は「物」なのでしょうか、それとも「私」なのでしょうか。 この課のことば 知覚 見る・聞く・触るなどして、ものや出来事に気づくこと。メルロ=ポンティは、知覚を、体で世界とやりとりすることだと考えました。 経験論と主知主義 メルロ=ポンティが乗り越えようとした二つの見方。経験論は、知覚を物から感覚器官への因果の伝わりとみます。主知主義は、ばらばらの感覚を心の判断がまとめ上げるとみます。 生きられた身体 外から測れる「物としての体」に対して、内から生きている自分の体。いつも知覚の中にあるのに全体を見ることはできず、触る側と触られる側が入れ替わる、という物には無い性質を持ちます。 身体図式 体の各部がいまどこにあり、どう動けば何ができるかを、考える前に知っている体のまとまり。地図のような位置ではなく、なすべき仕事へ向かう空間を作ります。 志向弧 過去・未来・人との関わり・身の回りの状況を私たちのまわりに張りわたし、その中に私たちを置く体の働き。 習慣の身体 繰り返しの中で体に沈み込み、意識しなくても働くようになった、できることの積み重ね。 身体――体は物なのか、それとも私なのか 『知覚の現象学』は、ある経験について、まず経験論の説明、次に主知主義の説明を取り上げ、両方に共通の思い込みを外して第三の道を示す、という運びをくり返します。共通の思い込みとは、出来上がった客観の世界がはじめからそこにある、という疑われない信念です [1] 。この章では、その運びで体を読む三つの場面、幻影肢、シュナイダー、盲人の杖を順に見ます。 生きられた身体――幻影肢は神経でも思い込みでもない 経験論は、知覚を、物から神経を通って脳へ伝わる因果の流れとみます。主知主義は、ばらばらの感覚を、心の判断や注意がまとめ上げるとみます。ただし主知主義も、ばらばらの感覚という出発点は経験論から受け継いでいます。どちらも、知覚の結果である客観の世界を、知覚の経験の中へ逆に読み込んでいる、とメルロ=ポンティは批判します [1] (表 1) 。 この表で分かること: 経験論は因果で、主知主義は心の判断で知覚と体を説明しますが、どちらも出来上がった客観の世界を読み込んでいます。メルロ=ポンティは、世界へ向かう体という第三の道をとりました。 見方 知覚とは 体とは 幻影肢は 経験論(生理学) 物から脳への刺激の伝わり 神経でつながった物 神経が刺激を送り続ける 主知主義(心理学) 心が感覚をまとめる判断 心が思い描く像 腕があるという思い込み メルロ=ポンティ 体と世界のやりとり 世界へ向かう生きられた身体 なお腕の世界へ向かう体 表 1 『知覚の現象学』の三つの見方。経験論と主知主義への批判は SEP の整理によります [1] 。幻影肢の列は第 1 部第 1 章によります [2] 。 その行き詰まりがよく見えるのが、幻影肢です。腕を失った人が、無いはずの腕にかゆみや痛みを感じます。生理学は、切り口の神経が脳へ刺激を送り続けるからだと説明します。けれども、腕を失ったときを思い出させる感情や出来事で、幻影肢が現れることがあります。心理学は、腕があってほしいという思い込みだと説明します。けれども、脳へ向かう神経の道を断つと、幻影肢は消えます。どちらの説明も、事実の半分しか扱えません(『知覚の現象学』第 1 部第 1 章) [2] (図 1) 。 幻影肢 失った腕に、かゆみや痛みを 感じる 生理学(経験論) 神経が刺激を送り続ける。思い出で 現れることは説けない 心理学(主知主義) 腕があるという思い込み。神経を断つと 消えることは説けない メルロ=ポンティ 体がなお、腕でつかむ世界へ 向かっている(世界へ向かう存在) 図 1 幻影肢をどう説明するか(『知覚の現象学』第 1 部第 1 章)。上の二つの枝は、それぞれ事実の半分しか扱えません。いちばん下の枝が、メルロ=ポンティの第三の道です。三つの枝に並べた描き方は本教材の整理です。 メルロ=ポンティは、幻影肢を持つ人は、腕を物として持ち続けているのでも、腕の像を頭に描いているのでもないと読みます。