8.153 道徳形而上学の基礎づけ — 一文で結論を置き、そこから遡る — Epoché
この篇でできるようになること ★ 一文で結論を置く 書き方が読める。 ★ 消去法 で守る論の運びが追える。 ★ 六十語をこえる文 を、骨から読める。 ★ 訳文であること を意識して読める。 前提 : 8.152 まで。型は 3.48 まで。 読む前に ★ 先に、数を見てください。 ★ 語数は 1491 語なのに、 文は 29 本しかありません 。 ★ 一文の平均は 51.4 語 です。 ★ 読 F でいちばん一文が長い篇 です。★ 六十語をこえる文が 8 本 あります。 ★ 理由が二つあります。 どんな理由か どういうことか ★ 条件をつけ続けるから ★ 「〜でないかぎり」を一文の中で足していく ★ ドイツ語からの訳だから ★ 原文の長い文を、切らずに訳している ★ 読み方は、 3.34 型編 のとおり です——★ セミコロンとコンマで切って、かたまりごとに主語と動詞を探す。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1491 語、文は 29 本、一文の平均は 51.4 語、いちばん長い一文は 135 語です。 ★ good が 22 回 出ます。★ 一つの語のまわりを回り続ける文章 です( 8.138 読編 ・ 8.148 読編 と同じ)。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 世界のうちにも、さらには世界の外にさえも、条件をつけずに善いと呼べるものは、善い意志のほかには何一つ考えられません。知性、機知、判断力、そのほか心の才能は、どのような名で呼ばれるにせよ、また気質の性質としての勇気、決断、忍耐は、疑いなく多くの点で善く、望ましいものです。しかし、これらの自然の賜物も、それを使うべき意志、したがって性格と呼ばれるものをなしている意志が善くなければ、きわめて悪く、害をなすものにもなりえます。運の賜物についても同じです。力、富、名誉、さらには健康、そして幸福と呼ばれる、全般的な安寧と自分の境遇への満足も、善い意志がそれらの心への影響を正し、それとともに行為の原理の全体を正してその目的にかなうようにするのでなければ、高ぶりを、そしてしばしば思い上がりを生みます。純粋で善い意志の特徴を一つも身につけていない者が、切れ目の無い繁栄を享受しているのを見ても、どちらにも偏らない理性的な見物人には、決して快くは感じられません。こうして、善い意志は、幸福に値するということの欠かせない条件をさえなしているように見えるのです。 さらに、この善い意志そのものの役に立ち、そのはたらきを容易にしうる性質の中にも、それ自身のうちに条件をつけない価値を持たず、いつも善い意志を前提としているものがあります。そしてこのことが、私たちがそれらに正しく寄せている尊敬に制限を加え、それらを絶対的に善いものと見なすことを許さないのです。情念や激情のほどよさ、自制、落ち着いた熟慮は、多くの点で善いだけでなく、その人のそのもの自身の値打ちの一部をなしているようにさえ見えます。しかし、古代の人びとがそれらを条件をつけずにあれほど讃えたにもかかわらず、それらは条件をつけずに善いと呼ばれるにふさわしいとはとても言えません。というのも、善い意志の原理が無ければ、それらはきわめて悪いものになりうるからです。悪者の冷静さは、彼をはるかに危険にするだけでなく、それが無かった場合よりも、私たちの目に彼をじかにいっそう忌まわしく見せるのです。 善い意志が善いのは、それが成し遂げることや引き起こすことによるのでもなく、何か目指された目的に届くのにふさわしいことによるのでもなく、ただ意志することそのものによるのです。つまり、それはそれ自身において善いのであり、それ自身として見れば、それによって何かの心の傾きのために、いや、すべての心の傾きの総計のためにさえ、もたらされうるどんなものよりも、はるかに高く重んじられるべきものです。たとえ、運にとりわけうとまれたために、あるいは継母のような自然の出し惜しみする備えのために、この意志がその目的を果たす力をまったく欠いていたとしても、たとえ最大の努力をしても何一つ成し遂げられなかったとしても、そして善い意志だけが残ったとしても(もちろん、ただの願いではなく、私たちの力の及ぶかぎりのあらゆる手段を呼び集めることとしての意志ですが)、それはそれでもなお、宝石のように、それ自身の光で輝くでしょう。その価値のすべてをそれ自身のうちに持つものとして。役に立つか実りが無いかは、この価値に何も足すことも、何も引くこともできません。