マルクス――社会のあり方が意識を決める(唯物史観・疎外) — Epoché
近代 功利主義と社会思想 約 28 分 本文 約 11,800 字 図 7・表 2 原典 2 節 この課の要点 労働・歴史・資本の 3 つ 労働 資本主義の社会で働く人は、作った物・働く活動・他人・自分の人間としての本性から引き離されている、とマルクスは見る(『経済学・哲学草稿』1844 年)。働くことを必要悪と見ず、本来は自分を実現する営みと見るから、この引き離しを強く責める。 歴史 考えが社会を決めるのでなく、物を作る力とその関係が社会の形を決め、そこから考え方が出てくる。生産関係が生産力の足かせになると、社会革命の時代が始まる(『経済学批判』序言 1859 年)。ただし、この図式の読み方には対立がある。 資本 資本家は働く人の労働力を一日分買い、働く人は賃金に見合う分を超えて働く。その超えた分の剰余価値が利潤の源だ、とマルクスは言う(『資本論』第 1 巻)。土台の労働価値説には強い批判がある。 はじめに カール・マルクスは、哲学から出発して経済と歴史の研究へ進んだ 19 世紀の思想家です [1] 。 前の課のフォイエルバッハは、人間が神を自分の姿に似せて作り出した、と論じました。マルクスはこの逆転をそっくり受け入れます。宗教を「民衆のアヘン」、つまり幻を生む害のある痛み止めと呼んだのも、この流れの中の言葉です(MECW 3: 175) [1] 。 けれどもマルクスは、フォイエルバッハが、人がなぜ宗教の疎外に陥るのかを説明できていない、と考えました。マルクスの答えでは、宗教は物質の生活の中の疎外への応答で、その生活が解き放たれるまで消えません [1] 。 この課では、マルクスが物質の生活のどこに目を向けたかを、二つの章で読みます。第 1 章は 1844 年の草稿の、働くことの疎外です。第 2 章は 1859 年の『経済学批判』の序言を中心とする歴史の見方と、『資本論』の利潤の説明です。 この課の問い 働くことは、本来は人が自分を表し育てる営みのはずです。それなのに、なぜ多くの人にとって、働く時間は自分でない時間になるのでしょうか。そして人の考え方は、社会のどんなあり方から生まれてくるのでしょうか。 この課のことば 疎外 本来ひとまとまりであるはずのもの(人と、その人が作った物・活動・他人・自分の本性)が引き離され、その離れ方が害になっている状態です。 類的本質 人間を人間にしている共通の本性です。マルクスは、仲間と共に生きる力と、自由に、意識して、創り出す仕方で働く力をここに見ます。 生産力 物を作り出す力です。土地や技術などの生産手段と、人の力や知識(労働力)を合わせたものを言います。 生産関係 物を作るときに人と人が結ぶ関係です。誰が道具や土地を持ち、誰が働き、作った物が誰のものになるか。その全体が社会の経済の構造で、序言はこれを土台と呼びます。 上部構造 経済の構造の上に立つ、法律と政治の制度です。宗教・芸術・道徳・哲学の考え(イデオロギー)も、経済の構造から説明されます。 剰余価値 働く人が、自分の賃金に見合う分を超えて働いた時間が生む価値です。マルクスはこれを、すべての利潤の源と見ます。 疎外された労働――働くことは、なぜ自分のものでなくなるのか マルクスは宗教の疎外から大きな示唆を得ましたが、より多くの力を注いだのは、働くことの疎外でした [1] 。1844 年の草稿の、よく論じられる箇所で、マルクスは今の資本主義の社会の労働に、四つの面の疎外を見ています(MECW 3: 270〜282) [1] 。この章では、作った物と働く活動からの疎外、他人と自分の本性からの疎外、そして疎外されない労働の姿を、順に読みます。 作った物と働く活動から引き離される――働く時間は誰のものか まず、 疎外 という語を確かめましょう。疎外とは、本来ひとまとまりであるはずの主体と対象とが引き離され、その離れ方が害になっている状態です [1] 。どんな分離も疎外なのではありません。大人になって親元を離れて暮らすことは、ふつう害ではありません。疎外を言うには、何が本来のまとまりなのかという、もとの調和の基準が要ります [1] 。 マルクスの挙げる一つ目は、作った物からの疎外です。じかに物を作る人は、自分が持ちも支配もしない物を作ります。その物は、かえって作り手を支配するようになります [1] (図 1) 。マルクスが後に「物神崇拝」と呼ぶ事態、つまり人の作ったものが人の手を逃れ、独り立ちしたように見えて人を押さえつけることは、これと同じではありません。SEP は、それは疎外の一つの形だと注意しています [1] 。 