その人の体は、腕でつかみ、差し出してきた世界へ、なおも向かっているのです。体のふつうの在り方は、因果でも判断でも尽くせない、生きる場面への向かい方で、彼はこれを「世界へ向かう存在」と呼びます [1] 。 自分の体は、ほかの物とも種類が違います。いつも知覚の場の中にあるのに、全体を直に見ることはできません。右手で左手に触れると、触る側と触られる側が入れ替わります(二重の感覚) [1] 。机のコップに触れても、コップが触れ返してくることはありません(コップとの比べは本教材の作例)。 ここで間違えやすい 「世界を知るのは身体である」を、知識はみな目や耳から入ってくる、という経験論の主張と取るのは誤りです。感覚を物から器官への刺激とみる見方こそ、彼が退けた一つ目の思い込みでした。また、考えることの働きを否定したのでもありません。退けたのは、考えることを体から切り離せるとみる見方です [1] 。 身体図式――手がどこにあるかは考える前に分かっている 目を閉じても、机の下の右足が組まれているか、つま先がどちらを向いているかは分かります。そのたびに床から何センチと計っているわけではありません。体の動きと位置は、意識される前のひとまとまりとして与えられています。メルロ=ポンティは、このまとまりを身体図式と呼びます [1] 。 机の上のコップは、机の端から何センチという位置を持ちます。ところが自分の手は、コップに届く、つかめる、という仕事の向きの中で、どこにあるかが分かっています。彼は、物の「位置の空間性」に対して、体には、いまの仕事やできる仕事へ向かう「状況の空間性」があると言います。物を測る客観の空間は、この体の空間を背景にして作られます [1] 。 ここで長く論じられるのが、ゲルプとゴルトシュタインが調べた、脳を損なった患者シュナイダーです [1] 。シュナイダーは、蚊に刺された所をすぐに叩くといった、暮らしの中の具体の動きはできました。ところが、目を閉じて触られた所を指すような、場面から切り離された抽象の動きは、まず体を動かして探らないとできませんでした(第 1 部第 3 章) [2] (図 2) 。 暮らしの中の動き 蚊 すぐ叩ける 刺された所は見なくても叩ける 言われた動き 触られた所を指して 目を閉じて まず体を動かして探らないと指せない 図 2 同じ手なのに、できる動きとできない動きがあります(本教材の絵)。一つ目は、夜、腕の蚊をすぐに叩ける場面です。二つ目は、医師に触られた所を、目を閉じたまま指すように言われ、まず体をゆすって探る場面です。シュナイダーの事例はゲルプとゴルトシュタインの記録をメルロ=ポンティが論じたもので、部屋や医師の描き方は本教材の作例です。 メルロ=ポンティによれば、シュナイダーに欠けているのは、実際には無い、可能な場面へ自分を投げかける力です。ふつうの人には、過去・未来・人との関わり・身の回りの状況を張りわたし、その中に私たちを置く「志向弧」が働いていて、彼の傷はそれを緩めました [1] 。体と空間の関わりは、意識が空間を考えることではありません。それは「私は考える」ではなく「私はできる」の形をとり、体は空間の中に置かれるのではなく、空間に住んでいます [1] 。 ここで間違えやすい 身体図式を、頭の中にある自分の体の地図や絵と取るのは誤りです。意識して思い描く像ではなく、考える前に働いている動きのまとまりで、できる仕事への向きとして現れます。シュナイダーの例も、脳が壊れると体が動かなくなる話ではありません。彼の体は動き、暮らしの動きもできました。崩れていたのは、可能な場面へ体を投げかける力です [1] 。 習慣の身体――杖の先で触れる 体が世界へ向かう仕方には、時間の幅があります。SEP の整理では、それは、いまの体と、習慣の体とのやりとりで成り立ちます。いまの体は、フッサールにならって「私はできる」と特徴づけられます。