フォイエルバッハ――神は人間の本質の投影である(宗教批判・人間学) — Epoché
近代 功利主義と社会思想 約 17 分 本文 約 6,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 土台・投影・その後の 3 つ 土台 人間には宗教があり動物には無い。その違いは、自分の類の本質(理性・意志・心=愛)を考えの対象にできる類の意識である、とフォイエルバッハは『キリスト教の本質』の序論で論じる。 投影 神に与えられる知恵・意志・愛は、一人ひとりの限界から切り離された人間の類の本質であり、人はそれを自分とは別の存在として崇める。神を意識することは、回り道をして人間が自分を意識することである。 その後 1840 年代から、宗教の根を自然への依存の感情と、限界から逃れたいという願いに求めるようになる。この後の理論が『キリスト教の本質』を補うのか置き換えるのかは、解釈が分かれる。 はじめに ルートヴィヒ・フォイエルバッハは、19 世紀のドイツの哲学者です。はじめ神学を学びましたが、ベルリンでヘーゲルの講義を聴いて哲学へ転じました [1] 。 匿名で出した最初の本『死と不死についての考察』(1830 年)に敬虔派を嘲る短詩を添えたため、大学での道を断たれます [1] 。その後は村に住み、在野の学者として書き続けました [1] 。 1841 年の『キリスト教の本質』で、彼は一時に名を挙げました。エンゲルスは後に、この本が自分とマルクスに「解放の効果」を与えたと回想しています [1] 。この課では、この本の中心にある、神とは人間の本質が外に置かれたものだ、という考えを読みます。 この課の問い 神は、人間を超えた、人間とは別の存在として信じられてきました。フォイエルバッハは逆に問います。人が神に与えてきた知恵・意志・愛は、本当は誰のものなのでしょうか。神について語ることは、実は人間が自分自身について語ることではないのでしょうか。 この課のことば 類(類の本質) 一人ひとりの人間ではなく、人間というもの全体が持つ本質のことです。ドイツ語では Gattung (類)と言います。一人の人の限界は、類の限界ではありません。 類の意識 自分の本質、つまり人間であることそのものを、考えの対象にできる意識です。普遍的なものを知る力で、動物には無く、宗教の土台になる、とフォイエルバッハは言います。 疎外 自分のものであるはずのものが、自分から離れ、よそよそしい別のものとして自分に向き合うことです。フォイエルバッハは、神を、人間が自分の類の本質を別の存在のように扱う、疎外された自己意識の形と見ました。 人間学 人間についての学のことです。神学の言うことを正しく読めば人間についての真理になる、という意味で、フォイエルバッハの立場は「神学は人間学である」という標語で知られます。 人間神論 フォイエルバッハが自分の立場の呼び名として「無神論」より好んだ語です。宗教を否定するのは人間の神性を肯定するためだ、という意味がこもります。 依存の感情 自分は自分とは別のものなしには生きられない、という感情です。後のフォイエルバッハは、これを宗教の土台とし、その最初の相手は自然だったと考えました。 宗教批判と人間学――神について語るとき、人は何を語っているのか フォイエルバッハは『キリスト教の本質』で、宗教の言う神の正体を、人間の側に探します。この章では、宗教の土台としての類の意識、神は人間の本質が外に置かれたものだという中心の主張、ヘーゲルとの違いと後の宗教論を、順に読みます。 類の意識――動物に宗教が無いのはなぜか フォイエルバッハは『キリスト教の本質』を、一つの観察から始めます。人間には宗教があり、動物には宗教がありません。それなら、宗教を解く鍵は、人間を動物から最もはっきり分けるものと結びついているはずです(序論) [1] [2] 。その違いを、彼は普遍的なものを知る特別な意識に見ます。これが 類の意識 です [1] 。 類の意識を持つものは、自分の本質そのものを考えの対象にできます。フォイエルバッハにとって、考えるとは、心の中で「私」と「あなた」が語り合うことです。考えているとき、一人の人は、人間というもの全体、つまり自分の類と関わっています。動物は、そして生き物としてだけ見た人間も、この関わりには立てない、とされます [1] 。 人が自分を人間として意識するとき、考える者としてだけでなく、意志する者、感じる者としても意識します。SEP の引く一文によれば、考える力は認識の光、意志の力は性格の力、心の力は愛です [1] [2] 。ただしこの三つは、一人が自由に使える道具ではありません。知りたいという衝動、音楽に心を動かされること、良心の声、思いやりのように、一人を超えて人をとらえる類の力として現れる、と SEP は整理します [1] 。 