セクストス・エンペイリコス――判断を保留すると心が静まる(ピュロン主義の懐疑) — Epoché
古代 ヘレニズムとローマの哲学 約 16 分 本文 約 6,700 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 方法・結果・生き方の 3 つ 方法 懐疑とは、教えの集まりではなく一つの能力である。どんな事柄にも、同じだけ説得力のある反対の言い分を立てる。言い分の力が等しくなると、まず判断を保留する(PH I 8–10)。 結果 懐疑家は、真偽を決めて心を落ち着けようとして調べ始めた(PH I 12)。決められずに保留すると、思いがけず平静が付いてきた。影が体に付いてくるように、とセクストスは言う(PH I 26–29)。 生き方 懐疑家は「蜂蜜は甘く感じられる」という現れは否定しない。保留するのは「蜂蜜は本性上甘いか」という見えない事柄である。暮らしは、自然・感じの強制・慣習と法・技術の四つの導きに従う(PH I 13, 19–20, 24)。懐疑家がどこまで信念を持つかは、今も解釈が分かれる。 はじめに セクストス・エンペイリコスは、古代の懐疑を今に伝える、いちばん大事な書き手です。ただ、本人のことはほとんど分かりません。生きたのはおそらく 2〜3 世紀で、どこで暮らしたかも分かっていません [1] 。「エンペイリコス(経験派の)」という呼び名は、医学の経験派に属したことから来ています [1] 。 本は残りました。なかでも『ピュロン主義の概要』は、ピュロン派の懐疑を最も詳しく伝える本です。その第 1 巻は、懐疑とは何かと、ほかの学派との違いをまとめます [1] 。派の名は、前 4〜3 世紀のエリスのピュロンにちなみます。ピュロンは哲学の著作を残しませんでした [3] 。 この編でここまで読んだ人々は、みな心の平静を求めていました。エピクロスは空しい恐れと欲求を捨てることに、ストア派は判断を正すことに、その道を見ました。どちらも、正しい答えを持てば心は落ち着く、と考えました。セクストスの伝えるピュロン派は逆の道をたどり、答えを決めないことが心の静けさにつながると言います。 この課の問い 前の課のエピクテトスは、心に来た印象を吟味し、正しいものにだけ同意せよと説きました。では、どちらの言い分にも同じだけの理由があって、どちらが正しいか決められないときは、どうすればよいのでしょうか。決めないまま、心は落ち着けるのでしょうか。 この課のことば 懐疑(スケプシス) もとは「よく見て調べること」。懐疑家(スケプティコス)は「調べる人」という意味で、何もかも疑って否定する人のことではありません(PH I 7)。 独断派(ドグマティコイ) 調べた末に「答えを見つけた」と考え、それを主張する人々です(PH I 3)。 力の等しさ(イソステネイア) 対立する二つの言い分のどちらも、もう一方より信じやすいとは言えない状態です(PH I 10)。 判断保留(エポケー) 思考が立ち止まって、何かを否定もしなければ肯定もしない状態です(PH I 10)。 平静(アタラクシア) 心が乱されず、凪いでいること。語の形は「乱れ(タラケー)が無いこと」です(PH I 10)。 現れ(ファイノメノン) 物事がこちらに「こう見える・こう感じられる」という姿。懐疑家はこれを否定せず、それに従って暮らします(PH I 19)。 判断保留――決めないことで、なぜ心が静まるのか 懐疑家と聞くと、何でも疑ってかかる人を思い浮かべるかもしれません。セクストスの描く懐疑家は少し違います。答えを見つけたとも、見つけられないとも言わず、調べ続ける人です。その人がなぜ心の静けさに行き着くのかを、三つの節で追います。 反対の言い分を立てる技――懐疑は教えでなく能力 セクストスは、ものを調べる人の行き先を三つに分けます (表 1) 。答えを見つけたと考える人々を、彼は独断派と呼びます。答えは見つけられないと言い切るのは、アカデメイア派です。そしてピュロン派は、調べ続けます(PH I 3) [1] 。懐疑家という名もここから来ます。ギリシア語で「調べる」はスケプテスタイといい、スケプティコスは「調べる人」という意味です(PH I 7) [1] 。 この表で分かること: セクストスは、調べる人を探究の行き先で三つに分けます。ピュロン派だけが「見つけた」とも「見つけられない」とも言い切らず、調べ続けます。 派 探究の行き先 言い切ること 名や描き方について 独断派 見つけたと考える 答えを主張する 答えを持つ多くの学派 アカデメイア派 見つけられないと考える 見つけられないと主張する 描き方はセクストスによる ピュロン派 調べ続ける どちらも言い切らない 「調べる人」(PH I 7) 表 1 PH I 3 の三つの行き先 [1] 。