ライル――心は機械の中の幽霊ではない(カテゴリー錯誤) — Epoché
現代 心の哲学と技術の哲学 約 17 分 本文 約 6,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 診断・錯誤・傾向の 3 つ 診断 ライルは、デカルトに由来する心の見方を「公式の教説」と呼んだ。人には空間の中の体と空間の外の心があり、心の中の出来事は本人だけが直接知る、という考えである。ライルはこれを「機械の中の幽霊」とわざと乱暴に言い表した(『心の概念』1949、第 1 章)。 錯誤 この見方の根には、心を体と同じ種類の「もの」、ただし見えない別のものとして扱う誤りがある。学寮や図書館を見終えて「大学はどこか」と問う人のように、別の種類の語を同じ列に並べてしまうのである。ライルはこれをカテゴリー錯誤と呼んだ。 傾向 「信じている」「知っている」などの心の語の多くは、隠れた内の出来事を指すのでなく、ある条件の下でどうするかという傾向や、上手にできることを言う。ただし SEP の著者は、ライルを心の文をふるまいの文に置き換える行動主義者と読むのは誤りだとする。 はじめに ギルバート・ライルは、1900 年にイングランドのブライトンで生まれたイギリスの哲学者です [1] 。1924 年にオックスフォードの哲学・政治学・経済学の課程を優等(一等級)の成績で終え、同じ年から 1968 年に退くまでオックスフォードで教えました。1947 年から 1971 年までは、哲学の雑誌『マインド』の編集長も務めています [1] 。 ライルの名を広く知らせたのは、1949 年の『心の概念』です [2] 。この課程のデカルトの課で読んだように、デカルトは第六省察で、考えるが広がらない心と、広がるが考えない体は実際に別のものだと結論しました。では、空間の外にある心が、どうやって空間の中の体を動かすのでしょうか。これが心身問題です。 ライルは、答えを探す代わりに、問いの立て方そのものを疑いました [1] 。私たちはふだん「あの人は賢い」「彼女は地球が丸いと信じている」と言います。これらの語は、頭の中の見えない出来事を指しているのでしょうか。ライルによれば、心を体の中に隠れたもう一つの「もの」として思い描くこと自体が、語の種類の取り違えです [1] 。 この課の問い 大学を案内された人が、学寮も図書館も運動場も見たあとで、「それで、大学はどこにあるのですか」と尋ねたとします。この人は何を取り違えたのでしょうか。そして、心について語るとき、私たちは何について語っているのでしょうか。 この課のことば 公式の教説 ライルが、デカルトに由来する心の見方につけた名です。人には空間の中の体と空間の外の心があり、二つは互いに働きかける、という考えを指します。 機械の中の幽霊 公式の教説を、ライルがわざと乱暴に言い表した言い方です。体という機械の中に、見えない心が住んで操っている、という像です。 カテゴリー錯誤 ある語を、それが属さない種類(型)の語のように扱ってしまう誤りです。文法は正しいのに、筋が通らなくなります。 傾向の語 ある条件の下ではこうする・こうなる、ということを言う語です。「ガラスは割れやすい」がその例です。 知性主義の伝説 賢いふるまいの陰には、必ず先に規則を思い浮かべる心の中の作業がある、という考えです。ライルは、これが終わらない後戻りに陥ると論じました。 カテゴリー錯誤――心は体の中に隠れたもう一つのものか ライルは、心身問題に新しい答えを出そうとしたのではありません。問いの立て方に誤りがある、と見たのです [1] 。この章では、ライルが退けた「公式の教説」とは何か、その根にあるカテゴリー錯誤とはどんな誤りか、心の語は何を言っているのか、を順に読みます。 公式の教説――体という機械に住む幽霊 ライルは『心の概念』第 1 章で、デカルトに由来する心の見方を「公式の教説」と呼びます [1] [2] 。この見方では、人には二つのものがあります。一つは空間の中にあって物理の法則に従う体、もう一つは空間の外にあってその法則に従わない心です。それでいて二つは互いに働きかける、とされます [1] 。ライルはこの見方を、わざと乱暴に「機械の中の幽霊」と言い表しました [1] [2] 。 体の生涯 心の生涯 空間の中にある 空間の外にある 機械の法則に従う 機械の法則に 従わない 誰でも外から 見られる 本人だけが内から 知る 二つはどうつながるのか(心身問題)。「二つの生涯」は 本教材の言い方です。 図 1 公式の教説の描く、一人の人の二つの生涯(本教材の整理)。二つが互いに働きかけるとすれば、どうつながるのかが問われます。 本教材の言い方でまとめると、公式の教説では、人は二つの生涯を送ります (図 1) 。