限界の痛みは、類を知っている証し 自分はなんて臆病なんだ 足がすくむ子 人にはできる(勇気) 友だち 足りないと感じるのは、 できると知っているから 図 1 自分の臆病を恥じるのは、人にはできると知っているからです(本教材の絵)。臆病と勇気の例は SEP の説明によるもので、プールと飛び込み台の場面は本教材の作例です。 では、一人ひとりはどうやって類を知るのでしょうか。手がかりは、自分の限界を痛みとして感じる経験です (図 1) 。私が自分の臆病を責めるのは、他の人の勇気を知っているからです。けちな自分を責めるのは、他の人の気前のよさを知っているからです [1] 。人間の誰にもできないことなら、私はそれに気づかないか、気づいても痛みを感じないはずです。だから自分の足りなさを知ることは、それが類の限界ではないと、同時に知ることになります [1] 。 図1のプールの場面は、この説明に沿った本教材の作例です。飛び込み台で足がすくむ子が恥ずかしくなるのは、友だちが飛び込むのを見て、人にはそれができると知っているからです。こうして類は、一人ひとりが自分を越えようとするときに目指す理想の役を果たします [1] 。この理想が、次の節では神の姿をとって現れます。 ここで間違えやすい 「類」を、生物学の分類の「種(ホモ・サピエンス)」のことだと取らないようにしましょう。フォイエルバッハの言う類の意識は、普遍的なものを考え、自分の本質を対象にする意識です。生き物としての人間は、むしろこの関わりに立てない、とされます [1] 。また、理性・意志・愛を、一人ひとりが持つ能力の一覧と取るのも外れています。それは一人を超えて人をとらえる類の力として語られます。 神は人間の本質が外に置かれたもの――神の意識は人間の自己意識 『キリスト教の本質』の中心の主張は、キリスト教の有神論が、 疎外 された自己意識の上に立つ、というものです。人は、自分の類の本質を、まるで自分とは別の存在であるかのように扱っている、と SEP はまとめます [1] 。序論でフォイエルバッハは、人が神を意識するとき、実は人間が自分を意識しているのであり、宗教はその最初の、回り道の形だと論じます(序論) [2] 。 ここで神に移されるのは、「この私」の姿ではありません。からだを持ち、時と所に限られた一人ひとりの限界を取り去った、人間の類の本質です [1] [2] 。知恵・意志・愛を限界なしに思い描くと、全知・全能・慈しみの神になります。人はそれを自分の外に置き、崇めます (図 2) 。 一つ目:崇める 全知(理性) 全能(意志) 慈しみ(愛) 限りある・弱い・死ぬ 自分の光に気づかない 二つ目:気づく 輪郭は人と同じ 理性・意志・愛 人間の類 神の意識は人間の自己意識 図 2 神は人間の本質が外に置かれたものです(序論、本教材の絵)。一つ目の絵では、人は自分の胸から出る光に気づかず、雲の上の姿を崇めています。二つ目の絵では、光が自分たちの側から出ていると気づき、理性・意志・愛が人々の輪の上に戻ります。光の帯は本教材の描き方で、外に置かれるのは一人の私ではなく人間の類の本質です。 図2の一つ目の絵では、人は自分の胸から出た光に気づかず、雲の上の姿だけを見上げています。二つ目の絵では、光の出どころが自分たちの側にあると気づきます。光の帯で描くのは本教材の工夫です。後の解説は英語で projection(投影)と言いますが、フォイエルバッハ自身が初版で使うのは「対象化」に当たる語です [1] [2] 。 神の性質を、フォイエルバッハは二つに分けます。理性で考える「神としての神」は、時を超え、苦しみを受けず、理性そのものと区別しにくい存在です。けれども信じる人が向き合うのは、感情と想像と祈りの相手としての神で、その人格の性質こそ宗教の中身だといいます [1] 。SEP は、この区別がスピノザ『神学政治論』の指摘に似ているとします。聖書の書き手は神を王や立法者、慈しみ深い者として思い描いたが、それらは人間の本性の属性にすぎない、という指摘です [1] 。 例に取られるのは受肉の教えです。神が人間への愛のために神であることを捨てて人となった、という教えを、フォイエルバッハは、苦しむ者と共に苦しむ心の働きと読みます。共に苦しめるのは、苦しみを知る存在だけです。だから、神が人となる前に、人はすでに神の中にあり、神そのものだった、と彼は言います(受肉を論じる箇所、SEP の英訳から本教材が訳す) [1] 。 本は二部に分かれます。第 1 部では、神学の言葉を本当の意味で読めば人間についての真理になると示します。第 2 部では、神を人間とは別の人格と文字どおりに取ると、その言葉が自分と矛盾すると論じます [1] 。 