じかに物を作る人 今の資本主義の社会で働く人 ① 作った物から 持ちも支配もできず、かえって作り手を 支配する ② 働く活動から 心と体をすり減らす仕方で働くよう 強いられる ③ 他の人々から 互いをただ自分の目的の手段と 見るようになる ④ 人間の本性から 共に生きる力と、自由に意識して作る 力が妨げられる 図 1 働く人の四つの疎外です。区分は草稿の「疎外された労働」の箇所(MECW 3: 270〜282)により、番号の付け方は SEP に従います [1] 。一番下の④の人間の本性についての見方が、上の①〜③の分離を「害」と見なす基準になります。 二つ目は、生産の活動そのものからの疎外です。働く人は、心や体をすり減らす仕方で働くよう強いられています [1] 。作った物が自分のものにならないのは、作る活動がもともと自分のものになっていないからだ、と読むことができます(本教材の読み方)。働いている間は自分でなく、働いていないときにだけ自分に戻る、という経験を草稿は描いており、その箇所は原典を読むで要約します (図 2) 。 働いているとき 持ち主は別の人 自分でない 流れは機械が決める 作った物は手を離れて積み上がる 働いていないとき 夜 やっと自分に戻る 仕事の外でだけ、自分のもとにいる 図 2 同じ一人の二つの場面です(本教材の絵)。一つ目は働いているとき、二つ目は働いていないときで、自分に戻れるのは仕事の外だけです。働く人の実感は草稿によるもので、工場・時計・積み上がる箱・食卓は本教材の描き方です。 本教材の作例で考えてみます。工場の流れ作業で、一日じゅう同じねじを締める人がいます。そのねじの入った製品は毎日いくつも出荷されますが、その人のものになる品は一つもありません。手を動かす速さは機械の流れが決めます。終業の合図が鳴り、家で食事をするときにだけ、その人は自分に戻った気がします。流れ作業そのものが悪いのかどうかは、三つ目の節で考えます。 注意したいのは、これが給料や労働時間の不満とは別の話だという点です。SEP によれば、ここで言う疎外された労働は、ふつうはそうでないにせよ、給料がよく、時間が短く、職が安定していることもありえます [1] 。問題は額や長さではなく、物と活動から本来の結びつきが断たれていることなのです。 ここで間違えやすい 疎外を「給料が安い」「仕事がきつい」と同じだと取るのは誤解です。給料のよい短い仕事でも、疎外はありえます [1] 。また、疎外を機械や技術のせいと取るのも外れています。マルクスは原因を、技術ではなく資本主義の社会の関係に見ます(三つ目の節) [1] 。 他人と自分の本性から引き離される――四つ目が基準になる 三つ目は、他の人々からの疎外です。今の経済の関係は、人が他人をただ自分の目的の手段と見るように育てます [1] 。市場では、他人は自分の物を買う客か、自分を雇う者か、競う相手として現れがちです(本教材の言い換え)。 本教材の作例を挙げます。売った額で給料が決まる店で、二人の店員が客を奪い合います。休み時間にも、相手は仲間でなく競争相手に見えます。家では、二人とも友だち思いの人です。マルクスの言う疎外は、こうした人柄の問題ではありません。働く仕組みが、人と人の関わり方を形づくることを指しています。 四つ目は、自分の人間としての本性からの疎外です。人間には、共同で生きる力と、自由に、意識して、創り出す仕方で働く力があります。今の資本主義の関係は、その両方を妨げる、とマルクスは見ます [1] 。この人間の本性を言う語が 類的本質 で、フォイエルバッハから受け継いだ言葉です。フォイエルバッハは宗教が人を類的本質から引き離すと言いました。マルクスは、同じ引き離しを働く場に見ます [1] 。 SEP の読みで大切なのは、四つの疎外が対等に並んでいるのではない、という点です。作った物・活動・他人からの分離が「害」だと言えるのは、四つ目の、人間の本性についての主張があるからです [1] (図 1) 。人間は本来、共に生き、自由に創り出す者だという見方が、ほかの三つを測る物差しになっています。 だから人間観が違えば、答えも変わります。人間は生まれつき孤独で利己的だ、と考える人を思い浮かべてください。その人は、資本主義の働き方が人を孤立させ利己的にすることを認めても、それを疎外とは呼ばないでしょう。その人の基準からすれば、本性は損なわれるどころか、むしろ伸ばされているからです [1] 。 共同で生きる本性は、宗教とも結びついています。人は互いに頼り合う大きな網の中で生きていますが、日々の暮らしではそれをほとんど認めません。マルクスの見方では、この共同の本性は、まず宗教によって、神の前の平等という偽りの共同体の形で、遠回しに認められます。宗教が分裂した後は、近代の国家が、法の前の平等という形でその役を担います。