権力――人を動かす力の三つの顔 — Epoché
基礎 権力と国家 約 26 分 本文 約 11,900 字 図 3・表 2 資料 1 節 この課の要点 決定・議題・望みの 3 つ 決定 争いのある決定で、相手の反対を押し切って勝つ力。ダールが観察の方法を整えた 議題 問題を議題に載せず、争いそのものを表に出さない力。バクラックとバラッツが示した 望み 人の望みや考えを形づくり、不満を感じさせない力。ルークスが示したが、判定が難しい はじめに ニュースで「権力」という言葉を聞くと、首相や大臣、大きな会社の経営者を思い浮かべるかもしれません。けれども身の回りにも、人を動かす力はあふれています。部活の顧問が練習日を決めます。店長がシフトを組みます。学級会では、多数決で文化祭の出し物が決まります。どれも、ある人の意志が、ほかの人の行動を変えています。 では、「あの人には権力がある」と言うとき、私たちは何を見ているのでしょうか。いちばん分かりやすいのは、意見が割れた場面で誰が勝ったかです。採決で案が通った人には力がある、と言えそうです。しかし、そもそも話し合いの場に出てこなかった問題はどうでしょう。会議の議題を決める人は、争わずに望む結果を手に入れられるかもしれません。さらに、人々が不満を感じていないとき、そこに力は働いていないと言い切れるでしょうか。 もう少し身近な場面で考えてみましょう(本教材の作例)。町内会の総会で、夏祭りの予算を増やす案が多数決で通ったとします。記録を見れば、誰が賛成し誰が反対したかは分かります。けれども、ゴミ置き場の場所に不満をもつ住民の声は、その日の議題にはありませんでした。さらに、夜の見回りの当番がいつも同じ家に回ってくることに、当の家の人は「昔からそういうものだ」と不満すら感じていないかもしれません。この三つの場面には、それぞれ違う形の力が隠れています。 政治学は、この問いに一段ずつ答えを広げてきました。1950〜60 年代のアメリカで、ロバート・ダールは「決定の場で勝つ力」を観察で確かめる方法を示しました。これを批判したピーター・バクラックとモートン・バラッツは「議題に載せない力」を加えました。1974 年にはスティーヴン・ルークスが、「人の望みそのものを形づくる力」を三つ目の次元として示しました。この三つは、まとめて「権力の三つの顔」と呼ばれることがあります。 この課程の『原因を確かめる』の課では、主張を比較・事例・データで確かめる方法を学びました。権力の研究も同じ問いに向き合ってきました。目に見えない力があると、どうすれば根拠をもって言えるのでしょうか。この課では、三つの顔を順に見ながら、それぞれが何を見て、何を見落とし、どう確かめるのかを考えます。最後に、日本の国会法の条文を読み、議題に載るまでの関門を自分の目で確かめます。読み終えたとき、ニュースや身近な組織を見て「ここではどの層で力が働いているか」と問えるようになることが、この課の目標です。 この課の問い 「あの人には権力がある」と言うとき、私たちは何を見ているのでしょうか。決定の場で勝つ力だけが権力なのでしょうか。 この課のことば 権力 人に、本人だけならしないことをさせる力。命令や採決だけでなく、話し合いの場の作り方や人の考えにも働く 議題設定 何を話し合い、決める対象にするかを決めること。会議の議事日程を誰が作るか、がその例 非決定 ある問題を決定の場に載せないことで、変化を起こさせないこと。決めないことも結果を生む 利益 その人にとって本当に得になること。本人がいま望んでいることと食い違う場合がある 多元主義 社会の中で多くの集団が力を分け持ち、争点ごとに勝ち負けが変わるという見方 権力とは何か――決定・議題・望みの三つの層 権力は、目に見える命令や採決だけで働くのではありません。何が話し合われるか、人々が何を望むかにも働きます。政治学はこの見方を一段ずつ広げてきました。まず言葉の意味を確かめ、次に三つの顔を順に見ていきます。 「権力」ということば――人を動かす力と、何かができる力 政治学では、権力は中心の言葉なのに、その定義をめぐって深い対立が続いてきました。ルークスやコノリーは、権力を「本質的に争われる概念」、つまり定義そのものが論争の的になる概念だと述べています [1] 。ただし、この見方にも異論があります [1] 。まずは、代表的な定義を二つの系譜に分けて見ておきましょう (図 1) 。 一つ目の系譜は、権力を「他者を動かす力」と考えます。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、権力を、社会関係の中で、抵抗に逆らってでも自分の意志を貫くことのできる見込みと定義しました [1] 。