体の生涯は誰でも外から見られますが、心の生涯は本人だけが内側から知ります。すると、心の語の意味も決まってきます。この見方の下では、人の賢さや性格を言う語は、その人の隠れた歴史の中の特別な出来事を指すものと読まれる、とライルは述べます(1949、16〜17 頁) [1] 。 ここからライルは、おかしな帰結を引き出します。心の語が隠れた出来事を指すなら、その語が正しく使われたかを確かめられるのは本人だけです。教師も伝記の書き手も友人も、他人の心について言ったことが当たっているとは、決して確かめられないことになります [1] 。けれども私たちは、他人の心についてふだん語り、たいていは正しく語り、間違えれば直し合っています。公式の教説が正しければ、こうした使い方は成り立たないはずだ、とライルは論じます(1949、17 頁) [1] 。 本教材の作例で考えてみましょう。友だちがテストの後で「よく考えてから答えた」と言います。公式の教説に従えば、本当に考えたかどうかは本人の内側で起きたことなので、本人にしか分かりません。けれども私たちは、答案の途中の式や見直しの跡から、その人がよく考えたかをふだん言い当てます。 SEP は、ライルの的は心の幽霊らしさだけでなく、心の働きが本質的に隠れているとされる点にあった、と読みます [1] 。だからこの批判は、心の語が脳の中の隠れた計算や出来事を指すとみる考えにも向けられます [1] 。 ここで間違えやすい ライルが、心や考えることなど無いと言った、と取るのは誤りです。退けられたのは、心を体とは別の、見えない内の舞台で起きる出来事の連なりとみる見方です。夢や想像のように本人にしか語れないことがあるのは、ライル自身も認めます。ただ、その秘密は公式の教説のいう幽霊の世界の秘密とは違う、とします(1949、35 頁) [1] 。 カテゴリー錯誤――「それで、大学はどこにあるのですか」 ライルは、公式の教説の誤りを細部の誤りではなく、ある特別な種類の誤りと見て、これをカテゴリー錯誤と呼びました [1] [2] 。ある語を、それが属さない種類(型)の語のように扱ってしまう誤りです。ライルは早くから論文「カテゴリー」などで、文法は正しいのに筋の通らない文は、組み合わされた語の型が違うことから生じる、と論じていました [1] [3] 。 見学を終えた人の問い 学寮 図書館 運動場 研究室 事務所 大学=これらの組み合わさり方 全部見ました 大学はどこ? ? 別の建物? 例はライル『心の概念』第1章 建物の並びと台詞は本教材の作例 図 2 大学を探す訪問者の絵です(例はライル本人のもの、建物の並びと台詞は本教材の作例)。訪問者はすべてを見たうえで、大学をもう一つの建物と取り違えています。薄い輪が、大学とは建物の組み合わさり方だということを示します。 『心の概念』第 1 章で、ライルは身近な例を挙げます [2] 。ある大学町を初めて訪ねた人が、学寮や図書館、運動場、研究室などを見せてもらいます。そのあとでこの人は「それで、大学はどこにあるのですか」と尋ねるのです (図 2) 。大学は、見てきたものと並ぶもう一つの建物ではありません。見てきたものがどう組み合わされて働いているか、そのことを言う語です。 同じ章には、同じ型の例がほかに二つあります (表 1) 。行進を見る子どもは、大隊や砲兵隊が通り過ぎたあとで「師団はいつ来るの」と尋ねます。クリケットの試合を見る人は、投手や打者や野手の役目を教わったあとで「団結の精神は誰が担うのか」と尋ねます [2] 。 この表で分かること: 三人とも何も見落としていません。見たものと同じ列に、それらのまとまり方を表す語を、もう一つの物として並べてしまったのです。 誰が 見たもの 尋ねたこと 取り違え 大学の訪問者 学寮・図書館・運動場など 大学はどこにあるのか 大学を建物の一つと取る 行進を見る子ども 大隊・砲兵隊などの行進 師団はいつ来るのか 師団を隊の一つと取る クリケットを見る人 投手・打者・野手の役目 団結の精神は誰が担うか 団結を役目の一つと取る 公式の教説 体の動きとふるまい 心はどこで働いているか 心を見えない物の一つと取る 表 1 『心の概念』第 1 章の三つの例と、ライルがそれを当てはめた公式の教説(本教材の整理) [2] 。 三人とも、何かを見落としたわけではありません。見たものと同じ列に、それらのまとまり方を表す語を、もう一つの物として並べてしまったのです。もっと見やすい型の誤りもあります。ライルの例では、ある女性が「涙の洪水と駕籠に乗って帰宅した」とは言えても、そこから「二つのものに乗って帰宅した」と推すのは誤りです(1949、22 頁) [2] 。SEP はこの乗り物をシボレーに変えて引いています [1] 。 