トマス・アクィナス――信仰と理性は調和する(五つの道・自然法) — Epoché
中世 スコラ哲学 約 25 分 本文 約 10,200 字 図 7・表 3 原典 2 節 この課の要点 信仰と理性・神の存在・自然法の 3 つ 信仰と理性 理性で知れること(神がいること、神が一であること)と、啓示でしか知れないこと(三位一体、受肉)がある。両者は同じ真理から出るので矛盾しない。哲学の言葉に信仰に反するものがあれば、それは理性のつまずきによる哲学の誤用だ、とトマスは書いた。 神の存在 「神がある」は、それ自体では自明だが私たちには自明でない。だからアンセルムスのように言葉の意味から示すことはできず、世界で見える結果から原因へさかのぼる。五つの道の第一は、動くものは他のものに動かされ、いま同時に支え合うその列は無限に続けられないので、動かされない第一の動かすものがある、と結ぶ(『神学大全』第 1 部第 2 問)。 自然法 実践の理性の第一原理は「善はなされ追求されるべきであり、悪は避けられるべきである」。何が善かは、人の自然の傾き(生命を保つ、子をもうけて育てる、神について真理を知り社会で生きる)の順に従って定まる(第 2 部の 1 第 94 問第 2 項)。本教材は、これをアウグスティヌスの永遠法とアリストテレスの目的論を一つにまとめた考えとして読む。 はじめに トマス・アクィナスは、1225 年ごろ、ローマとナポリのあいだにあるアクィノの近くで生まれました。ナポリで学ぶうちに、19 歳で新しいドミニコ会に入ります。反対した家族は一年ほど彼を家に留め置きましたが、最後は折れました [1] 。 その後トマスはパリで学び、1248 年からはケルンで、アルベルトゥス・マグヌスの下で学びました。アルベルトゥスは、神学をギリシアやアラビアの哲学と結び合わせた第一人者です。信仰は学問と深く関わることで得をする、という師の確信は、トマスのものにもなりました [1] 。 トマスはパリ大学で神学の教授を二度務め、『対異教徒大全』と『神学大全』のほか、アリストテレスの主な著作のほとんどへの注解を書きました。1274 年 3 月 7 日、フォッサノーヴァのシトー会修道院で亡くなります [1] 。 この課では、理性はどこまで神に届くのか、人は何をなすべきかをどう知るのか、の二つを読みます。どちらでもトマスは、理性に大きな仕事を任せながら、その限りもはっきり示しました。 この課の問い 前の編では、イスラームとユダヤの哲学者たちが、ギリシアの哲学と聖典の教えをどう両立させるかを問いました。ラテン語の世界に入ってきたアリストテレスの哲学は、キリスト教の信仰をおびやかすのでしょうか、それとも支えるのでしょうか。人は理性だけで、神がいることや、何をなすべきかを知ることができるのでしょうか。 この課のことば 自然理性 啓示の助けを借りず、人が生まれつき持つ考える力だけで進む推論。 啓示 人の理性では届かない真理を、神のほうから人に知らせること。 五つの道 『神学大全』で、世界の中の事実から神の存在を示す五つの論証。動き・原因・なくなりうるもの・度合い・目的から出発します。 現実態と可能態 いま実際にそうであること(現実態)と、まだそうでないが、そうなりうること(可能態)。冷たい薪は「熱くなりうる」ものです。 自然法 神が世界を治める計画(永遠法)に、理性をもつ人が自分の理性で参与すること。何をなし何を避けるべきかを見分ける、心の内の光です。 良知(シンデレーシス) 「善はなされるべきだ」のような実践の第一原理を、生まれつきの持ち前としてつかむ知性の働き。 神と存在――理性はどこまで神に届くのか 13 世紀には、アリストテレスの著作の多くがラテン語で読めるようになり、大学で教えられていました [1] 。トマスは、この新しい学問が信仰を支えると考えました。この章では、理性と啓示の分担、アンセルムスの証明を退けた理由、五つの道を順に読みます。 信仰と理性――理性で知れることと啓示でしか知れないこと トマスは、神について人が知りうる真理には二つの種類があると考えました。一つは、人の理性の力を超える真理です。神が三つの位格をもちながら一つであるという三位一体は、その例です。もう一つは、理性が届く真理です。神があること、神が一であることがこれに当たります(『対異教徒大全』第 1 巻第 3 章) [1] (図 1) 。 神についての真理 人はどの道で知るのか 理性で届く 神がある・神は 一である・神は 物体でない 理性を超える 三位一体・受肉 (啓示でしか 知れない) 同じ一つの真理 正しく使えば理性と啓示は 矛盾しない 理性で届く真理も啓示で教えられた(少数・長い 時・誤り) 図 1 神についての真理の二つの道(本教材の整理)。