憲法と立憲主義――権力を縛る決まり — Epoché
制度と行動 統治の制度 約 29 分 本文 約 12,800 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 意味・硬性・日本の 3 つ 意味 憲法は権力をつくる決まりですが、立憲主義はその権力に限界を引き、政府の権威を限界の遵守にかからせる考えです 硬性 限界を政府が自分で外せないよう、改正には特別多数や国民投票など、普通の立法より重い手続きが求められます 日本 日本国憲法は 98 条で最高法規、99 条で公務員などの擁護義務、96 条で総議員の 3 分の 2 と国民投票を定め、施行以来改正されていません はじめに 部活やサークルの規約を思い浮かべてください。部長が「部長の任期は、部長が好きなときに延ばせる」という規則を、その場の多数決で書き加えたとします。手続きは多数決でも、これでは部長を縛る決まりが、部長自身の手で外されてしまいます。規約に意味があるのは、役職をつくるだけでなく、役職にある人ができることに線を引き、その線を簡単には動かせないようにしているからです。 国家でも同じ問いが立ちます。憲法は、国会や内閣や裁判所をつくり、それぞれに権力を与える決まりです。けれども多くの国の憲法は、それと同時に、与えた権力に限界を引いています。権力には限界があり、政府の権威はその限界を守ることにかかっている、という考えを「立憲主義」と呼びます。 ニュースでは「立憲主義」や「憲法改正」という言葉がよく聞かれ、どの条文をどう変えるべきか、変えるべきでないかをめぐって、人々の意見は分かれています。この課は、その賛否に答えを出すための課ではありません。賛否を考える前に押さえておきたい土台、つまり、憲法が何を縛るためにあるのか、縛りを変える手続きがなぜ重く作られているのか、という仕組みの理解をめざします。どの立場をとる人にとっても、この土台は共通の道具になります。 この課程の「政治文化と社会関係資本」の課では、人々のあいだの信頼が制度の働きを左右することを見ました。この課から、統治の制度そのものに入ります。最初に取り上げるのは、ほかのすべての制度の土台になる憲法です。 この課では四つのことを順に考えます。一つ目は、「憲法」という語の二つの意味です。二つ目は、縛られるのは誰か、つまり主権と政府の区別です。三つ目は、縛りを簡単に外させないための「変えにくさ」、四つ目は、書かれていない決まりでも権力を縛れるか、です。そのあと資料の節で、日本国憲法の前文と第 98 条・第 99 条の原文を読み、最高法規とは何か、憲法を守る義務を負うのは誰かを、自分の目で確かめます。 この課の問い 憲法は権力をつくるだけでなく、どのようにして権力を縛るのでしょうか。縛られるのは誰で、その縛りはなぜ簡単に外せないようになっているのでしょうか。 この課のことば 立憲主義 政府の権力には限界があり、政府の権威はその限界を守ることにかかっている、という考えです。憲法という文書があるだけでは足りません。 主権 ある範囲で最高の権威をもつことです。日本国憲法の前文は、主権が国民にあると宣言しています。 最高法規 ほかの法律や命令より上に立ち、それに反する法律などを無効にする法です。日本国憲法は第 98 条で自らをそう定めます。 固定と硬性 政府が権力の限界を思いのままに変えられないようにすることを固定と呼びます。法によっても習律によっても行われ、改正に普通の法律より重い手続き(議員の 3 分の 2 の賛成や国民投票など)を求める硬性は、その一つの形です。 憲法習律 裁判所では強制できないものの、政治の実践の中で守られている決まりです。英国で君主が議会を通った法案を拒まないことが例です。 憲法と立憲主義――憲法はどうやって権力を縛るのか この章では、主に「スタンフォード哲学百科事典」(SEP)の「立憲主義」の項目(ワルコウとキリツィス)の整理に沿って、立憲主義の考えを四つの面から見ていきます [1] 。各節で、日本国憲法の条文がその考えをどう書き込んでいるかも確かめます。 憲法の二つの意味――権力をつくる決まりと縛る決まり 「憲法」という語には、少なくとも二つの使い方があります。SEP の項目は、まず最小限の意味を次のように定めます。憲法とは、政府の権力や権威をつくり、組み立て、場合によってはその限界を定める規範(規則・原理・価値)の集まりである、というものです [1] 。この意味なら、すべての国家に憲法があります。国家と呼べるものなら、三つの基本の権力をつくり、その限界(または限界の無さ)を定める何らかの手立てをもつはずだからです [1] 。三つとは、立法(新しい法をつくる)・執行(法を実施する)・司法(法に基づいて争いを裁く)です。 