アリストテレス――よく生きるとは徳を習慣にすることである(エウダイモニア・中庸) — Epoché
古代 アリストテレス 約 20 分 本文 約 8,400 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 幸福・習慣・中庸の 3 つ 幸福 人間に固有の働きは、理(ロゴス)を持つ魂の活動です。だから人間の善(幸福)は、徳を持つことではなく、徳に従って魂が活動することであり、しかも一生を通じてのものです。「一羽のツバメが春を作るのではない」(『ニコマコス倫理学』I.7、1097b–1098a)。 習慣 性格の徳は、生まれつきでも教えられた知識でもなく、行うことで身につきます。竪琴を弾いて竪琴弾きになるように、正しいことを行って正しい人になります(II.1)。徳は「選択に関わる性向で、私たちに相対的な中にある」と定義されます(II.6、1106b36–1107a2)。 中庸 中は算術の真ん中ではなく、その人と場面に応じたちょうどよさです。勇気は臆病と無謀の間にあります。ただし、万能の決定手順は示されず、中は、理によって、思慮ある人が決めるように決まる、とされます(SEP は、倫理学の理論は決定の手順を与えないと読みます)。 はじめに アリストテレスは、前 384 年にスタゲイラに生まれ、前 322 年に没した哲学者です [1] 。前の課では、植物・動物・人間の魂が、育つ・感じる・考えるという働きの段をなすという考えを読みました。この課では、その考えを人間の生き方に当てはめた『ニコマコス倫理学』を読みます。 この本でアリストテレスが問うのは、人間にとって最もよいことは何か、です。SEP の整理によれば、アリストテレスは、よいものの一覧を作ることは難しくないと考えていました [1] 。友がいること、楽しいこと、健康であること、名誉を受けること、勇気をある程度持つことは、たいていの人がよいと認めます。難しいのは、そのうちどれが、ほかよりも望ましいのかを決めることです [1] 。 アリストテレスは、倫理学は眺めて知るための学問ではない、と考えました。何がよいかを知りたいのは、知識が欲しいからだけではありません。よく生きるとはどういうことかを分かっている方が、実際によく生きられるからです [1] 。『ニコマコス倫理学』でも、この探究は、徳とは何かを知るためではなく、善い人になるためのものだと言われます(II.2、1103b26–29) [2] 。 この課は三つの節に分かれます。一つ目の節では、人間の善(幸福)とは何かを、人間に固有の「働き」から考える議論を読みます。二つ目の節では、勇気や正しさといった性格の徳が、どうやって身につくのかを読みます。三つ目の節では、徳は「中」にあるという、中庸の考えを読みます。最後に原典を読む章で、三つの節をつなぐ徳の定義そのものを、ギリシア語から訳して読みます。 この課の問い お金のように、ほかの目的のために求めるものがあります。では、健康や友だちと「よく生きること」は、どう関わるのでしょうか。そして、勇気や節度のような「よさ」は、知識として教われば身につくのでしょうか。それとも、別の仕方で身につくのでしょうか。 この課のことば エウダイモニア ふつう「幸福」と訳します。いま気分がよいことではなく、人として「よく生きている」ことです。アリストテレスは「よく生きること」「よくやっていること」と同じ意味で使います。 働き(エルゴン) そのものに固有の仕事です。笛吹きなら笛を吹くこと、目なら見ることです。「よい笛吹き」は、その働きをよく果たす人です。 性格の徳 怒る・怖がる・楽しむといった感情と、行いに関わる「よさ」です。勇気・節制・気前のよさなどがあり、習慣で身につきます。考える力のよさ(知性の徳)と区別されます。 性向(ヘクシス) 身について、いつも同じ向きに感じ、行う傾きです。生まれつきの能力でも、その場かぎりの感情でもありません。 中(メソン)・中庸(メソテース) 足りなさと行き過ぎの間です。ものさしの真ん中ではなく、その人と場面にとってのちょうどよいところです。 思慮ある人(フロニモス) その場その場で何をするのがよいかを、よく考えて見分けられる人です。中を決める目安とされます。 よく生きること――幸福の中身と、徳の身につけ方 この章では、前の課で見た魂の働きの段を、人間の生き方に当てはめます。人間がよく生きるとは何をすることで、そのよさはどうやって身につくのでしょうか。 人間の善とは――人間だけの働きを、よく果たすこと アリストテレスは、最高の善を探します。最高の善とは、それ自体のために望まれ、ほかの何かのためには望まれず、ほかの善がすべてそのために望まれるものです(I.7、1097a25–b21) [1] [2] 。