ここで間違えやすい この宗教批判を、「神はいない、宗教はただの迷信だ」と言い捨てるものと取るのは誤りです。1842 年はじめのフォイエルバッハは、自分の立場が「無神論」より「人間神論」の名で示されることを望みました。宗教の神学的な本質を否定するのは、その人間的な本質、つまり人間の神性を肯定するためだ、というのです [1] 。また、神は「この私」の写しだと取るのも外れています。外に置かれるのは一人の人ではなく、限界から切り離された人間の類の本質です。 ヘーゲルからの離反と、その後――宗教の根は自然と願いへ 1843 年の第 2 版の序文で、フォイエルバッハはこの本の目的を明かします。一つは、宗教と哲学の真理は同じだというヘーゲルの主張を攻めることでした。ヘーゲルが両者を和解させられるのは、宗教から最も固有の中身を奪うときだけだ、と示すのです [1] [2] 。 ヘーゲルは受肉を、無限の精神が有限なものへ出て行き、また戻る動きの象徴と読みました。フォイエルバッハは、信じる人にとって受肉は、苦しむ者に寄り添う心の行いだと言い返します [1] 。 その後の著作で、宗教の根の置き場所は移っていきます (表 1) (図 3) 。『宗教の本質』(1846 年、1845 年とも)は、宗教の土台を 依存の感情 に置き、その最初の相手を自然とします。後の講義では、標語を「神学は人間学であり、かつ生理学である」と言い直しました [1] 。 この表で分かること: 宗教の根は、類の意識から、自然への依存の感情と願いへ移っていきます。神の性質が人間の側から説明される点は変わりません。 著作 宗教の根 神とは 鍵になる語 『キリスト教の本質』(1841) 類の意識 別の存在と見た人間の類の本質 神学は人間学 ルターの信仰を論じる本(1844) 至福を求める心 「われらのために」ある善い神 至福・人間の自己愛 『宗教の本質』(1846) 自然への依存の感情 はじめは自然そのもの 依存の感情・犠牲 『宗教の本質についての講義』(1851) 依存の感情と自己愛 神とされ対象とされた人間の精神の本質 人間学かつ生理学 『神統記』(1857) 願い 人の願いをかなえる者 願い・至福 表 1 フォイエルバッハの宗教論の移り変わり(SEP の整理による) [1] 。『宗教の本質』は 1845 年とされることもあり、講義は 1848〜49 年に行われたものです。 最後の大著『神統記』(1857 年)は、『イリアス』で神々が現れる場面を分析し、神々は人の祈りに応えて現れると論じます。望み、意志するのは人間で、神々はそれを人の手に余るところで仕上げる者です [1] 。 1823 年 ハイデルベルク大学の神学部に 入る 1825 年 ベルリンで哲学部へ。ヘーゲルの 講義を聴く 1830 年 匿名の最初の本で大学の道を 断たれる 1839 年 「ヘーゲル哲学の批判のために」 1841 年 『キリスト教の本質』。神学は 人間学 1844 年 ルターの信仰を論じる本。至福と 自己愛 1846 年 『宗教の本質』。自然への依存の 感情 1851 年 『宗教の本質についての講義』を 刊行 1857 年 『神統記』。願いが神々を生む 1860 年 レッヒェンベルクへ移る 図 3 フォイエルバッハの歩みと宗教論の著作(SEP による)。『キリスト教の本質』の後、宗教の根の置き場所は、自然への依存と願いへ移っていきます。『宗教の本質』の年は、SEP の中でも 1845 年と 1846 年の両方が書かれています。 後の理論が『キリスト教の本質』を置き換えるのか(ハーヴィー)、神の性質を自然か人間の本質に帰す同じ企ての別の道なのか(SEP の筆者)は、解釈が分かれます [1] 。 ここで間違えやすい 後の宗教論を、『キリスト教の本質』の言い換えにすぎないと取るのは外れています。宗教の根を、自然への依存や願いという別の所に求める面を持ちます [1] 。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見た、神の意識は人間の自己意識だという主張を、フォイエルバッハ自身の序論の箇所で確かめます。ここでは原文を載せず、論の筋を本教材の言葉で要約します。訳ではありません。 フォイエルバッハ『キリスト教の本質』序論 神を知ることは、人間が自分を知ること 類の意識を述べたあと、序論は宗教の本質へ進みます。初版で数頁にわたる議論を、本教材の言葉でまとめます [2] 。 1 この箇所でフォイエルバッハが言おうとするのは、神について言われる性質は、どれも本当は人間の性質だ、ということです。 2 理由として彼が持ち出すのは、宗教を人間の自己認識の最初の段階とみる見方です。人は自分の本質を、はじめは自分の外にある別の存在として知り、