政党内閣と民本主義――大正デモクラシー — Epoché
国際と日本 日本の政治 約 26 分 本文 約 11,300 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 制度・思想・限界の 3 つ 制度 明治憲法は首相の選び方を定めず、元老が衆議院の大きな政党の党首を推す慣行として政党内閣が生まれた(原敬内閣 1918、憲政の常道 1924〜32) 思想 吉野作造は主権の所在(民主主義)と主権の運用の方針(民本主義)を分け、天皇主権の下でも民意を重んじる政治は両立すると説いた 限界 政党内閣は条文でなく慣行に支えられ、普選と同じ年に治安維持法が作られ、1932 年の五・一五事件の後、暴力・軍・政党をめぐる事情の中で途切れた はじめに いまの日本では、衆議院の総選挙で多数を得た政党の党首が首相になるのを、私たちは当たり前のことと考えています。首相は国会議員の中から国会が指名すると日本国憲法の第67条に定められ、首相になるには国会の多数の支持が要るからです。ところが、明治憲法には首相をどう選ぶかの定めがありませんでした。それなのに1918年の原敬内閣に始まり、とくに1924年から1932年にかけて、衆議院の大きな政党の党首が首相を務める時期がありました。 なぜ、条文に無いことが慣行として行われたのでしょうか。鍵は、議会が持っていた予算と法律への同意の権限、藩閥と政党の取引、そして民衆の運動にあります。さらにこの時期、政治学者の吉野作造は、天皇主権の憲法の下でも民衆の意向に沿った政治はできると説きました。「民本主義」と呼ばれるその理屈は、主権が誰にあるかという問いと、主権をどう使うべきかという問いを分けるものでした。 ところがこの慣行は、十数年で途切れます。男子の普通選挙を定めた法と同じ年に、思想を取り締まる治安維持法も作られました。1932年の五・一五事件の後には、政党の党首は首相に推されなくなります。条文に支えられない仕組みは、どんな条件で保たれ、どんな条件で崩れるのでしょうか。これは大正の日本だけでなく、規則に書かれていない約束事で動く組織なら、どこにでも当てはまる問いです。 この課では、背景、出来事と制度、担い手の考え、いまへの影響の順にたどります。資料の節では、吉野作造の論文から民本主義の定義の段を読み、吉野が何を問わずにおいたのかを自分の目で確かめます。最後の「考えてみる」では、吉野の二つの物差しを、学校の校則のような身近な場面に当ててみます。 この課の問い 主権が天皇にあると定めた明治憲法の下で、なぜ衆議院の大きな政党の党首が内閣を組む慣行が生まれ、吉野作造はそれをどんな理屈で支えたのか。その慣行はなぜ十数年で途切れ、何をのちに残したのか。 この課のことば 民本主義 主権が誰にあるかは問わず、主権を使う人は民衆の利益と意向を重んじるべきだという考え(吉野作造)。たとえば、校長が決める学校でも生徒の声を聞いて校則を作る、という形 政党内閣 衆議院の大きな政党の党首が首相になり、主な大臣を党員で固める内閣。1918年の原敬内閣が最初の本格的な例とされる 憲政の常道 1924年から1932年まで、衆議院の大きな政党の党首が首相を務めた慣行。同じ党の中での継承と、反対党への交代とがあった。憲法の条文ではない 元老 明治維新の功労者で、首相の候補を天皇に推す役を条文の外で担った少数の長老。1924年からは西園寺公望一人になった 普通選挙 納めた税の額で選挙権を限らない選挙。1925年の法では25歳以上の男子に限られ、女性は除かれた 治安維持法 国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社を罰した1925年の法律。普通選挙の法と同じ年に作られた 大正デモクラシー――天皇主権の憲法の下で政党政治はどう生まれたか この課程の『明治立憲制――近代日本の政治の始まり』の課で見た明治憲法は、議会を置きながら、内閣を議会の多数から切り離して組める仕組みでした。この章では、その同じ憲法の下で、なぜ衆議院の大きな政党が内閣を組むようになったのかを、背景・出来事と制度・担い手の考え・いまへの影響の順にたどります。 背景――藩閥と議会の綱引き 明治憲法(大日本帝国憲法、1889年)は、内閣をどう作るかを条文で決めていませんでした。官吏を任命し免ずるのは天皇の大権とされ(第10条)、国務大臣は天皇を輔弼する、つまり助けて責任を負うと定められています(第55条) [8] 。しかし、誰を首相に選ぶのか、内閣が議会に対して政治上の責任を負うのかは、明文で書かれていません。そのため首相の候補は、明治維新の功労者である元老たちが天皇に推す慣行で決まりました。議会の多数派と関わりなく内閣を組む政府の立場は「超然主義」と呼ばれます [1] 。 