理性で届く真理と、理性を超えて啓示でしか知れない真理があり、どちらも同じ一つの真理から出ます。箇所は『対異教徒大全』第 1 巻第 3 章と『神学大全』第 1 部第 1 問第 1 項です。 啓示とは、人の理性では届かない真理を、神のほうから人に知らせることです。トマスによれば、人の生の究極の目的は、来世での救いです。その救いには、三位一体や受肉のように理性を超える真理を、いくらかでもつかむことが要ります。だから、理性を超える真理が啓示で知らされることが必要だった、とトマスは言います(『神学大全』第 1 部第 1 問第 1 項) [1] [2] 。 興味深いのは、理性で届く真理についても、啓示が要るとされることです。理性だけで探る神の真理は、「少数の人に、長い時を経て、多くの誤りを交えて」しか得られない、とトマスは理由を挙げます(同項) [1] [2] 。論証を自分でたどれるのは、時間と才能に恵まれたわずかな人だけです。理性だけに任せれば、ほとんどの人は救いに要る真理を知らないまま生きることになります。 では、哲学の結論が信仰の教えと食い違ったら、どうなるのでしょうか。トマスの答えは明快です。哲学者の言葉に信仰に反するものが見つかれば、それは哲学ではなく、理性のつまずきによる哲学の誤用だ、というのです。SEP は、ボエティウス『三位一体論』への注解からこの言葉を引いています [1] 。真理は一つなので、正しく使われた理性と啓示が矛盾することはない、という考えです。 ここで間違えやすい 「信仰と理性は調和する」を、信仰の中身をすべて理性で証明できる、という意味に取らないようにしましょう。トマスは、三位一体は自然理性では知れないと論じています(『神学大全』第 1 部第 32 問第 1 項) [2] 。逆に、理性で神の存在が示せるなら信仰は要らない、と取るのも誤りです。救いに要る真理の多くは理性を超えています [1] 。 アンセルムスを退ける――「神がある」は私たちには自明でない アンセルムスは、「それより大きなものを考えられない何か」という「神」の言葉の意味から、神の存在を示そうとしました。トマスは、この種の証明には証明としての力がないと考えます [1] 。理由を理解する鍵は、「自明」という言葉の二つの意味にあります。 「全体は部分より大きい」という文は、全体と部分の意味を知る人なら誰にでも自明です。これに対して、それ自体では自明でも、言葉の意味を知らない人には自明でない文もあります。トマスによれば、「神がある」は後者です。この文はそれ自体では自明です。しかし私たちは神が何であるかを知らないので、私たちには自明でありません(『神学大全』第 1 部第 2 問第 1 項) [2] (図 2) 。 それ自体では自明 「神がある」という文そのものは自明 だが神の本質を知らない 私たちは神が何であるかを知らない 私たちには自明でない 言葉の意味から示す道は使えない 結果から原因へ 神の結果である世界から、神がある ことを示す 五つの道へ 動き・原因・度合いなどから出発する 言葉の意味からは、知性の中にあることしか出てこない (第 1 項 第二異論への答え) 図 2 トマスが神の存在を結果から示す理由の流れ(本教材の整理)。点線の段が、ここから五つの道へ進むことを示します。箇所は『神学大全』第 1 部第 2 問第 1・2 項です。 アンセルムスへの答えは、二つに分かれます。一つ目に、「神」と聞いて、それより大きなものを考えられない何かを思い浮かべる人ばかりではありません。神を物体だと考えた人もいました。二つ目に、そう理解したとしても、そこから出てくるのは、それが知性の中にあることだけです。現実にあることまでは出てきません(同項 第二異論への答え) [2] 。 では、どう示せばよいのでしょうか。原因が何であるかを知らなくても、結果があれば、原因があることは示せます。トマスは、神の結果である世界から、神があることを示す道を取ります(同第 2 項) [2] 。雪の上に続く足跡を見れば、誰が歩いたかは分からなくても、歩いた誰かがいたことは言えます(本教材の作例)。なお、神がいることのように理性で論証できる事柄は、信仰の箇条ではなく、箇条に先立つ「前提」だとされます(同項 第一異論への答え) [2] 。 ここで間違えやすい トマスがアンセルムスの結論、つまり神がいることを否定した、と取るのは誤りです。トマスが退けたのは、言葉の意味から示すという証明の道です。また、トマスが「神がある」をまったく自明でないと言った、と取るのも不正確です。それ自体では自明だが、私たちには自明でない、というのがトマスの言い方です [2] 。 