本当の共同体ができれば、宗教も政治の国家も乗り越えられる、とマルクスは考えました [1] 。 ここで間違えやすい 「類的本質から引き離される」を、目に見えない魂を失うことのように取るのは誤解です。ここで言う人間の本性は、共に生きる力と、自由に意識して創り出す力という具体的な力です [1] 。また、四つの疎外を、別々に起こる四つの不幸と取るのも外れています。四つ目の人間観が、ほかの三つを害と見なす基準になっています。 疎外されない労働――働くことは本来、自分を実現すること マルクスは、労働は創造的で満ち足りたものになりうると考えました。だから、働くことを必要悪と見る考えを退けます。働くことのつらさは人間の宿命で、社会をどう変えても治らない、という見方を認めないのです [1] 。マルクスにとって、物を作る活動は人間であることの中心にあります。労働を通して自分を実現することは、人がよく生きるために欠かせません [1] 。 ここから、マルクスの批判の激しさも理解できます。別の社会でなら働くことは満ち足りたものになりうる、とマルクスは考えました。だからこそ、今の経済が働く人を「非人間化された」者に変えることを強く責めたのだろう、と SEP は言います(MECW 3: 284) [1] 。 では、疎外されない労働とはどんなものでしょうか。研究者カンディヤリ(2020 年)の図式的な整理では、目印は四つです [1] (図 3) 。自由に選ばれること、人間の本質の力を育てて使うこと、他人の必要を満たすためであること、その他人からふさわしく認められることです [1] 。これはマルクス本人の列挙ではなく、研究者の整理です。 疎外された労働 疎外されない労働 選び方:強いられる 選び方:自由に選ぶ 力:心と体を すり減らす 力:本質の力を 育てて使う 誰のため:他人は ただの手段 誰のため:他人の 必要を満たす 認められ方:作った 物が手を離れる 認められ方 :ふさわしく 認められる 原因は技術でなく社会の関係にある、とマルクスは 見ます。 図 3 疎外された労働と疎外されない労働の対比です。右の列の四つの目印は研究者カンディヤリ(2020 年)の整理で、マルクス本人の列挙ではありません [1] 。ねじ締めと本棚の例は本教材の作例です。 本教材の作例で比べてみます。一つ目の節のねじを締める人が、休みの日に、友だちの引っ越しのために本棚を作ります。形は自分で決め、のこぎりの腕をふるい、友だちの本の大きさに合わせて棚の高さを決めます。友だちは本を並べて「使いやすい」と喜びます。木と道具を使う点は工場と同じでも、ここには四つの目印がそろっています。 疎外の原因はどこにあるのでしょうか。マルクスは、それが資本主義の社会の関係から生じるのであって、技術の進歩から生じるのではない、と考えます [1] 。工業と技術こそが悪者で、資本主義の前の共同体の暮らしを壊した、という「ロマン主義の資本主義批判」に、マルクスはほとんど関心を示しません。むしろブルジョアジーが封建の関係を壊したことを称え、工業と技術を、社会の問題の原因でなく解決の一部と見ます [1] 。 ただし疑問も残ります。共産主義の社会も大規模な工業で物を作るはずなのに、なぜ働くことの疎外を避けられるのでしょうか。この疑問への応答は、マルクス本人ではなく、後の研究者から出されてきました [1] 。マルクスは未来の社会を細かく描くことを自分に禁じていたので、この問題に正面から向き合えなかったのです [1] 。 ここで間違えやすい マルクスを「働かないほうがよい」と説いた人と取るのは誤解です。マルクスは労働そのものを、人がよく生きるのに欠かせない営みと見ています [1] 。また、機械を憎み、昔の手仕事の村に戻れと言ったと取るのも外れています。批判の的は技術ではなく、社会の関係です [1] 。 唯物史観と資本――社会を動かすのは、考えか、物を作る仕方か 第 1 章で、疎外の原因は技術でなく社会の関係にある、と読みました。では、社会の関係そのものはどこから来て、どう変わるのでしょうか。マルクスは歴史の理論を詳しく書き残さなかったので、いくつもの文章から組み立てるしかありません [1] 。この章では、1845 年ごろの早い述べ方、1859 年の序言の定式、そして『資本論』の利潤の説明を、順に読みます。 現実の人間から始める――世界は活動で作り変えられる 1845 年の「フォイエルバッハに関するテーゼ」で、マルクスは、これまでのすべての唯物論と観念論に不満を述べます。ここでの唯物論と観念論は、哲学の理論の型の名です [1] 。唯物論は、世界の物としての現実をとらえた点でほめられます。しかし、私たちの見る世界を作り出す、人間の主体の