それはいわば、ふだんの商いの中で私たちがそれをより都合よく扱えるようにするための台座、あるいはまだ目利きでない人たちの注意をそれに引きつけるための台座にすぎず、本当の目利きの人びとにそれを推薦したり、その価値を定めたりするためのものではないでしょう。 しかしながら、その有用性をまったく考えに入れない、ただの意志の絶対的な価値というこの考えには、とても奇妙なところがあります。そのため、普通の理性でさえこの考えに心から同意しているにもかかわらず、それはひょっとすると実はただの高く舞い上がった空想の産物にすぎないのではないか、そして自然が理性を私たちの意志の統治者として割り当てたことの目的を、私たちは取り違えているのではないか、という疑いが起こらずにはいません。そこで私たちは、この観点からこの考えを吟味することにしましょう。 有機的な存在、つまり生命の目的にふさわしく適応した存在の、物理的なつくりにおいては、何かの目的のためのどの器官も、その目的に最もふさわしく、最もよく適応したもの以外には見いだされない、ということを私たちは根本の原理として前提します。さて、理性と意志を持つ存在において、もし自然の本来の目的がその存在の保存、その安寧、一言で言えばその幸福であったとしたら、自然はこの目的を果たすためにその被造物の理性を選んだことで、たいへんまずい取り決めをしてしまったことになるでしょう。というのも、その被造物がこの目的を目指して行わなければならないすべての行為と、その振る舞いの規則の全体は、本能によってはるかに確実に定められていたでしょうし、その目的も、理性によって果たされうるよりもはるかに確実に、本能によって果たされていたでしょうから。もしこの恵まれた被造物に、そのうえさらに理性が分け与えられていたとしても、それはただ、自分の本性の幸せなつくりをじっと見つめて考え、それを讃え、そのことで自分を祝い、それをよいことをしてくれる原因に感謝するためだけに役立ったはずであり、その欲求を、あの弱く人をまどわす導きに従わせ、自然の目的に下手によけいな口を出すためではなかったはずです。一言で言えば、自然は、理性が実践的なはたらきへと踏み出さないように、また、その弱い見識でもって、幸福の計画とそれを得る手段とを自分で考え出すという思い上がりを持たないように、気を配っていたことでしょう。自然は、目的の選択だけでなく手段の選択をも自ら引き受け、先を見通す賢い力をもって、その両方を本能に任せていたことでしょう。 そして実際、教養を積んだ理性が、人生の楽しみと幸福とに意図して身を向ければ向けるほど、その人は本当の満足から遠ざかることを、私たちは見いだします。そしてこの事情から、多くの人びとのうちに、率直に白状するならば、ある程度のミソロジー、つまり理性への憎しみが生じます。とりわけ理性を使うことに最も経験を積んだ人たちの場合にそうです。というのも、彼らは、ふだんのぜいたくのためのあらゆる技術の発明から、とは言わないまでも、学問から(学問も彼らには、結局は知性のぜいたくにすぎないように見えるのですが)、自分たちが得ているあらゆる利点を計算してみたあとで、実際には幸福を得たというより、むしろ自分の肩により多くの苦労を背負いこんだだけだと分かるからです。そして彼らは最後には、ただの本能の導きにより近く従い、自分の理性に振る舞いへの大きな影響を許さない、より平凡な型の人びとを、さげすむよりもむしろねたむようになるのです。そして私たちは次のことを認めなければなりません。理性が人生の幸福と満足に関して私たちに与えてくれる利点についての高々とした讃辞を、大いに引き下げようとする人たち、あるいはゼロ以下にまで引き下げようとさえする人たちの判断は、決してむっつりとしたものでも、世界を治めている善意に対して恩を知らないものでもありません。そうではなく、こうした判断の根には、私たちの存在には別の、はるかに高貴な目的があるという考えがあるのです。理性は本来、幸福のためではなくその目的のために意図されているのであり、したがってその目的は、人間の私的な目的がたいていの場合それへと後回しにされなければならない、最高の条件と見なされなければならないのです。 というのも、理性は、意志をその対象に関して、また私たちのあらゆる必要(理性はそれをある程度増やしさえするのですが)を満たすことに関して、確実に導く力を持っておらず、しかもこれは、植えつけられた本能のほうがはるかに確実に導いたであろう目的です。それにもかかわらず、理性は実践的な能力として、つまり意志に影響を持つべき能力として、私たちに分け与えられています。それゆえ、自然が一般にその能力を配分するにあたって手段を目的に適合させてきたと認めるならば、理性の本当の使命は、何か別のものへの手段として善いだけの意志ではなく、それ自身において善い意志を生み出すことでなければなりません。