1889年 大日本帝国憲法の発布 1900年 伊藤博文が立憲政友会を結成 1912〜13年 第一次護憲運動、桂内閣が総辞職 (大正政変) 1916年 吉野作造「憲政の本義」を発表 1918年 米騒動の後、原敬内閣が成立 (9月29日) 1924年 第二次護憲運動、加藤高明内閣が 成立 1925年 男子普通選挙の法と治安維持法 1928年 最初の普通選挙、治安維持法の 改正 1930年 ロンドン海軍軍縮条約と 統帥権干犯問題 1932年 五・一五事件、政党内閣が 途切れる 図 1 明治憲法から政党内閣が途切れるまでの年表です。強調した二つは、最初の本格的な政党内閣の成立と、慣行の途切れです。 それでも議会は無力ではありませんでした。法律を作るにも予算を決めるにも、帝国議会の両院(衆議院と貴族院)の協賛、つまり同意が必要だったからです [8] 。予算が成立しないときは前年度の予算を執行できるという定め(第71条)はありました。しかし増税や軍備の拡張のように、新しくお金が要る政策は、衆議院の協力なしには進みません。ここに政党の交渉力の源がありました。藩閥、つまり薩摩・長州の出身者を中心とする政府の指導層は、政党と取引せざるをえなかったのです [1] [2] 。 この取引の行き着いた先が、1900年の立憲政友会の結成です。藩閥の中心にいた伊藤博文が、自ら総裁となって政党を作りました。その後しばらくは、藩閥の側の桂太郎と政友会の西園寺公望が交代で首相を務める時期が続きます(桂園時代)。政党は、政府と対決する集団から、政府の一角を担う集団へと性格を変えていきました [1] 。 ただし議会の同意は両院の同意です。衆議院で政党が多数を取っても、貴族院が反対すれば法律は成立しません。政党が政権に近づくには、衆議院の多数だけでなく、貴族院や元老との関係も整える必要がありました。この幾重もの壁が、後の節で見る政党内閣の弱さにもつながります(本教材の整理)。 転機は1912年末から翌年にかけての大正政変です。陸軍の師団増設の要求をめぐって前の内閣が倒れた後、桂太郎が三度目の内閣を組みました。これに対し尾崎行雄・犬養毅らが「閥族打破・憲政擁護」を掲げて議会で桂内閣を批判し、議事堂の周りには群衆が集まりました(第一次護憲運動)。桂内閣は組閣から53日後の1913年2月11日に総辞職に追い込まれます。後継の内閣が成立するまでを数えた正式の在職期間は62日です [9] 。議会の多数と民衆の運動に押されて内閣が退いたこの出来事は、「内閣は議会の多数に支えられるべきだ」という考えを広げました [6] 。 政変を支えた土台は、社会の変化にもありました。日露戦争の講和に不満を持つ人々が起こした1905年9月の日比谷焼打ち事件のように、選挙権を持たない都市の人々も、集会や新聞を通じて政治に声を上げるようになっていました。戦争の費用をまかなう増税、新聞の普及、都市の人口の増加が、その背景として挙げられます [6] 。 ここで間違えやすい 「明治憲法の下では議会に力が無かった」と言い切るのは誤りです。首相を選ぶ力は無くても、法律と予算への協賛(同意)の権限があり、それが政党の交渉力の源になりました。 出来事と制度――原内閣から「憲政の常道」へ 1918年の夏、米の値段の急な上昇をきっかけに、米騒動が全国に広がりました。騒ぎは7月から9月まで続き、寺内正毅の内閣は9月21日に総辞職します。代わって9月29日に成立したのが、立憲政友会の総裁である原敬の内閣です [10] 。原は衆議院に議席を持ち、爵位を持たなかったので「平民宰相」と呼ばれました。陸軍・海軍・外務の三大臣を除く大臣を政友会の党員で固めたこの内閣は、最初の本格的な政党内閣とされます [4] [10] 。 ただし原は、納税の額で選挙権を限る仕組みをすぐに無くそうとはしませんでした。1919年の選挙法の改正は、納税の要件を下げるにとどめています [4] 。政党内閣の成立と、選挙権の大幅な拡大とは、別々の歩みで進んだのです。 原内閣の後、政党内閣がそのまま続いたわけではありません。1921年11月に原が東京駅で刺殺されると、同じ政友会の高橋是清が後を継ぎましたが、この内閣は党内の対立で半年あまりで退きます。その後の1922年から1924年にかけては、海軍の加藤友三郎、同じく海軍の山本権兵衛、貴族院を基盤とする清浦奎吾と、政党の党首でない首相の内閣が三代続きました。原内閣は、政党内閣が慣行として定着した始まりというより、政党の党首が内閣を組めることを示した最初の例だったと言えます(本教材の整理)。 1924年、清浦奎吾の内閣が生まれると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部の護憲三派は第二次護憲運動を起こし、総選挙に勝って加藤高明の内閣を作りました [1] 。ここから1932年の犬養毅の内閣まで、衆議院の大きな政党の党首が首相を務める時期が続きます。