社会契約――国家はなぜ正当化されるのか — Epoché
基礎 権力と国家 約 32 分 本文 約 14,400 字 図 4・表 2 資料 3 節 この課の要点 問い・二つの答え・争点の 3 つ 問い 国家が命じ、従わない人を罰する力は、なぜ正当なのか。社会契約説は、国家のない「自然状態」を想像して、この問いを人々の合意から考えます。 二つの答え ホッブズは、平和のために主権者に権利を手放す約束を説き、保護がやめば服従も終わるとしました。ロックは、同意で政府を縛り、信託を裏切る政府から権限を取り戻せるとしました。 争点 実際に同意した人は少ない、仮説の契約は契約ではない、契約から外された人がいる、という批判があり、同意の説を立て直す試みも続いています。 はじめに 私たちは税を納め、赤信号では止まります。従わなければ、罰金や刑罰が科されることもあります。同じことを近所の誰かが勝手にすれば、それは脅しや暴力と呼ばれるはずです。では、国家が人々に法に従うよう求め、従わない人に力を使うことは、なぜ許されるのでしょうか。 この課程の『権威と正統性』の課では、人が実際に命令に従う理由を見ました。そこでの問いは「人はなぜ従うのか」という事実の問いでした。この課の問いはそれとは別で、「人は従うべきなのか、そうだとすればなぜか」という規範の問いです。法に従う道徳上の義務を、政治哲学では「政治的責務」と呼びます [4] 。罰が怖いから従うことと、従う義務があることとは、同じではありません。 この問いに大きな影響を与えた答えが、社会契約説です。国家のない状態を想像し、そこから抜け出すために人々が互いに約束した、と考えることで、国家の力を人々自身の合意によって説明しようとします。この考えを十分に展開したのは、17 世紀のホッブズとロックでした [4] 。 この課では、まず社会契約説の組み立てを確かめ、次にホッブズとロックの二つの答えを比べます。同じ「契約」という道具から、強い主権者を正当化する答えも、政府を縛って抵抗を認める答えも出てきます。最後に、「誰が、いつ同意したのか」という批判を見ます。資料では、ホッブズとロックの原文の一節と、日本国憲法の前文を読みます。 読み終えたとき、国家の正当さを合意で説明することの強さと弱さを、自分の言葉で言えるようになることが、この課の目標です。 この課の問い 国家は法に従うよう求め、従わない人を罰します。その力が正当だと言えるのはなぜでしょうか。社会契約説は「人々の合意」で答えますが、その答えはどこまで通るでしょうか。 この課のことば 自然状態 共通の政府や、公に法を定めて執行する権力がない状態を想像したもの。争いを裁く人も、決まりを守らせる力もありません。ロックのように、そこにも自然法(人が守るべき道理)はあると考える論者もいます。社会契約説の出発点です 社会契約 人々が互いに約束して政治の仕組みをつくった、と考える筋道。実際の歴史の出来事とは限らず、多くは思考実験として使われます 主権者 法をつくり、守らせ、争いを裁く最終の権限をもつ人や合議体。ホッブズは、王でも議会でもよいとしました 同意 自分で認めること。言葉や署名で示す「明示の同意」と、住むなどのふるまいから読み取る「暗黙の同意」が区別されます 政治的責務 自分の国の法に従う道徳上の義務。罰が怖いから従うという損得の理由とは区別されます 抵抗権 政府が預かった権限を濫用したとき、人々がそれを取り戻してよいとする考え。ロックが論じました 合意による正当化――同意は国家の力を支えられるか 社会契約説は、「もし国家がなかったら」という想像から出発します。この章では四つの節で、その想像の組み立て、ホッブズの答え、ロックの答え、そして批判を順に見ます。同じ契約という道具を使いながら、どこで結論が分かれるのかに注意して読んでください。 問いと思考実験――国家のない世界を想像する 法に従う義務の根拠を問うことは、とても古い問題です。「政治的責務」という言葉そのものは、イギリスの哲学者グリーンが 1879〜80 年にオックスフォードで行った講義より古くはないとされます [4] 。しかし、その講義が掲げた「法への服従の本当の根拠、つまり正当化を見つける」という課題は、古代からありました [4] 。 プラトンの対話篇『クリトン』では、死刑の判決を受けたソクラテスが、友人の用意した脱獄を断ります。理由の一つは、長くアテナイに住んできたこと自体が、この国の法に従うという合意を示している、というものでした [4] 。この論は、のちの社会契約や同意の説を先取りしています [4] 。ソクラテスは、育ててくれた法への恩や、他の市民との公正といった別の理由も挙げています [4] 。 