お金は何かを手に入れるために求め、健康や名誉はそれ自体のためにも、よく生きるためにも求めます。しかし、よく生きることを、さらに別の何かのために求める人はいません。 この最高の善を「幸福(エウダイモニア)」と呼ぶことには誰もが同意し、アリストテレスも幸福を「完全で自足的なもの、行いの目的」とまとめます(1097b20–21) [2] 。けれども中身は、快楽だ、名誉だ、と分かれます [1] 。 そこでアリストテレスは「人間の働きは何か」と問います。笛吹きや彫刻家のように働きを持つものでは、よさはその働きの中にあるからです(1097b25–28) [2] 。大工や靴屋にも、目や手にさえ働きがあるのに、人間そのものには働きがない、ということがあるでしょうか(1097b28–33) [2] 。 生きる(栄養・成長) 植物にもある。人間に固有の 働きではない 感じる 馬や牛、すべての動物にもある。これも 固有ではない 理を持つものの生 理に聞き従い、理で考えながら行う。 人間だけに残る 人間の善 徳に従う魂の活動。働きを 「よく」果たすこと 一生を通じて 一羽のツバメは春を作らない 図 1 人間に固有の働きを、消していく手順で探す流れです(『ニコマコス倫理学』I.7、1097b–1098a による本教材の整理)。前の課で見た魂の段を使います。点線の段は、その活動が一生を通じてのものだという条件です。 人間の働きは、ほかの生き物と共通するものを消していって探します (図 1) 。栄養をとって育つことは植物にも、感じることは馬や牛にもあります。残るのは、理を持つものの、行いに関わる生です(1097b33–1098a4) [2] 。この「理を持つもの」には、理に聞き従う部分と、理を持って考える部分があります(1098a4–5) [2] 。 竪琴弾きの働きが竪琴を弾くことなら、よい竪琴弾きの働きはそれを「よく」弾くことです(1098a9–12) [2] 。同じように、人間の善は「徳に従う魂の活動」になります。徳がいくつもあるなら、最善で最も完全な徳に従う活動です(1098a16–18) [2] 。 幸福が「徳」そのものではなく「徳に従う活動」とされる点が大切です [1] 。徳を持っていても眠り続けていれば、よく生きているとは言えません。しかもそれは一生を通じてのことです。一羽のツバメや一日の暖かさで春にならないように、短い間だけで人を幸福な人とは呼びません(1098a18–20) [2] 。 ここで間違えやすい 幸福を、いま楽しい気持ちのことだと取らないようにしましょう。エウダイモニアは心の状態ではなく、生き方を評価する語です [1] 。また、人間の働きが「理」だからといって、学問をする人だけの話でもありません。理を持つ部分には、理に聞き従う部分も含まれます(1098a4–5) [2] 。 徳は習慣で身につく――竪琴は弾いて上手になる アリストテレスは、徳を二つに分けます。考える部分のよさである「知性の徳」と、自分では考えないが理に従える部分のよさである「性格の徳」です(I.13、1103a1–10) [2] 。知性の徳は主に教えによって、性格の徳は習慣によって育ちます(II.1、1103a14–18) [2] 。 性格の徳は、生まれつき備わっているのではありません。石は生まれつき下へ動くので、上へ一万回投げても上へ動く習慣はつきません(1103a19–23) [2] 。とはいえ、徳は自然に反するのでもありません。私たちは生まれつき徳を受け取ることができ、それを習慣が完成させます(1103a23–26) [2] 。 見る力や聞く力は、もともと持っているから使います。徳は逆で、行うことで身につきます。竪琴を弾いて竪琴弾きになるように、正しいことを行って正しい人に、勇敢なことを行って勇敢な人になります(1103a31–b2) [2] 。 はじめ:弾いて、まちがえて 練習の印 下手になるのも「弾くこと」から のち:弾いて竪琴弾きに 練習の印が増えた 何度も弾く 正しいことを行って正しい人になる 図 2 竪琴は弾くことで上手になる、というアリストテレスの例を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目は、始めたばかりの少年が、調子はずれの音を出しながら弾いている場面です。二つ目は、何度も弾いた同じ若者が、聞き手の前でなめらかに弾いている場面です。壁の刻み目は練習の回数を表します。 ただし、繰り返せば必ずよくなるのではありません。よい竪琴弾きも下手な竪琴弾きも、同じ「弾くこと」から生まれます(1103b8–13) [2] (図 2) 。危ない場面で怖がることに慣れれば臆病な人に、立ち向かうことに慣れれば勇敢な人になります(1103b15–17) [2] 。