習慣の体は、過去の行いが沈み込み、一般の、名の無い、ひとりでに働く性格をとったものです [1] 。 では、習慣を身に付けるとはどういうことでしょうか。経験論なら、刺激と動きが繰り返し結び付いた反射のつながりと言い、主知主義なら、動きの規則を理解して当てはめることと言うでしょう。メルロ=ポンティは、習慣はそのどちらでもなく、そこで「分かって」いるのは体だと言います(第 1 部第 3 章) [2] 。 例は、誰でも思い描けるものです。タイプを打つ人は、文字の鍵がどこにあるかを言えなくても、指が鍵を見つけます。目の見えない人の杖は、慣れると手のひらに圧を伝える棒ではなくなり、杖の先で段差や物の形を感じるようになります(同) [2] (図 3) 。 初めて杖を持った日 いまの揺れは何? 触れる感じは手のひらにある 何週間か後 ここで一段下がる 触れる感じは杖の先へ移った 図 3 同じ杖、同じ段差でも、触れる感じの場所が変わります(本教材の絵)。一つ目は、初めて杖を持った日で、明るい丸は手のひらにあり、杖の揺れが何なのかを考え込んでいます。二つ目は、何週間か後で、明るい丸は杖の先に移り、点線で示した体の及ぶ範囲が杖の先まで広がっています。盲人の杖はメルロ=ポンティ自身の例で、歩道と段差の場面は本教材の作例です。 杖は、見られる物から、それで触る体の一部に変わりました。習慣を身に付けるとは、体が道具や場面を取り込み、自分の及ぶ範囲を広げ直すことだ、と彼は言います [2] 。本教材の読み方として言えば、身体図式は固定した地図ではなく、組み替わるまとまりです。考えなくても体が働くからこそ、私たちはいまの仕事に気を向けられます。 ここで間違えやすい 「杖が体の一部になる」を、たとえ話や気の持ちようの話と取るのは誤りです。触れる感じが実際に杖の先で生じるという知覚の事実で、体の及ぶ範囲が皮膚で終わらないことの証拠です。この編のハイデガーの課のハンマーは、道具が仕事の中で目立たなくなる世界の在り方の話でした。本課の杖は、道具が知覚する体の一部になる話です(この対比は本教材の読み方です)。 原典を読む 第 1 章の三つ目の節で見た、習慣の獲得を論じる段を、本教材の言葉で要約して読みます。 メルロ=ポンティ『知覚の現象学』第 1 部第 3 章 習慣で分かっているのは体である 第 1 部第 3 章は、自分の体の空間と動きを論じる章です。シュナイダーの事例の後に、習慣を身に付けることを取り上げる段があります。要点を先に置いて要約します。 1 メルロ=ポンティは、習慣を身に付けるとは、体が新しい道具や身ぶりを取り込み、世界の中で自分の及ぶ範囲を組み替えることだと論じます。 2 そのとき分かっているのは頭ではなく体で、習慣は、頭で持つ知識でもなければ、ひとりでに動く仕掛けでもない、と彼は言います。 3 例の一つは、タイプを打つ人です。 4 文字の鍵がどこにあるかを言葉で言えなくても、指は鍵を見つけます。 5 もう一つは、目の見えない人の杖です。慣れた杖は、その人にとって手に持った物ではなくなり、触れる感覚は杖の先で生じます。 6 体の及ぶ範囲は皮膚で終わらず、習慣とともに広がり直す、というのが彼の結論です。 原典 1 メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(ガリマール、1945 年)第 1 部第 3 章の、習慣の獲得を論じる段の要約(本教材) [2] 。原文は引用していません。この要約を訳として引用しないでください。 読み解き 1 一つ目の段が結論です。習慣を経験論の反射とも、主知主義の規則の理解とも分けている所が要で、本文の三つ目の節の「二つの説明」とつながります。 2 二つ目の段の要は、位置を言葉にできなくても体が正しく動くことです。体が先に分かっていて、頭は後からそれを言葉にするだけです。 3 三つ目の段の杖は、触れる場所そのものが移る点で一歩進んでいます (図 3) 。身体図式が固定した地図ではなく、組み替わるまとまりであること