革命――体制はなぜ倒れるのか — Epoché
制度と行動 政治体制の比較 約 31 分 本文 約 14,000 字 図 4・表 2 資料 2 節 この課の要点 定義・説明・予測の 3 つ 定義 革命は憲法の外の手段で政府を退け、別の政府に置き換えようとする試みです。社会革命は社会と政治の制度を根本から変え、下からの階級の反乱を伴います 説明 不満の高まり(トクヴィルの観察・相対的剥奪)で説明する見方と、国家の行政と軍の崩れ(スコチポル)で説明する見方があります 予測 人々が本心を隠すので、崩れは前もって見えにくいとクランは論じました。非暴力の運動の成功の割合は、暴力の運動より高く記録されています はじめに 長く続いた政権が、数週間のうちに崩れることがあります。1989 年の秋には、東ヨーロッパの共産党の体制が次々に倒れました。ティムール・クランは、この出来事が指導者にも、参加者にも、外から見ていた人々にも驚きだったことから論じ始めています [5] 。後から振り返ると理由はいくつも挙げられるのに、なぜ前もっては分からなかったのでしょうか。日本でも 1960 年には、日米安全保障条約の改定をめぐって、国民を巻き込んだ空前の反対運動が国会の外で起こりました [8] 。それでも体制が倒れたわけではありません。大きな運動が起きても体制が倒れるとは限らず、逆に、直前まで揺るがないように見えた体制が急に崩れることもあるのです。 この課程の『権威主義体制』の課では、憲法によらずに職を失った独裁の指導者の多くが、民衆の蜂起よりも体制の内側の人々に退けられていたことを見ました。この課はその裏側を扱います。外の人々の運動や国家そのものの崩れによって、体制が短い間に倒れるのは、どんなときでしょうか。 答えは大きく二つの方向に分かれます。一つは、人々の不満がどう高まるかに注目する見方です。19 世紀のフランスの思想家トクヴィルは、フランス革命の前の数十年が実は繁栄の時代だったことに目を留めました [3] 。もう一つは、国家の行政と軍がどう崩れるかに注目する見方です。アメリカの研究者シーダ・スコチポルは、不満はどこにでもあるので、それだけでは革命の起きた国と起きなかった国を分けられないと考えました [2] 。 なぜこの問いが大切なのでしょうか。スコチポルは、フランス・ロシア・中国の大きな革命は数こそ少ないものの、人類の大多数の運命を形づくってきたと述べています [2] 。また、革命をめぐっては「革命は正当化されるか」という規範の問いもあり、SEP の項目はむしろそちらを中心に論じています [1] 。この課が扱うのは、その手前にある実証の問い、つまり「体制はどんなときに、なぜ倒れるのか」です。正しいかどうかの判断と、起きるかどうかの説明とを分けて読むことが、この課を通しての注意点になります。 この課では、まず革命という言葉の意味を、似た言葉と区別して確かめます。次に二つの見方を順に見て、最後に、革命がなぜ予測しにくいのか、武器を使わない運動はどのくらい目的を達してきたのかを、記録の数で確かめます。日本の明治維新と 1960 年の安保条約の改定をめぐる運動も、それぞれの見方に当てはめてみます。 この課の問い 体制はどんなときに倒れるのでしょうか。人々の不満が高まったときでしょうか、それとも国家の行政と軍が先に崩れたときでしょうか。 この課のことば 革命 憲法の定める手続きの外の手段で、今の政府の権威を退け、別の政府に置き換えようとすること。選挙で政権が代わるのは革命ではありません 社会革命 スコチポルの用語。社会と政治の制度が急速に根本から変わり、それが下からの階級の反乱を伴い、一部はその反乱によって進む革命。フランス革命が典型です 相対的剥奪 自分が得るべきだと思う水準と、実際に得ている水準の間に人が感じるずれ。豊かになっても、期待がもっと速く上がれば感じられます 選好の偽装 本心では体制に反対なのに、人前では支持しているようにふるまうこと。クランの考えを指す名前として使われます 市民的抵抗 相手の体や命を傷つけたり、そうすると脅したりせずに、デモ・ボイコット・ストライキ・座り込み・法への不服従などで要求を実現しようとする運動。暴力による抵抗と対にして比べられます 体制の崩壊――不満か、国家の崩れか この章では、革命の定義を確かめてから、二つの説明を順に検討します。不満から説明する見方は「なぜ人々は立ち上がるのか」に、国家の崩れから説明する見方は「なぜ体制は抑えられなくなるのか」に答えようとします。最後の節では、どちらの見方でも前もって言い当てにくいのはなぜか、という問いを扱います。 