社会契約の考えは古くからありましたが、十分に展開されたのは 17 世紀です。古典とされるのは、ホッブズの『リヴァイアサン』(1651 年)とロックの『統治二論』後編(1690 年)です [4] 。のちにルソーやカントも、契約の考えを使いました [4] 。 契約説の議論は、二つの部品からできています [1] 。一つ目は「初めの状態」の描き方です。近代の政治哲学者はこれを自然状態と呼びました [1] 。合意が成り立たなかったときに人々が戻っていく状態でもあります [1] 。二つ目は、契約する人の描き方です。人がどれほど合理的か、どんな動機で約束するのかを決めます [1] 。初めの状態をどれほど厳しく描くか、人をどう描くかで、結論は大きく変わります [1] 。 議論の筋道は、本教材の整理として言えば次のとおりです。まず、国家も、公に法を定めて執行する権力もない状態を想像します。次に、そこで暮らす人々がどんな困りごとに出会うかを考えます。そして、国家のある状態のほうがその困りごとを解けるなら、合理的な人はその仕組みに同意するはずだ、と論じます。自分で同意したことなら、従う義務があると言えます。こうして国家の力は、上から押しつけられたものではなく、人々自身が認めたものとして説明されます。 ここで大事なのは、その契約が歴史の事実なのか、仮説の思考実験なのかという区別です。契約説の論者の間でも、初めの状態を実際の歴史と見るか、ありえた歴史と見るか、まったくの仮説と見るかで意見が分かれます [1] 。今日の主な契約説は、仮説の契約をとります [1] 。歴史の事実として主張すれば、「本当にそんな約束があったのか」が問われます。仮説として主張すれば、「していない約束が、なぜ人を縛るのか」が問われます [4] 。この二つの問いは、第 4 節でもう一度取り上げます。 日本の日常に当てはめてみましょう(本教材の作例)。私たちが税を納め、赤信号で止まる理由は、罰が怖いから、周りもそうしているから、と事実として説明することもできます。しかし社会契約説が問うのは、罰がなくても従うべき理由があるかどうかです。剣で脅されてした約束は、従う損得の理由にはなっても、道徳上の義務を生むとはまず認められないでしょう [4] 。社会契約説は、この「損得の理由」と「義務」の違いを、合意という考えで埋めようとするのです。 ここで間違えやすい 社会契約説は、昔どこかで人々が集まって契約書に署名した、と主張する説ではありません。今日の主な契約説は、契約を仮説の思考実験として使います [1] 。ただし、ホッブズやロック自身が同意をどこまで実際のものと考えたかは、それぞれ研究者の間で論じられています [3] [4] 。 ホッブズ――恐怖から主権者へ ホッブズは、国家のない状態を「単なる自然の状態」と呼びました。そこには、争いを裁く権威も、その決定を守らせる力もありません [2] 。各人が自分の事件の裁判官となり、刑の執行者ともなる状態です [2] 。ホッブズの前提は、一つずつ見ればもっともらしいものです [2] 。人は心身の力がおおむね等しく、誰も無敵ではありません。たいていの人は死を強く避けたいと願います。好意は身近な人に限られがちで、軽く扱われることに敏感です [2] 。 さらにホッブズは、各人に「自然権」を認めます。自分を守るために必要だと本気で考えることを、何でもしてよいという権利です [2] 。ところが、ほとんど何でも自己保存に必要だと言えてしまうので、この権利は実際には「すべてのものへの権利」になります [2] 。 この前提を合わせると、どうなるでしょうか。ホッブズは第 13 章で、争いの原因を三つ挙げます。競争、不信、名誉です。競争は利益のために、不信は安全のために、名誉は評判のために、人を襲わせます [5] 。相手が先に襲ってくるかもしれないと恐れれば、先に手を打つことが合理的にさえ見えます [2] 。こうしてホッブズは、皆をおそれさせる共通の力がない間、人々は「各人の各人に対する戦争」の状態にある、と結論します [5] 。その状態がどんなものかは、資料 1 で原文を読みます。 ホッブズは、この結論が経験にも合うと言い、読者に問いかけます。人は旅に出るときには武器を持ち、連れを探します。眠るときには戸に鍵をかけ、家の中でさえ箱に鍵をかけます。法があり、武装した役人がいると知っていても、そうしているではないか、というのです [5] (図 1) 。人を責める言葉に聞こえますが、ホッブズは同じ箇所で、人の欲望や情念はそれ自体では罪ではない、とも述べています [5] 。 法と役人がいると知っていても 旅には武器を持つ 戸にも箱にも鍵をかける 図 1 ホッブズの例(『リヴァイアサン』第 13 章)。