そのためにこそ、理性は絶対に必要だったのです。そうであれば、この意志は、たしかにただ一つの完全な善ではないにしても、最高の善であり、ほかのあらゆる善の、さらには幸福への欲求の条件でなければなりません。このような事情のもとでは、第一の、条件のない目的のために欠かせない理性の陶冶が、少なくともこの世においては、いつも条件つきである第二の目的、つまり幸福に到達することを、多くの点で妨げるということには、自然の知恵と矛盾するところは何もありません。いや、それは、自然がそれによってその目的を果たしそこなうことなしに、幸福をゼロにまで減らすことさえありうるのです。というのも、理性は善い意志を打ち立てることを自分の最高の実践的な使命と認めており、この目的に届くにあたっては、それ自身に固有の種類の満足、つまり、これもまた理性だけによって定められた目的に到達することから来る満足しか得られないからです。たとえそれが、心の傾きの目的にとっては多くの失望を伴うことになるとしても。 語釈 帯の外の語は 92 語です。★ qualification (条件・限定)・ volition (意志すること)・ intrinsic (それ自体の)が要 です。★ とくに without qualification は、 この篇の鍵 ——★ 「 条件をつけずに 」という意味 です。 語(品詞) 意味 注 abominable en 形 いとわしい The old judge called the crime abominable and showed no mercy. その老いた裁判官は、その犯罪をいとわしいと呼び、何の慈悲も示しませんでした。 adorned en 動 飾った The bride adorned her hair with fresh flowers from the garden. その花嫁は、庭から摘んだ新鮮な花で髪を飾りました。 affections en 名 感情(複数) Her affections for the old dog never seemed to fade. その老犬への彼女の愛情は、決して薄れないように見えました。 aptness en 名 ふさわしさ The council praised the clerk's aptness for solving difficult disputes. 評議会は、難しい争いを解決するその書記官のふさわしさをほめました。 assent en 名 同意 The council gave its assent to the new road plan quickly. 評議会は、その新しい道路計画に速やかに同意を与えました。 attained en 動 achieve の意。届いた・達した After years of practice, she finally attained real skill with the bow. 何年もの練習のあと、彼女はついに弓での本当の技量に届きました。 attaining en 動 届くこと Attaining such trust took the young merchant more than a decade. そのような信頼に届くことには、その若い商人に十年以上かかりました。 attainment en 名 達成 The old scholar treated every attainment with quiet modesty. その老学者は、あらゆる身につけることを静かな謙虚さで扱いました。 beneficent en 形 よいことをする The beneficent old landlord never once raised the rent on the poorest tenants. そのよいことをする老いた地主は、最も貧しい借家人たちの家賃を一度も上げませんでした。 bunglingly en 副 下手に The nervous apprentice repaired the clock bunglingly and made it worse. その緊張した見習いは、その時計を下手に修理し、かえって悪化させました。 candid en 形 率直な Her candid answer surprised the council more than any excuse would have. 彼女の率直な答えは、どんな言い訳よりも評議会を驚かせました。 certainty en 名 確かさ No one could speak with certainty about when the ship would ret