アメリカの政治学者ダールは、これを「直観的な考え」として言い直します。A は、B が本来ならしないことを B にさせられる程度に応じて、B に対して権力をもつ、というものです [1] [2] 。 この定義には二つの特徴があります [1] 。第一に、権力は人と人との関係として捉えられます。力は人の中に貯金のようにあるのではなく、相手との間で働きます。第二に、権力は実際に行使された場面で捉えられます。「本来ならしないこと」をさせたかどうかは、何が起きたかを見て判断することになります。 ここで、「権力をもっている」ことと「権力を使った」ことの違いにも注意しておきましょう。たとえば、ある案を止められる立場の人がいると、周りの人はその人の反対を見越して、初めから案を手直しするかもしれません(本教材の作例)。その人は一度も反対していませんが、結果には影響しています。実際に行使された場面だけを見る定義では、こうした先回りの影響は捉えにくくなります。この点は、後で見るルークスの修正にもつながります。 他者を動かす力 何かができる力 相手が本来しない ことをさせる 何かをなしうる能力 ウェーバーやダール アーレントら 誰が誰に勝つかを 問う 共に行為できるかを 問う 図 1 権力の定義の二つの系譜。他者を動かす力(power-over)と、何かができる力(power-to) 二つ目の系譜は、権力を「何かができる力」と考えます。イングランドの哲学者トマス・ホッブズは、権力を、将来よいと思えるものを手に入れるための現在の手段と述べました [1] 。ハンナ・アーレントは、権力を、単に行為するだけでなく「協力して行為する」人間の能力だとしました [1] 。政治学者ハンナ・ピトキンは、英語の power がフランス語の pouvoir、ラテン語の potere、つまり「できる」と語源でつながることを指摘しています [1] 。 二つの違いは、身近な例で見ると分かりやすくなります(本教材の作例)。部活の顧問が、部員の反対を押し切って練習日を増やしたとします。これは一つ目の「他者を動かす力」です。部員が力を合わせて、一人ではできない文化祭の舞台を作り上げたとします。これは二つ目の「共に何かができる力」です。後者には、誰かが誰かに負けるという面がありません。 政治には、この二つの面がどちらも含まれています(本教材の整理)。選挙や議会の採決では、ある人や党の勝ちが別の人や党の負けになります。他方で、地域の住民が話し合って防災の計画を作り、皆で避難訓練をするとき、そこで生まれるのは誰かを従わせる力ではなく、一緒に何かができる力です。どちらの面に注目するかで、「権力が大きい社会」がよいことなのか悪いことなのかの見え方も変わります。 なぜ定義がこれほど争われるのでしょうか。ルークスは、権力をどう考えるかそのものが、権力関係を支えることも、隠れた仕組みを暴くこともあると論じました [1] 。たとえば権力を「命令して従わせること」だけに限ると、命令のない場面の力は見えなくなります。定義の選び方が、何を問題として見るかを左右するのです。 この課では、主に一つ目の系譜を追います。ダールに始まる論争は、どれも「他者を動かす力」の定義を共有しながら、その力がどこで働くかの範囲を広げてきたからです [1] 。二つ目の系譜は、三つ目の顔のところで再び登場します。 ここで間違えやすい 「権力は悪いもの」「権力は政府だけがもつもの」と決めつけるのは誤りです。定義の上では、家族や学校や職場にも権力の関係はあります。その力が正しく使われているかどうかは、定義とは別の問い(規範の問い)として考えます。 第一の顔――争いのある決定で勝つ力 ダールは 1957 年の論文「権力の概念」で、先の直観的な定義を示しました [2] 。ねらいは、権力を観察と比較で確かめられるものにすることでした。B が A の働きかけがなければ何をしたかと、実際に何をしたかを比べれば、A の力の大きさが分かる、という考え方です。 この考え方を都市の政治に当てはめたのが、1961 年の『誰が統治するのか』です [3] 。ダールはコネティカット州ニューヘイブン市を対象に、公式と非公式の権力の構造を調べました [3] 。問いは、すべての大人が投票できるのに、知識や富や地位などの資源が不平等に分かれている社会で、実際に誰が統治しているのか、というものでした [3] 。 本教材の整理として、第一の顔の調べ方を順に並べると次のようになります。まず、意見の対立がはっきりした争点を選びます。次に、誰がどんな案を出し、誰が反対したかを記録から確かめます。最後に、誰の案が最終的に通ったかを、争点ごとに数えます。ただし、勝った回数をそのまま権力の大きさとみなすことはできません(本教材の整理)。