五つの道――動くものの列の先に、動かされない動かすもの トマスは『神学大全』第 1 部第 2 問第 3 項で、神の存在を示す五つの道を挙げます [1] [2] 。第一の道は、世界で何かが動いているという、感覚に明らかな事実から始まります。ここで「動く」とは、場所を移ることだけではありません。可能態から現実態へ移ることすべてです。冷たい薪は、熱くなりうるもの(可能態)です。それが現に熱い火によって、現に熱いもの(現実態)になります [2] 。 同じものが同じ点で、熱くしながら熱くされることはありえません。だから動くものは、他のものに動かされます。動かすものもまた動くなら、それも他のものに動かされます。トマスは、この列は無限には進めないと言います。第一の動かすものがなければ、途中の動かすものも動かさないからです。棒は、手に動かされなければ動かしません [2] 。棒が道具として動かす働きは、手の働きに依存しているのです。 過去へさかのぼる列 玉が玉を押して転がした 時間をさかのぼる 無限でないとは示せない いま同時に支える列 第一の道が言うのはこの列 動かされない動かすもの 動かされて動かす 手と棒はトマスの例 石と輪は本教材の描き方 図 3 第一の道が退ける無限はどちらの列か(本教材の絵)。一つ目の絵は過去へさかのぼる時間の列で、トマスはこれが無限でないことは理性では示せないと考えました。二つ目の絵は、いま同時に支え合う列です。トマスの例は手と棒で、石と光る輪は本教材の描き方です。過去の列についての読みは SEP によります。 ここで退けられている無限は、過去へさかのぼる時間の列ではない、と注釈家たちはおおむね読んでいます。退けられるのは、いま同時に支え合う原因の列の無限です [1] (図 3) 。絵では、時間の列を玉の列で、同時の列を手と棒と石で描きました。トマスの文の例は手と棒だけで、石は本教材が付け足したものです。 ほかの四つの道も、同じ形をしています。原因の順序、なくなりうるものと必然のもの、善さや真の度合い、知をもたない物が目的に向かうこと、から出発します。そして、いずれも「皆が神と呼ぶもの」で結びます [1] [2] (表 1) 。 この表で分かること: 五つの道は、どれも世界で見える事実から出発し、無限に続かない列や度合い・秩序を経て、「皆が神と呼ぶもの」で結ぶ同じ形をしています。 道 出発する事実 鍵の一歩 行き着く所 第一(動) 動いているものがある 動く列は無限でない 動かされない動かすもの 第二(作用因) 原因の順序がある 原因の列は無限でない 最初の作用因 第三(偶然と必然) なくなりうるものがある 何もない時を経て今も無に 自ら必然であるもの 第四(段階) より善い・より真がある 度合いには最大がある すべての善さの原因 第五(目的) 知の無い物が的に向かう 射手が矢を向けるように すべてを目的へ導く知性 表 1 五つの道の形(本教材の整理)。箇所は『神学大全』第 1 部第 2 問第 3 項です [2] 。第三の道は、どれもなくなりうるなら、かつて何もない時があり、それなら今も何もないはずだ、と進みます。 この結び方は慎重です。最初の動かすものがあると示しても、それが神と呼ぶにふさわしいとはまだ言えません。それが物体でないこと、単純であること、無限で永遠であることは、続く問いで示されます(第 1 部第 3〜11 問) [1] 。 ここで間違えやすい 五つの道を、宇宙の始まりへ時間をさかのぼる「最初のひと押し」の議論だと取らないようにしましょう。トマスは、世界が時間の始まりをもつことは、理性では論証できないと考えていました [1] 。第一の道が言うのは、いま動いているものを、いま同時に支えている第一の動かすもののことです。 倫理と法――何をなすべきかを、人はどう知るのか トマスの考えでは、神は世界のすべてをそれぞれの目的へと秩序づけています。『神学大全』第 2 部は、人がその目的へ向かう行為や、徳・法などを扱います [1] 。この章では、法の四つの種類、自然法の第一原理、人の自然の傾きを順に読みます。 法の四つ――永遠法・自然法・人定法・神法 トマスは法を次のように定めます。法とは、共同体の世話をする者が、共通善のために定めて公布した、理性の命令だ、というのです(『神学大全』第 2 部の 1 第 90 問第 4 項) [2] 。共通善とは、ある人だけでなく、共同体の皆にとってよいことです。この定義の要は、法がまず理性の働きだという点にあります。 そのうえでトマスは、人の正しい行いを導く法を四つに分けます。神が世界を治める計画が永遠法です。理性をもつものがそれに参与するのが自然法です。人の理性が自然法から具体的に定めるのが人定法、聖書を通して示されたのが神法です(第 2 部の