項目は極端な例として、三つの権力をすべて無制限に持つ絶対君主「レックス」を挙げます。レックスは、命令が賢いかどうか、道徳にかなうかどうかについて、法的に責任を問われません。手続きにも、ほかのどんな制約にも縛られません。この国の憲法は「レックスに無制限の権力を与える」という規則一つだけだ、と言えます。それでも最小限の意味では、これも憲法です [1] (図 1) 。 レックスの国 立法 執行 司法 三つの権力に限りがない レジーナの国 権限の範囲 宗教の 立法 囲いの外 宗教の立法は権限の外 図 1 レックスの国とレジーナの国(SEP の例を本教材が絵にしたもの) [1] 。上の絵のレックスは三つの権力を限りなく持ちます。下の絵のレジーナは同じ権力を持ちますが、宗教について立法する権限だけがありません。 しかし研究者が「立憲主義」と言うとき、ふつうはレックスの場合を除く意味で使います。権力をつくる規範があるだけでなく、その規範が権力に大きな限界を課している、という意味です。項目によれば、この豊かな意味での立憲主義とは、政府はその権力を制限されうる(また制限されるべきである)、そして政府の権威はその限界を守ることにかかっている、という考えです [1] 。「されうる」という事実の面と、「されるべき」という規範の面の両方を含む点に注意してください。 項目は、レックスと比べる例として「レジーナ」を挙げます。レジーナはレックスと同じ権力をもちますが、宗教にかかわる事柄について立法する権威だけはありません。さらに、その立法の権限を越える法を執行したり、それに基づいて裁いたりする権力もありません。項目は、ここに西洋の法思想が理解してきた立憲主義の「種」がある、と言います [1] 。 限界の形は一つではありません。項目は三つの形を挙げます (図 2) 。一つ目は権限の範囲です。連邦制の国で、州が保健や教育を受け持ち、連邦が国防や交通を受け持つような分け方がこれに当たります。二つ目は、権力を使うときの仕組みです。法律をつくる形式や手続きの決まりがその例です。三つ目は、政府に対する市民の権利です。表現や結社の自由、平等、法の適正な手続きなどがこれに当たります [1] 。 憲法による限界 政府の権力に課す限界の形 権限の範囲 例:連邦制で州と連邦が受け持ちを 分ける 行使の仕組み 例:法律をつくる形式と手続きの決まり 市民の権利 例:表現・結社の自由、平等、適正な 手続き 図 2 憲法が政府の権力に課す限界の三つの形(SEP の項目の整理による) [1] 。 歴史の上では、1789 年のフランスの「人間と市民の権利の宣言」第 16 条が、豊かな意味の使い方をはっきり示しています。条文は「権利の保障が確保されず、権力の分立も定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と述べます(本教材の訳) [6] 。ここでの「憲法」は、権力をつくる規範ならどれでもよい、という意味ではありません。権利の保障と権力の分立という限界を備えたものだけを「憲法」と呼ぶ使い方です(本教材の整理)。 日本国憲法にも、つくる面と縛る面の両方があります。第 41 条は国会を「国権の最高機関」で「国の唯一の立法機関」と定め、第 81 条は最高裁判所を、法律や命令などが憲法に適合するかどうかを決める権限をもつ終審裁判所と定めます [2] 。これらは権力をつくる条文です。一方、第 98 条は、憲法の条規に反する法律・命令・詔勅などは効力をもたないと定めます [2] 。国会が「最高機関」であっても、その法律は憲法の枠の外には出られません。権力をつくる条文と縛る条文が、一つの文書に並んでいるのです。 ここで間違えやすい 「憲法がある国は立憲主義の国だ」と考えがちです。しかし最小限の意味では、レックスの国にも憲法があります [1] 。立憲主義かどうかは、憲法という名の文書があるかどうかではなく、権力に大きな限界が課され、政府の権威がその限界を守ることにかかっているかどうかで決まります。 主権と政府――縛られるのは誰か 権力に限界を課すとして、誰が縛られ、誰が縛るのでしょうか。項目によると、立憲主義の歴史を語るときには、ホッブズとロックがよく比べられます。ホッブズは憲法上無制限の主権(レックスの型)を、ロックは社会契約の条件によって実質的に制限された主権(レジーナの型)を、それぞれ擁護したと考えられているからです [1] 。 項目は、同じくらいよい手がかりとして、イギリスの法理論家ジョン・オースティンを挙げます。オースティンはホッブズと同じく、制限された主権という考えは筋が通らないと考えました。すべての法は主権者の命令です。主権者を法で縛るには、主権者が自分自身に命令しなければなりません。しかし人は、比喩の意味でしか自分に命令できません。