革命とは何か――反乱・クーデタ・社会革命 スタンフォード哲学百科事典(SEP)の「革命」の項目は、政府の権威を憲法の外で退ける行為を表す言葉として、抵抗・反乱・分離・革命を区別しています [1] 。抵抗は、特定の法に従わないなど、政府の一部の働きだけを妨げるものでもかまいません。反乱は、政府の権威を丸ごと退けることです。革命はこれに加えて、退けた政府の代わりに別の政府を立てようとします。つまり革命には、今の政府の権威を退けることと、別の政府に置き換えようとすることの二つの要素があります。どちらも憲法の外の力ずくの手段で行われる、というのが一般的な理解だと SEP は説明します [1] 。 政府の権威を憲法の外で退ける 全体を退けるものも、一部だけの ものもある 抵抗 最も広い言葉。一部の法や政策だけを 拒むものも含む 反乱 政府の権威を丸ごと退ける 反乱のうち 分離 領土の一部を切り離そうとする 反乱のうち 革命 退けた政府を、全土で別の政府に 置き換えようとする 図 1 政府の権威を憲法の外で退ける行為の区別(SEP の整理による [1] )。抵抗は最も広い言葉で、一部の法や政策だけを拒むものも含みます。分離と革命は、権威を丸ごと退ける反乱のうちの二つの形です。スコチポルの社会革命は、革命の中でも構造の根本の変化と下からの階級の反乱を伴うものに限った、さらに狭い定義です。 ここでの「憲法」は、成文の憲法典だけを指すのではありません。集団で決めるための基本のルールについて、十分な数の人々が協調していれば、憲法があるとみなします [1] 。そのため、軍の指導者たちが役割の分け方を取り決めた軍事政権も、この意味での憲法を持ちます。それを倒そうとする民衆の武装蜂起は、革命に数えられます。 もっとも、実際の政治の言葉は、こうした区別どおりには使われません。SEP によれば、合衆国政府は南部諸州の離脱を「反乱」と呼びましたが、南部の側の多くの人はそれを「第二のアメリカ革命」と呼びました。アルジェリアのフランスからの分離も「アルジェリア革命」と呼ばれることが多く、植民地の解放の戦争が分離の紛争と呼ばれることはまれです [1] 。言葉の選び方そのものに、その出来事を正しいと見るかどうかの評価が入りやすいのです。 SEP は、より強い意味の使い方もあると述べます。政府を置き換えるだけでなく、政府の型そのものを根本から変える場合です [1] 。この違いは、アメリカ独立をめぐる論争に表れます。左派の論者の一部は、独立は資本を持つ階級の国家の新しい形を作っただけなので革命ではないと主張しました。多くのアメリカの歴史家は、君主制を共和制に替えたのだから強い意味でも革命だと結論しています [1] 。同じ出来事でも、どの意味で使うかによって答えが変わるのです。 さらに狭く定義したのがスコチポルです。スコチポルは 1976 年の論文で、社会革命を、社会経済と政治の制度の急速で根本的な変化と特徴づけました。それは下からの階級の激変を伴い、一部はその激変によって成し遂げられます [2] 。この組み合わせが、社会革命をクーデタ・反乱・政治革命・民族の独立運動から分けると言います。このように狭く定義すると、成功した社会革命はごくわずかしかありません。スコチポルが最もはっきりした例として挙げるのは、1789 年のフランス、1917 年のロシア、1911〜49 年の中国の三つです [2] 。 暴力と非暴力の区別も、見た目ほどはっきりしません。SEP は、ゼネストや送電網を止めること、主な交通路を塞ぐことは、銃を撃つような暴力とは違うが、死に至る害をもたらすこともあると指摘しています [1] 。このため、ある運動を「暴力」「非暴力」のどちらに数えるかには、判断が入ります。この点は、最後の節で記録の数を読むときに大切になります。 ここで間違えやすい 大きな変化なら何でも「革命」と呼ぶと、クーデタ(軍人など国家の内側の勢力が、憲法の手続きを外れて権力を奪うこと)や、憲法の手続きに沿った大きな改革と区別できなくなります。研究者は、憲法の外か、何を置き換えるのか、下からの反乱を伴うのかを分けて使っています。 不満から説明する――よくなるときに倒れる 体制が倒れるのは、暮らしが悪くなり続けて我慢の限界を超えたときだ、と考えるのが自然かもしれません。トクヴィルは『旧体制と大革命』(1856)で、フランス革命についてこの見方に疑問を投げかけました。第 3 編第 4 章の題は、ルイ 16 世の治世が旧王政で最も繁栄した時代であり、その繁栄そのものが革命を早めた、というものです [3] 。 トクヴィルは、革命の 30〜40 年ほど前から社会のあちこちで動きが目立ち始め、革命の前の 20 年ほど繁栄が速く進んだ時期は、革命の後のどの時代にもないと述べます [3] 。