14.75 経済学とは何か — ほかの学問を並べて、位置を決める — Epoché
この篇でできるようになること ★ 問いの形で章を始める 書き方が読める。 ★ ほかの学問を並べて自分の学問の位置を決める 運びが分かる( 9.3 論編 )。 ★ 反論を引いてから答える 段の作りが追える。 ★ 読み手を子どもに定めると文がどう変わるか が数で見える。 前提 : 特別編に門はありません。第 5 期まで済んでいれば、どこからでも読めます(目安は 3.40 まで/4.60 まで)。 読む前に ★ 特別編は 順番に読む必要がありません 。★ 1 篇が 1 作品 で、★ どの篇から始めてもかまいません。 ★ ジェヴォンズ(一八三五〜一八八二)は、 経済学に数学を持ち込んだ人 の一人です。★ この本は その人が書いた Science Primers (学問の入門書)の一冊 で、★ 読み手は 学校の生徒 です。 ★ 読む前に、二つ確かめてください。 どちらのことか 確かめること ★ 学問のこと ★ 学問の名が二度変わったこと( 12.18 知編 ) ★ 論のこと ★ 定義の作り方( 9.3 論編 ) ★ 12.18 知編 で、 学問の名が economy → political economy → economics と二度変わった と置きました。 ★ この本の題は Political Economy ——★ つまり 二つめの名だったころの本 です。★ 三つめの economics に変えたのは マーシャルの世代(一八九〇年) で、★ この本の 十二年あと です。 ★ 同じ第 VIII 部の、近い時代の篇です。 どこか 何を読むか 14.74 英語の名文 ★ ミル『経済学原理』(千八百四十八年)。所有について 14.76 英語の名文 ★ ヴェブレン『有閑階級の理論』(千八百九十九年) 8.182 読編 ★ リカード『原理』第 1 章。価値と労働(読編) 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1852 語、段落は 12 に分かれ、文は 86 本、一文の平均は 21.5 語、いちばん長い一文は 73 語です。 ★ この篇は 第 VIII 部で文の数がいちばん多い ( 86 本)★ のに、語数はほぼ同じ です。★ つまり 一文が短い ——★ 14.73 英語の名文 のリカードの平均は 42.6 語 ですから、★ その 半分ほど です。 どの篇か 出た年 一文の平均 ★ 14.73 英語の名文 リカード ★ 千八百十七年 ★ 42.6 語 ★ 14.74 英語の名文 ミル ★ 千八百四十八年 ★ 31.0 語 ★ この篇 ジェヴォンズ ★ 千八百七十八年 ★ 21.5 語 ★ 年が下るほど短くなっている ように見えますが、★ ここで 年のせいだと決めてはいけません ——★ この本は 読み手が子ども だからです。★ 同じ年に書かれた大人向けの本なら、 もっと長い はず です。★ 文の長さを決めるのは 年と読み手の両方 で、★ この篇だけでは どちらが効いたか分けられません ( 9.22 論編 )。 ★ もう一つ、この原本の作りを断っておきます ——★ 節に 番号と題が付いて います ( 2. Mistakes about Political Economy のような形が 3 箇所)。★ 第 1 節の番号だけ この篇に入っていません ——★ 篇が その節の題から始まって いる からです。★ 原本ではここが 太字 でした。★ 当館の本文では 太字の印を外して あり ます——★ 語は 1 字も変えていません。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 経済学とは何か。経済学は諸国民の富を扱います。それは、ある国を別の国より富ませ栄えさせる原因を問い調べます。それは、貧しい人ができるだけ少なくなり、だれもが、原則として、自分の仕事に対して十分な支払いを受けられるようにするには、何をすべきかを教えることを目指しています。たしかに、ほかの学問も、私たちが同じ目的に達するのを助けてくれます。力学という学問は、力をどのように得るか、そしてそれをどのように機械を動かすのに使うかを示します。化学は、役に立つ物質をどのように作り出せるか、たとえば、美しい染料や香料や油を、ガス工場の感じの悪いくずからどのように取り出せるかを教えます。天文学は大洋を航海するのに欠かせません。地質学は石炭や金属を探すときの導きとなります。 さまざまな社会の学問もまた、人類の幸福を進めるのに必要です。法学は人びとの法律上の権利を扱い、それが正しい法によってどのようにすればいちばんよく定められ、守られるかを扱います。