法があり、武装した役人がいると知っていても、人は旅に武器を持ち、戸と箱に鍵をかけます。ホッブズは、人がふだんのふるまいで、互いをどう見ているかを示していると論じました。 では、戦争の状態からどう抜け出せるのでしょうか。人々が互いに、共通の権威に従うと約束することです。ホッブズはこれを「設立による主権」と呼びました [2] 。征服者に脅され、保護と引き換えに服従を約束する「獲得による主権」も、同じように正統だとしました [2] 。どちらの場合も、動機は恐怖です [2] 。この約束(信約)には、自分の権利を手放すことと、主権者の行為を自分のものとして認める「授権」とが含まれます [2] (図 2) 。 自然状態 共通の力がなく、各人が自分で裁く 戦争の状態 競争・不信・名誉から、各人の各人に 対する戦争へ 信約 互いに約束し、権利を手放して主権者を 授権する 主権者 法をつくり、守らせ、争いを裁く 保護と服従 守られる限り従う。保護がやめば義務も 終わる 図 2 ホッブズの筋道(本教材の整理)。共通の力のない状態が戦争の状態になり、人々は互いの約束で主権者を立てます。服従の義務は、主権者が守ってくれる限りで続きます。 ここから、ホッブズの正統性の考えのかなめが出てきます。解説によれば、政府の正統性は、権力をどのように得たかではなく、服従に同意した人々を実際に守れるかどうかにかかります。保護がやめば、服従の義務も終わるのです [2] 。また臣民は、命が危ういときには主権者に対しても自分を守る権利を保ち、背いたり抵抗したりしてよいとされます [2] 。主権を強いものとしながらこの権利を残したので、同時代のブラムホール主教は『リヴァイアサン』を「反逆者の教理問答」と非難しました [2] 。 反論もあります。契約説の解説は、ホッブズの契約を、争いを裁く権利と自己防衛の権利を主権者に手放す「疎外の契約」(ハンプトンの呼び方)と位置づけます。そして、初めの状態を十分に悪く描けば、契約説は全体主義の正当化にまで至りうる、と指摘します [1] 。ただし、先に見たように、ホッブズは命が危ういときに自分を守る自由は臣民に残るとしていました [2] 。権利を手放すという読み方と、この留保とがどう両立するのかは、ホッブズの理論の緊張として論じられています [2] 。他方で、ホッブズ自身が自然状態の例に挙げたのは、主権者どうしの関係や、平和だった国が内戦に崩れた状態でした。内戦を経験した人なら、自然状態がどんなものかすぐに分かるだろう、というのです [2] 。本教材の整理として言えば、権力が強すぎる害と、共通の権力がない害のどちらを重く見るかで、ホッブズの評価は分かれます。 なぜ自然状態がそれほど悪くなるのかについても、研究者の読み方は分かれます [2] 。人が目先の利益にとらわれるからだ、という読み方があります。皆が合理的でも、各人にとって合理的な行動が全員にとって悪い結果を生む「囚人のジレンマ」に陥るからだ、という読み方もあります。誇りや妬みといった情念のせいだ、という読み方もあります [2] 。どれが本文に合うかは、論争が続いています [2] 。 ここで間違えやすい ホッブズは「主権者には何があっても従え」とだけ説いたのではありません。命が危ういときの自己防衛の権利は手放せないとし、保護がやめば服従の義務も終わるとしました [2] 。強い主権を説きながら服従に限界を置いたことが、彼の理論の大きな争点になっています [2] 。 ロック――同意と制限された政府 ロックもまた、国家のない自然状態から出発します。しかし描き方はホッブズと違います。ロックは、絶対の主権者の恣意的な権力に服すくらいなら、自然状態のほうがましだと主張しました [2] 。ロックの自然状態の人々は、共通の権威の下にはいませんが、自然法の下にいて、すべての人に共通する権利と義務をもっています [3] 。足りないのは、争いを裁き、決まりを実行する共通の仕組みです [3] 。 ロックの答えのかなめは同意です [3] 。ロックは、人は生まれつき自由で平等で独立しており、本人の同意なしにこの状態から出され、他人の政治権力に服させられることはない、と書きます(第 95 節) [6] 。人が自然の自由を手放す唯一の道は、安全で平和に暮らし、財産を確かに享受するために、他の人々と一つの共同体をつくることに合意することです [6] 。 ロックの契約は、二段階に分かれているように見えます [4] 。人々はまず、法の下の政治社会をつくることに合意し、次に政府を立てます [4] 。この区別によって、ロックはホッブズと違い、革命の権利を論じることができました。政府を倒しても、人々がすぐに自然状態に戻るわけではないからです [4] 。またロックは、ホ