争点の重さや、争いに加わった機会の数が人によって違うからです。比べる争点と機会をそろえたうえで、その人の働きかけがなければ結果が変わっていたかを確かめることが、ダールの定義(本来ならしないことをさせる)に沿った調べ方です。 この方法で町の政治を調べたとします(本教材の作例)。図書館の建て替えでは市民団体の案が通り、道路の整備では商工会の案が通り、学校の統合では保護者の会の案が通ったとしましょう。このように争点ごとに勝者が違えば、一つの集団がすべてを握っているとは言えません。逆に、どの争点でも同じ人々の案ばかりが通るなら、力は一部に集まっていると考えられます。勝ち負けの分布を争点をまたいで比べることで、力が散らばっているか、集まっているかを確かめるわけです。 ダールが描いた像は、多元主義と呼ばれます [3] 。資源は不平等に分かれていても、ただ一つのエリートがすべてを決めているのではありません。多くの集団が競い合い、選挙で選ばれた指導者と有権者がともに統治に関わる、という像です [3] 。ダールは、アメリカの政治は狭い権力エリートが握っているとする社会学者 C・ライト・ミルズの見方と論争しました [3] 。 この方法の強みは、「あの人は実力者らしい」という評判や思い込みではなく、記録で確かめられる点にあります(本教材の整理)。たとえば、市議会で図書館の建て替えと道路の整備のどちらに予算を回すかが争われたとします(本教材の作例)。議事録を読めば、誰が提案し、誰が反対し、どちらの案が採用されたかが分かります。日本の国会でも、両議院は会議の記録を保存し、秘密会の記録のうち特に秘密を要すると認められるものを除いて公表しなければならないと、憲法に定められています [8] 。第一の顔は、こうした記録を手がかりに力の分布を確かめる見方です。 なぜ観察できることにこだわるのでしょうか(本教材の整理)。「本当はあの人が裏で全部決めている」という主張は、記録で確かめる手立てがなければ、正しいとも誤りとも言えません。確かめられない主張は、反論もできません。第一の顔は、権力についての主張を、誰でも同じ記録を見て確かめ直せるものにしようとしました。この姿勢は、三つの顔のどれを使うときにも引き継がれるべき出発点です。 しかし、この方法には盲点もあります。観察できるのは、実際に決定の場に持ち込まれた争点だけです。ある問題が最初から議題に載らなかったなら、そこに対立があっても記録には残りません。勝った回数を数える方法では、戦わずに済んだ人の力は数えられないのです。この盲点を突いたのが、次の第二の顔です。 ここで間違えやすい 第一の顔の研究が「権力は多くの集団に散らばっている」と結論したことを、そのまま事実と受け取るのは早すぎます。その結論は、観察の範囲を「決定の場に出た争点」に限るという方法の選び方とも結びついています。方法が見えるものを決める、という点に注意しましょう。 第二の顔――議題に載せない力 バクラックとバラッツは、1962 年の論文「権力の二つの顔」でダールを批判しました [4] 。ダールの権力概念は、議題を決める力や、提案を止める力を落としている、という批判です [4] 。翌 1963 年の論文「決定と非決定」では、決定されなかったことを分析する枠組みを示しました [5] 。ただし二人も、権力を「他者に対する力」と捉える点ではダールの定義を受け入れていました [1] 。 本教材の言い方でまとめると、第二の顔は「問題を決定の場に載せないことで、変化を起こさせない力」です。理由を順に追ってみましょう。第一に、決定の場で話し合える時間と問題の数には限りがあります。第二に、何を議題に載せるかを決める人は、採決で争う前に、自分に不利な問題を外すことができます。第三に、外された問題には採決がないので、勝ち負けの記録も残りません。こうして、議題を決める側は争わずに勝つことができます (図 2) 。 望みが形づくられる 不満の感じ方が決まる(第三の顔) 不満が声になる 陳情・署名・苦情として表に出る 議題に載る 議題として選ばれる(第二の顔) 決定される どちらかの案が通る(第一の顔) 図 2 不満が生まれてから決定されるまでの道筋と、三つの顔が働く段(本教材の整理) 身近な例を挙げます(本教材の作例)。マンションの管理組合の総会で、議題は理事会が用意します。駐輪場の不足に不満をもつ住民がいても、議題に載らなければ、総会では話し合われません。「その他」の時間に声を上げても、時間切れで次回に回されるかもしれません。誰も反対の票を投じていないのに、変化は起こらないのです。 議題を絞るのは、人の判断だけではありません。手続きのルールや慣行も、何が議題に載りやすいかを左右します。日本の国会では、各議院の議長が議事日程を