税の取り立ては法の上では以前と同じく厳しいままでしたが、実際の運用は和らぎ、貧しい人への救済も増えました。それでも、繁栄が進むにつれて人々の気分は落ち着かなくなり、古い制度への憎しみが強まった、とトクヴィルは書きます [3] 。これはトクヴィルが行政の文書を読んで下した判断で、今日の統計で測ったものではありません。 トクヴィルは地域の違いにも目を向けました。パリに近いイル=ド=フランスでは、旧体制が最も早く、最も深く改革されていました。人に課す賦役は 1789 年よりずっと前に消え、税の割り当ても他の地方より規則正しく穏やかになっていました。革命の主な中心になったのは、まさにこうした進歩の目立つ地方だった、とトクヴィルは書きます。逆に、旧体制が最もよく残っていたロワール川の河口やポワトゥー、ブルターニュでは内戦が起き、革命に最も激しく、最も長く抵抗しました [3] 。トクヴィルはここから、悪い政府にとって最も危うい時は改革を始める時だ、という一般化を引き出します。その一節は「資料で確かめる」で原文から読みます。 荷が重いとき 重い負担 重い荷を黙って運ぶ 荷が軽くなったとき 降ろされた荷 一つ減ると、残りが耐えがたい 図 2 荷が軽くなったとたんに、残りが耐えがたくなる(本教材のたとえで、トクヴィル本人の絵ではありません)。上の絵では重い荷を黙って運んでいます。下の絵では荷の一つを降ろしてもらったとたん、残りの荷を投げ捨てています。トクヴィルは、重い法を耐えてきた民が、重みが軽くなるとそれを激しく投げ捨てることが最もよく起こる、と書きました [3] 。 20 世紀の社会科学は、この観察を「上がる期待」の理論として形にしました。社会科学の百科事典によると、ジェームズ・デイヴィスは 1969 年の論文で、フランス・アメリカ・ロシア・メキシコの革命などを例に、J 曲線の仮説を示しました [4] 。期待と、その期待が満たされる度合いが長い間ともに上がった後に下降が来ると、満たされ方は下がるのに期待は上がり続けます。その隔たりが耐えがたくなると、約束を果たさない体制への反乱の舞台が整う、という仮説です。関連する概念が相対的剥奪で、人々が得るべきだと思うものと実際に得るものとの、感じられたずれを指します。この概念は、テッド・ガーの 1970 年の研究をはじめとする多くの研究を動かしました [4] 。 ただし、この説明には強い批判があります。剥奪は一人ひとりの感じ方なので、確かめるには人々に直接たずねる調査が要ります。調査の資料を集めた研究では、関係が予想より弱いことが多かったと百科事典は整理しています [4] 。また、一人ひとりの不満が、どのようにして集団の行動になるのかが説明されないままでした。クランも、相対的剥奪の理論に反する多くの証拠があると注で述べています [5] 。こうして 1990 年代からは、国家の制度の作りと強さ、不満を持つ人々を動員する力、不公正の感じ方を集団の行動へ導く文化の過程へと、研究の焦点が移りました [4] 。 ここで間違えやすい トクヴィルの観察は「改革を始めると体制は危うくなりやすい」という実証の命題です。「だから改革はすべきでない」という規範の主張ではありません。また「ほとんどいつも」「ふつう」という限定が付いており、改革すれば必ず倒れるとも言っていません。 国家の崩れから説明する――スコチポルの構造論 スコチポルは、不満を出発点にする説明とは逆の方向から問いを立てました。近代化を迫られた農業社会の国家は、どこでも不満を持つ農民を抱え、外国の近代化の挑戦にさらされていました。それなのに、社会革命に屈したのはわずかな国だけです。なぜでしょうか [2] 。スコチポルは、答えの大きな部分は「抑圧ではなく弱さが革命を生む」という洞察にある、と別の著者の言葉を引いて述べます [2] 。 スコチポルが分析したのは「農業官僚制」と呼ぶ型の社会です。半ば官僚化した国家と、土地を持つ上層の階級とが手分けして、農民の多数を治める社会のことです [2] 。こうした国家は、より豊かな外国との軍事競争の圧力を受けると、税を増やし軍を強くする改革を迫られます。しかし多くの改革は、国家の支えである土地の上層階級の利益を侵すので、抵抗を受けました。フランスの王政は、外国との戦いに加えて、税制の合理化に抵抗する国内の特権層との「第三の前線」でも戦わねばならなかった、とスコチポルは書いています [2] 。 スコチポルによれば、フランス・ロシア・中国の社会革命は、三つの出来事が重なったものでした。第一に中央の行政と軍の崩壊か無力化、第二に広い範囲の農民反乱、第三に周縁のエリートの政治運動です [2] 。そして行政と軍の無力化は、大衆の不満と動員からは説明しにくいと論じました。外国か