ライルは、公式の教説も同じ型の誤りを犯していると見ます。人が賢くふるまうのを見て、その陰に、体の動きと並ぶ見えない心の出来事がもう一つあるはずだと考えるのです。これは、心を体と同じ種類の、ただ機械でない「半ば機械のような」ものとして描くことになります [1] 。 ここで間違えやすい カテゴリー錯誤を、事実の見誤り、たとえば大学の場所の勘違いと取るのは誤りです。大学を探す人は、何かを見落としたのではなく、すべてを見ています。誤っているのは語の種類の取り違えで、調べて見つかる事実の誤りではなく、意味が通るかどうかの誤りです [1] 。また、ライルが決まった数のカテゴリーの一覧を持っていたと取るのも誤りです。ライルは、語の型の数に限りは無いと考えました [1] 。 傾向とやり方の知――「信じている」は何を言うのか では、心の語は何を言っているのでしょうか。ライルは、本当か嘘かを言う文はみな、ある物がある性質を持つと述べるものだ、という思い込みを繰り返し退けました(1949、115 頁) [1] 。たとえば法則の文は、ある事実から別の事実へ推し、事実を説明し、望むことを起こすための「推論の切符」の役をする、とライルは言います(1949、117 頁) [1] 。 「ジョーンズは地球が丸いと信じている」という文も、これに似ています。一人の人を挙げる点で法則とは違いますが、何かを報告するより、ジョーンズが何をするかを推し、説明する役を持つ点で似ているのです [1] 。本教材のたとえで言えば、「このガラスは割れやすい」と言うとき、ガラスの中でいま何かが起きていると言うのではなく、石が当たれば割れる、ということを言っています (図 3) 。 「このガラスは割れやすい」 隠れた出来事として見ると ? 中に「割れやすさ」という 出来事があるのか? 虫めがねの人は本教材の作例 「このガラスは割れやすい」 傾向として見ると(ライル) もし石が当たれば、割れる 落とせば 砕ける 泳ぎ方を知っている =水に入れば泳げる ガラス・コップ・泳ぐ人は本教材の作例 図 3 「このガラスは割れやすい」の二つの見方です(本教材の作例)。一つ目は、ガラスの中に「割れやすさ」という見えない出来事を探す取り違えです。二つ目は、もし石が当たれば割れる、という条件の下でのなり行きとして読む、ライルの傾向の見方です。 ライルの例では、「ジョンはフランス語を知っている」は、ジョンがフランス語の新聞を読んで分かり、電話でも話が通じる、と推してよいという許しです。ただし、眠っているときや酔っているときにうまく答えられなくても、この言い方は取り下げません(1949、119 頁) [1] 。この文が満たされる仕方の一覧は終わりなく開かれていて、「想像する」のように、ふるまいに還元できない心の出来事も含みます [1] 。 ライルはまた、賢いふるまいの陰には必ず先に規則を思い浮かべる心の作業がある、という考えを「知性主義の伝説」と呼んで退けました [1] 。その作業も賢く行われたり下手に行われたりするので、その前にまた別の作業が要り、後戻りが終わらなくなるからです。ライルは、アリストテレスより前にも推論する人はいたし、クラウゼヴィッツより前にも戦略家はいた、と言います(1946 年の論文、233 頁) [1] 。規則は、すでに行われている上手なやり方から取り出されたものなのです。泳ぎ方を知っている人の頭に、泳ぐたびに泳ぎ方の説明が浮かぶわけではないのと同じです(本教材の作例)。 ここで間違えやすい ライルを行動主義者と取るのは、よくある誤解です。標準の読み方では、ライルは心の文を、さまざまな条件でどうふるまうかという「もし〜なら」の文に言い換えられると考えた、柔らかい行動主義者とされます。けれども SEP の著者は、この読み方は誤りだとします [1] 。ライルは心の語を一組の条件文に分析する計画を立てたのではなく、満たされ方の一覧が終わらないことも、ふるまいに還元できない出来事が含まれることも認めていたからです [1] 。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見たカテゴリー錯誤を、ライル自身が説明する『心の概念』第 1 章第 2 節から読みます。著者は 1976 年に亡くなり、日本では保護期間内のため、訳ではなく本教材の要約で示します。 ライル『心の概念』第 1 章 第 2 節 公式の教説の不合理 この節でライルは、公式の教説がなぜ不合理なのかを述べます。下の三つの段は、その要点を主張・理由・たとえの順にまとめた本教材の要約です。 1 ライルは、公式の教説の誤りは細部の誤りではなく原理の誤りで、カテゴリー錯誤だと論じます。 2 心についての事実を、本当は属さない種類の語の枠に入れ、体と