政治哲学は、さまざまな政治の形と、それぞれの比べての長所を問い調べます。衛生学は病気の原因を突き止めます。統計学という学問は、国や社会に関するあらゆる種類の事実を集めます。これらの学問はすべて、私たちがどうすればより健康に、より豊かに、より賢くなれるかを示すのに役立ちます。 しかし、経済学は、これら他のどの学問とも別のものであり、富そのものを扱います。それは、富とは何か、富を手に入れたときにそれをどうすればいちばんよく消費できるか、そして富を手に入れるのに他の学問をどのように利用できるかを問い調べます。人びとは経済学のあら探しをするのを好みます。それが富だけを扱うからです。彼らは、徳や情愛や気前のよさのように、富よりよいものはたくさんあると言います。彼らは、ただの富よりも、こうしたよい性質を私たちに学ばせたがります。人は、きびしい取引をし、けちん坊のようにお金をため込むことで金持ちになることがあります。さて、これは、その人が自分の富を親類や友人や世間一般のために使う場合とは比べものにならないほどよくないことなので、彼らは富の学問を責めることへと進むのです。 しかし、こうした文句を言う人たちは、経済学のような学問の目的を誤解しています。彼らは、学ぶときには一度に一つずつやらなければならないということが分かっていません。私たちは社会の学問をすべて同時に学ぶことはできません。天文学が星だけを扱うからといって、あるいは数学が数と量だけを扱うからといって、それに文句をつける人はいません。天文学、地質学、化学、物理学、生理学などを、一度に全部扱う「学問入門」があったとしたら、それはとても奇妙なものになるでしょう。自然の学問はたくさんなければならず、社会の学問もまたたくさんなければなりません。そして、これらの学問はそれぞれ、ものごと一般ではなく、それ自身に固有の主題を扱わなければなりません。 2. 経済学についての誤り。これから考えていこうとする学問については、もっとよく分かっていてしかるべき人びとによって、非常に多くの誤りがおかされています。こうした誤りは、しばしば、人びとが経済学を学ばずに、それについてすべて分かっていると思い込むことから生じます。分別のあるふつうの人なら、化学について化学者に、日食や月食について天文学者に、あるいは岩や化石について地質学者にさえ、あえて反論しようとはしません。ところが、不景気について、高い賃金の影響について、安い労働力に値下げで負かされることの害について、あるいは社会にとって大事な何百もの問題のどれについてでも、だれもがあれこれと自分の意見を持っています。そういう人たちは、こうした事柄が実は化学や天文学や地質学よりも理解しにくく、一生学んでも自信をもって語れるようにはならない、ということに思い至りません。それなのに、経済学をまったく学んだことのない人ほど、たいてい最も自信を持っているのです。 実のところ、かつて自然科学が嫌われていたのと同じように、今は経済学に対して一種の無知な嫌悪と苛立ちがあるのです。人びとは自分の衝動や偏見に従いたがり、自分たちがしていることがまさに、意図しているのとは反対の結果をもたらすことだと言われると、腹を立てます。いわゆる慈善の場合を考えてみましょう。物ごいをする貧しい人に、それが人びとにどんな影響を与えるかを考えずに施しをするのは徳のあることだ、と考える心の優しい人がたくさんいます。彼らは、施しを受けたときの物ごいの喜びは見ますが、その後の影響、すなわち物ごいをする人びとが前より多くなるということは見ません。いま存在する貧困と犯罪の多くは、過去の誤った慈善によって引き起こされたもので、それが人口の大きな部分を、不注意で、先の考えがなく、怠惰なまま育つようにしてしまったのです。経済学は、行き当たりばったりの考えの足りない施しをするのではなく、人びとを教育し、働いて自分の暮らしを立て、老後に暮らしていけるだけのものを蓄えるよう教えるべきだ、ということを証明します。それでも彼らが怠惰で先の考えのないままでいるなら、その結果を身に受けなければなりません。しかし、これは冷たい扱いのように見えるので、経済学者たちは、心の柔らかい誤った人びとから責められます。この学問は陰気で冷酷な学問だと言われ、その目的は富む者をさらに富ませ、貧しい者を見殺しにすることだとほのめかされます。これはすべてまったくの誤りです。 経済学者は、人びとがどうすれば最もたやすく富を得られるかを問い調べるとき、富む人はけちん坊のように富をしまい込むべきだとも、浪費家のようにぜいたくな暮らしに使うべきだとも教えはしません。この学問には、富む人が気前よく、しかも賢く富を使うのを思いとどまらせるようなものは、まったく何もありません。