右の列の言い方は本教材によります。 調べ続けている人は、答えの集まりを持ちません。プラトン派は「真にあるのはイデアだ」と考え、アリストテレス派は「魂は生きた体の現実態だ」と考えます。そう考えることが、その派に属することでした。懐疑家はまだ調べている途中なので、そうした考えの集まりを持ちません。そこでセクストスは、懐疑を教えではなく一つの能力だと言います(PH I 8) [1] 。どんな事柄にも、それと対立する言い分を立てる力です。 対立は、感覚に現れるもの同士、考えられるもの同士、そして現れるものと考えられるものの間で立てます(PH I 9) [2] 。たとえば同じ蜂蜜が、ある人には甘く、黄疸の人には苦く感じられます。同じ塔が、遠くからは丸く、近くでは四角く見えます(PH I 101・118) [2] 。どちらもセクストス自身が挙げる例です (図 1) 。こうした例を集めた型が「十の方式」です。セクストスはこれを名を挙げない「古い懐疑家たち」のものとし(PH I 36)、別の著作ではアイネシデモス(前 1 世紀)に帰しています(M VII 345) [1] 。 同じ蜂蜜が、甘くも苦くも 私には甘く、黄疸の人には苦い 甘い 苦い 蜂蜜 同じ蜂蜜 健康な人 黄疸の人 甘い 苦い 釣り合う 同じ塔が、丸くも四角くも 遠くからは丸く、近くでは四角い 遠く 同じ塔 近く 旅人 丸い 四角い 釣り合う 場面は本教材の作例 図 1 同じものが、見る人や見る所によって違って現れる例です(本教材の絵)。一つ目の絵は蜂蜜、二つ目の絵は塔で、例はセクストスのもの、食卓と旅人の場面は本教材の作例です。どちらの現れも現にそう感じられているので天秤は釣り合い、本性については判断を保留します。 対立させた言い分のどちらも、もう一方より信じやすいとは言えないとき、両者の力は等しいと言います(PH I 10) [1] 。そうなると思考は立ち止まり、否定も肯定もしなくなります。これが判断保留です。大事なのは、保留が「考えたことがない」とは違うことです。一度も考えたことのない問いについては、誰でも肯定も否定もしていません。懐疑家の保留は、両方の側の言い分を集めて量り、釣り合ったところで立ち止まることです [1] 。 ここで間違えやすい 懐疑家を「何も分からない」と言い切る人だと取らないようにしましょう。答えは見つけられないと主張するのは、セクストスの分け方ではアカデメイア派で、ピュロン派とは別の型です(PH I 3)。ピュロン派は「分からない」とも言い切らずに、調べ続けます。ただし、このアカデメイア派の描き方がどこまで正確かには議論があります [1] 。 平静は影のように――求めずに得られる静けさ 懐疑はどこから始まったのでしょうか。セクストスは、その原因を、平静を得たいという望みだと言います(PH I 12) [2] 。才のある人々は、物事の食い違いに乱され、どちらに同意すべきか迷いました。セクストスが第 3 巻で別の話題に挙げる例を借りれば、私たちのもとでは入れ墨は恥とされますが、エジプト人やサルマタイ人の多くは赤子に入れ墨をします(PH III 202) [1] 。これを前にすると、入れ墨は悪いとも良いとも思えてきます。人々は、何が真で何が偽かを決めれば心が落ち着くと考えて、調べ始めたのです。 ところが、答えは見つかりませんでした。懐疑の能力を持つ人は、どの言い分にも、等しい力の言い分を立てられるからです。懐疑家は決められずに判断を保留しました。すると、さらに乱れるどころか、思いがけず平静が付いてきました(PH I 26・29) [1] 。セクストスはこの思いがけなさを、画家アペレスの話で示します (図 2) 。アペレスは馬の口の泡をどうしても描けず、あきらめて、筆の絵の具をぬぐっていた海綿を絵に投げつけました。すると当たった跡が、泡の姿になったというのです(PH I 28) [1] 。 泡がどうしても描けない 塗り直した口 海綿 アペレス 狙って描こうとすると描けない 投げた海綿が泡を描いた 泡になった ! アペレス 影が体に付いてくるように 図 2 アペレスの話を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目の絵では、狙っても馬の口の泡が描けません。二つ目の絵では、あきらめて投げつけた海綿が泡を描きます。平静もこのように、狙って得るのでなく、判断保留に影のように付いてきます(PH I 28–29)。話はセクストスが伝えるものです。 セクストスはもっと短く、平静は判断保留に「影が体に付いてくるように」付いてくる、とも言います(PH I 29) [1] 。同じ像は、ディオゲネス・ラエルティオスの伝えにも見えます。影は確かに体に付いてきますが、私たちは影を狙って歩くわけではありません。