だから制限された主権は、「丸い四角」と同じく矛盾だ、というのです [1] 。 この考えは、議会が至上で憲法上無制限だとよく言われた英国には、一見もっともらしく当てはまりました。しかし米国・カナダ・メキシコ・ドイツのように、政府の権力が憲法で法的に制限されていることが明らかな国には、うまく当てはまりません。オースティンは、主権は最終的に「人民」、つまり住民全体にあるという人民主権に訴えて答えました。議会・大統領・裁判所は憲法で制限されうるが、主権者である人民の命令する力は無制限のまま残る、というわけです [1] 。 ただし項目は、この答えが十分かどうかは疑わしいと見ます。オースティンの主権者は、住民の大部分に命令する特定の個人か集団のはずでした。命令する者を人民自身とみなすと、H・L・A・ハートが指摘したように、「命令する者が命令する者に命令する」ことになり、ふたたび筋が通らなくなるからです [1] 。 それでも項目は、オースティンの議論から、主権と政府という二つの概念を区別する必要が見えてくると言います。おおまかに言えば、主権とは、ある領域に対する最高の(場合によっては無制限の)規範的な権力と権威をもつことです。政府とは、その主権を行使する人々や機関です [1] 。こう区別すると、主権が政府以外の所にあることも考えられます。すると「政府は制限され、主権は無制限」という組み合わせを、矛盾なく語れます。項目は、立憲民主国家についてはそう言うのがよいかもしれないと述べます。人民の主権的な権威は最終的で無制限だが、それを人民に代わって行使する議会・大統領・裁判所は、憲法で制限され、人民に従属している、という見方です。ロックなら、政府が憲法上の限界を越えたときにその権威を無効にする規範的な力が人民に残る、と言ったかもしれない、と項目は付け加えます [1] 。 一方で項目は、主権と政府が同じ一人や一つの機関に重なることも、概念の上ではありうるとします。項目によると、ホッブズは、悲惨な自然状態から抜け出すために、個人から政治的な主権者へ権利と権力を(ほぼ)すべて移すことを求めたように見えます。ホッブズの理論では、究極で無制限の主権は、最高の統治者である人や機関に宿らなければなりません。この意味で、ホッブズは主権と政府を同じものに重ねた、と論じることができる、と項目は述べます [1] 。 日本国憲法の前文は、この区別に近い言葉で書かれています。前文は「主権が国民に存する」と宣言し、国政は「国民の厳粛な信託」によるもので、「その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使」する、と述べます [2] 。権威の出どころ(国民)と、権力を行使する者(国民の代表者)が書き分けられているのです。そして第 99 条は、憲法を尊重し擁護する義務を負う者として、天皇又は摂政、国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員を挙げます [2] 。この列挙に「国民」は入っていません。前文と第 99 条を並べると、縛られる側として名指しされているのは権力を行使する者たちだ、と読めます(本教材の読み方)。この二つの条文は、資料の節で原文を読みます。 ここで間違えやすい 「憲法は国民が守るべき決まりだ」とだけ考えるのは不十分です。第 99 条の擁護義務を負う者として挙げられているのは公務員などで、国民は挙げられていません [2] 。ただしこれは、国民が憲法と無関係だという意味ではありません。主権者である国民は、第 96 条の国民投票で、憲法を変えるかどうかの最後の決定に加わります [2] 。 変えにくくする仕組み――硬性と改正の手続き 項目によれば、多くの論者は立憲主義のもう一つの重要な特徴を挙げます。権力に限界を課す規範が、法か憲法習律によって、何らかの仕方である程度「固定」されていることです [1] 。言いかえれば、権力を制限される側の政府の機関が、その限界を思いのままに変えたり消したりできてはならない、ということです。固定は、書かれた法によることも、習律によることもあります。このうち、憲法の改正に普通の立法より重い手続きを求めて法の形で固定するやり方を、この課では「硬性」と呼びます。硬性は、固定の一つの形です。 なぜ固定が要るのでしょうか。項目は二つの理由を挙げます。一つは、立憲体制が典型的に目指す、時間を通じた安定と予測可能性です。もう一つはより根本的で、固定は制限された政府がそもそも成り立つための条件だ、とも論じられます [1] 。レジーナが、宗教について立法してはならないという制限を、気の向くままに外したり戻したりできるとしたら、彼女が本当にその制限に縛られていると言えるかは疑わしくなります [1] 。 項目によると、多くの成文憲法には改正の規定があり、そ