富む人は、思慮深く親類や友人を助けてもよいし、無料の公共図書館、博物館、公園、施薬所など、役に立つ公共の施設を設けてもよいのです。貧しい人の教育を助けたり、高等教育の施設を進めたりしてもよいし、前もって備えることのできなかった不幸に苦しんでいる人を救ってもよいのです。体の不自由な人びと、目の見えない人びと、そして自分で自分を助けることがまったくできない人びとはみな、富む人の慈善にふさわしい対象です。経済学者が言い張るのはただ、慈善が本当に慈善であること、そして助けようとしている人びとを損なわないこと、それだけです。これまで、善いことだけをしたいと願った人びとによって多くの害がなされてきたと思うと、悲しくなります。 また、何千もの人が、まさに正反対の結果をもたらす手段、つまりストライキや、機械を使うのを拒むことや、さまざまなやり方で富の生産に逆らおうとすることによって、自分の立場をよくしようとしているのを見るのも悲しいことです。労働者たちは自分たちなりの経済学をこしらえました。彼らは、富を作りすぎないように気をつけることで、自分たちを豊かにしたいのです。彼らもまた、自分のすることの目先の結果は見ますが、その後の結果として何が起こるかは見ません。自由貿易の問題でも同じです。イングランドでは、私たちはついに商業を自由にしておくことの賢さを学びました。ほかの国々では、そしてオーストラリアの植民地でさえ、ほかの土地のたっぷりある産物を使えないようにすることで人びとを豊かにしようという法律が、いまだに作られています。人びとは、富は、それを最もたやすく、最も豊富に生み出せるところで生み出すことによって増やさなければならない、ということを本当に認めようとしません。どの職も、どの町も、どの国も、自分が最も安く生み出せるものを供給し、ほかの品物は、それもまた最もたやすく作れるところから買わなければなりません。 経済学は、私たちのすることの目先の結果の向こうを見ること、そして社会全体の、さらには人類全体の幸福を求めることを教えてくれます。イングランドの今の繁栄は、アダム・スミスが『国富論』で世に与えた学問に大きく負っています。彼は自由な労働と自由な貿易の価値を私たちに教えました。そして、彼の偉大な本が出版されてから百年たった今、彼の教えに逆らってむなしく行動する誤った人びとがこれほど多くいてはならないはずです。確かなのは、人びとが正しい経済学を理解しなければ、自分たちなりの誤った経済学をこしらえるだろう、ということです。それゆえ、男であれ女であれ、だれ一人として、これから私たちが学ぼうとする学問を何ほどか理解することなしに大人になってはならない、ということがどうしても必要なのです。 3. この学問の区分。まず、経済の学問のいくつかの分野、つまり区分を、この小さな論考でどんな順序で考えていくかを述べることから始めましょう。第一に、この学問の主題である富が何から成るかを学ばなければなりません。第二に、富がどのように使われ、つまり消費されるかを問い調べることへと進みます。何ものも、何かの役に立てられないかぎり富ではありえないことを、私たちは見ることになるでしょう。そして、富を作る前に、私たちは何を使いたいのかを知らなければなりません。第三に、富がどのように生産され、つまり生み出されるかを考えることへと進めます。そして第四に、生産された富が、それを生み出すのに携わったさまざまな階層の人びとの間でどのように分けられるかを考えます。手短に言えば、経済学は富の (1) 性質、(2) 消費、(3) 生産、(4) 分配を扱う、と言えます。課税についても少し述べる必要があるでしょう。どの国の富も、その一部は、国を守り治める費用を払うために政府が取らなければなりません。しかし、課税は、おそらく分配の項目に入れてよいでしょう。 4. 富と自然の恵み。経済学は富の学問だと読んでも、学問とは何か、富とは何かが分かっていなければ、何も学んだことになりません。一つの用語がほかの用語によって定義されるときには、その主題について何らかの光を得るために、それらほかの用語を理解していなければなりません。『論理学入門』で、私はすでに学問とは何かを説明しようと試みましたので、今度は富とは何かを明らかにしようと試みます。 きっと多くの人は、富とは何かを知るのに何の難しさもなく、本当の難しさはそれを手に入れることだと考えているでしょう。しかし、この点で彼らは誤っています。この国には、自分で金持ちになった人がたくさんいますが、そのうち富とは何かをはっきり説明できる人は、ほとんど、あるいはまったくいないでしょう。実のところ、この問いに決着をつけるのは決してたやすくありません。世間一般の考えでは、富はお金から成り、お金は金と銀から成ります。そうだとすると、富む