当時「憲政の常道」と呼ばれたこの慣行は、憲法にも法律にも書かれていません。首相の候補は、最後の元老となる西園寺公望が中心になって天皇に推しました [3] 。 この慣行は、しばしば「内閣が倒れると野党第一党に政権が移る」とまとめられます。しかし実際の交代を一つずつ見ると、二つの型が混じっています(図2・表1)。首相が亡くなったり負傷したりしたときは、同じ党の中で後継が選ばれました。1926年に加藤が亡くなると同じ憲政会の若槻礼次郎が、1931年4月に狙撃の負傷で浜口雄幸が退くと同じ民政党の若槻が、首相を継いでいます [3] [12] [13] 。反対党の党首に政権が移ったのは、内閣が政治の行き詰まりで退いたときでした。 内閣の総辞職 元老(西園寺)が後継の首相を 天皇に推す 同じ党の中で継ぐ 首相の死・負傷のとき。加藤→若槻、 浜口→若槻 反対党の党首へ 政治の行き詰まりのとき。若槻→田中、 田中→浜口、若槻→犬養 政党の外から 1932年の五・一五事件の後。慣行が 途切れる 天皇が組閣を命じる どの枝も条文に無く、慣行で 動いた 図 2 1924〜32年の首相の交代の型です(本教材の整理)。上の段で元老が後継を推し、下に分かれる三つの枝のうち、反対党への交代は政治の行き詰まりのとき、同じ党の中の継承は首相の死や負傷のときでした。どの段も条文に無い慣行です。 この表で分かること: 8年間の6人の首相(加藤高明は2つの内閣を1行にまとめた)のうち、反対党への交代は3回、同じ党の中の継承は2回だった 首相(就任年) 与党 前の内閣からの移り方 加藤高明(1924) 護憲三派→憲政会 第二次護憲運動と総選挙の後 若槻礼次郎(1926) 憲政会 同じ党の中で継ぐ(加藤の死去) 田中義一(1927) 政友会 反対党へ 浜口雄幸(1929) 民政党 反対党へ 若槻礼次郎(1931) 民政党 同じ党の中で継ぐ(浜口の負傷) 犬養毅(1931) 政友会 反対党へ 表 1 「憲政の常道」の時期の内閣(1924〜32年)。「内閣が倒れると野党第一党へ」は単純化で、同じ党の中の継承も含まれていました。 なお、憲政会は1927年に政友本党と合同して立憲民政党になりました。表で憲政会と民政党が別の名で出てくるのはそのためです。ここで政友会と民政党の二大政党が向き合う形が整います [1] 。 制度の面でのもう一つの節目が1925年です。この年、改正衆議院議員選挙法が納税の要件を取り除き、25歳以上の男子に選挙権を与えました(普通選挙)。公布は5月5日です。その少し前の4月22日には、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社を罰する治安維持法が公布されています [1] 。選挙に加われる人を大きく広げることと、共産主義などの運動を取り締まることが、組になって進んだのです。1928年の最初の普通選挙では無産政党も議席を得ましたが、同じ年、治安維持法は緊急勅令で改正され、最高刑が死刑に引き上げられました [6] 。 ここで間違えやすい 「憲政の常道」を憲法上の制度と考えるのは誤りです。首相を推す元老の判断に頼る慣行でした。また、すべての交代が反対党への政権の移動だったわけでもありません。1925年の普通選挙は男子だけで、女性の参政権は1945年の選挙法の改正まで実現しませんでした。 担い手の考え――吉野作造の民本主義 政党内閣への道が開けつつあった1916年、東京帝国大学の政治学者・吉野作造(1878〜1933)は、『中央公論』1月号に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表しました [5] 。題の「其」は初出の表記で、青空文庫が底本とする岩波文庫では「その」と書かれています。この論文は、大正期のデモクラシー論の代表として読まれてきました [6] 。 吉野はまず言葉を分けます。西洋の「デモクラシー」という語は、学問の上で少なくとも二つの異なった意味に使われる、と吉野は言います。一つは「国家の主権は法理上人民に在り」とする考えで、吉野はこれを民主主義と呼びます。もう一つは「国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民に在るべし」とする考えで、これが民本主義です [5] 。前者は、主権が誰にあるかという法の問いに答えます。後者は、主権をどう使うべきかという政治の問いに答えます (図 3) 。 民主主義(吉野の 用語) 民本主義 問い:主権は法の 上で誰にあるか 問い:主権をどう 使うべきか 答え:人民にあると 定める 主権の所在は 問わない 君主に主権があると する説とは対立 君主制とも両立する (吉野) 吉野は日本で唱える 主義としない 民衆の利福と意嚮を 重んずる 図 3 吉野作造の区別による民主主義