ストライカーは、この像から「懐疑の平静は、それを目指さない場合にだけ得られる」という教えを読み取りました [1] 。 では、懐疑家の目的は何でしょうか。セクストスは、考えの上の事柄では平静、避けられない事柄では感じ方がほどよいこと、と言います(PH I 25、再び I 30) [2] 。飢えや渇きは、人である限り避けられません。懐疑家が捨てるのは、それが「本性上悪いものだ」という付け足しの考えです。そのぶん、乱れは軽くなります(PH I 30) [1] 。 ここで間違えやすい 「判断を保留すれば、どんな苦しみも消える」と取らないようにしましょう。飢えや痛みは残り、そこで目指すのは感じ方がほどよいことです。また、この約束には昔から批判があります。ストライカーは、人生の目的についても保留するはずの懐疑家が平静を目的と言うのは食い違いだと論じました。バーニエトは、何の信念も持たない懐疑家に平静は来ないと論じました [1] 。 現れに従って生きる――懐疑家は何も信じないのか 懐疑には、昔から決まった非難があります。すべてに判断を保留したら、食べることも、迫ってくる荷車をよけることもできず、人として暮らせないのではないか、というものです [1] 。 セクストスの答えは、現れと見えない事柄を分けることです。懐疑家は、体が温められたり冷やされたりすれば、「温まっていないと思う」とは言いません。現れによって否応なく生じる感じには同意します。同意しないのは、学問で調べられている見えない事柄です(PH I 13) [1] 。蜂蜜が自分に甘く感じられることは認めます。保留するのは、蜂蜜がその本性において甘いかどうかです(PH I 19–20) [1] (図 3) 。 蜂蜜が甘く感じられる この現れは否定しない(PH I 13・19–20) 現れは受け入れる 自然・感じ・慣習と 法・技術の四つの 導きに従って暮らす 本性は保留する 本性上甘いかは、 両説が釣り合うので 決めない 図 3 懐疑家が受け入れるものと保留するもの(本教材の整理)。左の道は現れと四つの導きに従う暮らし、右の道は見えない事柄についての保留です。現れへの同意まで捨てるのではありません。懐疑家が普通の信念を持つかどうかは、解釈が分かれます [1] 。 では、何を頼りに暮らすのでしょうか。セクストスは、現れに従い、四つの導きに沿って暮らすと言います [1] 。自然の導きによって、感じ、考えることができます。感じの強制によって、飢えれば食べ物へ、渇けば飲み物へ向かいます。慣習と法の伝えによって、日々の暮らしの上で、敬虔を善いもの、不敬を悪いものと受け入れます。技術の教えによって、受け入れた技の中で働きます(PH I 24) [1] 。 ただし、懐疑家がどこまで「信じている」と言えるかは、今も解釈が分かれています。フレーデは、懐疑家も日々の暮らしに足りる普通の信念を持ち、捨てるのは論証で支えた学問の信念だけだと読みました。バーンズとバーニエトは、懐疑家は信念を一切持たず、自分にどう見えるかを述べるだけだと読みます。ファインとペリンは、懐疑家も「自分にはそう見える」という信念は持つと読みます [1] 。本教材の作例で考えましょう。懐疑家が夏の午後に井戸の水を飲みます。「この水は冷たく感じられる」とは言い、渇いているので飲みます。しかし「冷たさは水そのものにあるのか」と問われれば、保留します。 ここで間違えやすい 懐疑家を、何も信じずに立ち尽くす人や、慣習に盲従する人だと決めつけないようにしましょう。懐疑家は、現れへの同意まで捨てるのではありません。慣習や法に沿うのも日々の暮らしの上でのことで、それが本性上正しいと主張するのではありません(PH I 24)。どこまでを「信念」と呼ぶかは、上の読み方のどれを採るかで変わります [1] 。 原典を読む 第 1 章で見た懐疑の定義と始まりを、原文から本教材が訳して読みます。 セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義の概要』I.8・I.10・I.12 まず判断保留に、そのあと平静に I.8 と I.10 は定義、I.12 は懐疑の始まりの話です。間の文は省きました。 1 懐疑とは、現れるものと考えられるものとを、どんな仕方であれ対立させる能力である。 2 この能力によって私たちは、対立する事柄と言い分とが同じ力を持つために、まず判断保留に至り、そのあとで平静に至る。 3 判断保留とは思考の立ち止まりであり、そのために私たちは、何かを退けることも立てることもしない。 4 平静とは、魂が煩わされず、凪いでいることである。 5 懐疑の始まりの原因は、平静になれるという望みである、と私たちは言う。 6 才に恵まれた人々は、物事の食い違いに乱され、そのどれにいっそう同意すべきか迷って、物事において何