だから、子どものころからどんな習慣をつけるかが、すべての違いを生みます(1103b23–25) [2] 。 SEP によれば、身につけ方には二つの段があります [1] 。子どものうちは、ふさわしい行いと感情を繰り返して、低い段の性格の徳が育ちます。理が育って思慮(フロネーシス)と結びつくと、本来の徳として完全になります(VI.13、1144b14–17) [1] [2] 。 では、徳とは何の一種でしょうか。アリストテレスは、魂の中にあるものを感情・能力・性向の三つに分けます。性向とは、感情に対してよく、あるいは悪くあるあり方です(II.5、1105b25–28) [2] 。徳は感情でも能力でもなく、性向だとされます(1106a10–13) [2] 。つまり徳は、知っていることだけでなく、ふさわしい感じ方を含むのです [1] 。 しかも徳は、考えて選び取る「選択に関わる」性向です。SEP によれば、徳のある人はよいことを喜んで行い、逆へ引かれません [1] 。正しいことをしながら内心で逆へ引かれる人は「抑制のある人」で、まだ徳のある人ではありません [1] 。 ここで間違えやすい 「習慣で身につく」を、考えずに同じ動作を繰り返す癖づけだと取らないようにしましょう。徳は「選択に関わる」性向で、思慮と結びついて完成します [1] 。また、徳は知識だから本を読めば身につく、と取るのも誤りです。性格の徳はふさわしい感情を含み、行うことで育ちます。 中庸とは何か――真ん中ではなく、その人と場面にとってのちょうどよさ 性格の徳は、行き過ぎと足りなさという二つの悪徳の間の「中」をねらいます(1106a26–b28) [1] [2] 。よくできた作品を「取り去るものも付け加えるものもない」とほめるように、中が出来栄えを保つからです(II.6、1106b9–15) [2] 。 ただし、この「中」は、ものそのものの中ではありません。10 と 2 の真ん中は 6 で、誰にとっても同じ算術の中です。しかし、10 ムナ(ムナは重さの単位)の食べ物が多すぎ、2 ムナが少なすぎるとしても、体育の指導者は誰にでも 6 ムナを命じはしません。6 ムナは、名高いレスラーのミロン [3] には少なく、始めたばかりの人には多いからです(1106a36–b7) [2] 。 レスラーのミロン ちょうどよい 2 6 10 ムナ 6 ムナではミロンに少ない 始めたばかりの人 ちょうどよい 2 6 10 ムナ 6 ムナでは初心者に多い 図 3 レスラーのミロンと初心者で、ちょうどよい食べ物の量が違う、というアリストテレスの例を絵にしたものです(本教材の絵)。一つ目はミロン、二つ目は体育を始めたばかりの若者です。ものさしの 2・6・10 は原典の数で、三角の印の位置(9 と 3 のあたり)は説明のための作例です。 ちょうどよい量は人によって違います (図 3) 。これが「私たちに相対的な中」です。感情も同じで、怖れ・怒り・憐れみなどには多すぎも少なすぎもあります。しかるべき時に、しかるべきことについて、しかるべき人に対して、しかるべきことのために、しかるべき仕方で感じることが、中であり最善であり、徳のすることです(1106b18–23) [2] 。 勇気は、どんな危険からも逃げる臆病と、どんな危険にも立ち向かう無謀の間にあります [1] 。アリストテレスは、こうした徳と悪徳の組を一覧にしています(II.7、1107a28–1108a9) [2] (表 1) 。 この表で分かること: どの性格の徳も、同じことがらについての足りなさと行き過ぎの間にあります。比べる軸は、勇気では大胆さ、気前のよさでは与える量にそろえています。 徳 何について 足りない側 行き過ぎの側 勇気 危険の前の大胆さ 臆病(大胆さ不足・怖れ過剰) 無謀(大胆さ過剰) 節制 身体の快楽 無感覚(まれで名がほとんどない) 放埒(ほうらつ) 気前のよさ お金を与える量 けち(与え足りない) 浪費(与えすぎ) 穏やかさ 怒り 怒らなさ 怒りっぽさ 表 1 アリストテレスの徳と悪徳の一覧から四つの組を選んだものです(『ニコマコス倫理学』II.7、1107a28–1108a9) [2] 。怖れなさすぎる人には名がなく、お金を受け取る側では浪費とけちの向きが逆になります。 中は「ほどほど」ではありません。SEP によれば、場面によっては強い怒りがふさわしいのです [1] 。また、誤り方はいく通りもあるのに、正しくするのは一通りで、的を外すのはやさしく当てるのは難しいのです(1106b28–33) [2] 。 また、ねたみや盗み・殺人のように、名前そのものが悪さを含むものには中がありません。いつ・どう行っても誤りです(1107a8–17) [2] 。 では、中はどう見つけるのでしょうか。SEP によれば、中庸の説は決