タレス――万物の始まりは水、と伝えられる(アルケー) — Epoché
古代 ソクラテス以前の哲学 約 15 分 本文 約 6,000 字 図 4・表 1 原典 1 節 この課の要点 始まり・理由・魂と神々の 3 つ 始まり 万物がそこから生じる始まり(アルケー)を「水」という一つのものに求めたと、アリストテレスは伝えています。 理由 水を選んだ理由について、アリストテレスは「おそらく」と断ったうえで、養分や種子がみな湿っていることからだろうと推測しました。 魂と神々 磁石に魂があると言ったと伝えられます。別の箇所でアリストテレスは、魂が万物に混ざっているという説から、タレスが「万物は神々に満ちている」と考えたのだろうと推測しました。 はじめに タレスは、小アジア西岸にあったギリシア人の町ミレトスの人で、前 6 世紀の前半に活動しました。生まれた年も亡くなった年も、確かなことは分かっていません。ヘロドトスは、リュディアとメディアの戦いの年に起きた日食を、タレスがイオニア人に予言していたと伝えています(『歴史』1.74) [4] 。後代の伝承では前 585 年の日食とされますが、研究者は予言そのものを疑っています [7] 。プラトンは、星を見上げていたタレスが井戸に落ち、召使いの女にからかわれたという逸話を、ソクラテスの口から語らせています(『テアイテトス』174a) [5] 。 タレス本人の著作は伝わっていません。そもそも本を書かなかったとも伝えられます [7] 。私たちの手元にあるのは、後代の人々がタレスについて書き残した記録だけです。それらはディールスとクランツの資料集の第 11 章に、「A」の番号を付けて集められています。この課で読む『形而上学』の箇所は、11 A 12 に当たります [6] 。 前の課では、原文と翻訳と解説を見分けました。この課では、本人の言葉、後代の証言、研究者の解釈を見分けます。そのため本文では、言い方を三つに書き分けます。後代の記録が伝えることには「と伝えられます」、伝え手が推し量ったことには「とアリストテレスは推測しました」、研究者の読みには「と読む研究者もいます」を付けます。タレス本人の確かな言葉は一つも残っていないので、鉤括弧でタレスの言葉を示すことはしません。 この課の問い 身の回りのさまざまなものは、もとをたどると何から生じたのでしょうか。そして、本人の言葉が一つも残っていない思想を、私たちはどこまで知ることができるのでしょうか。 この課のことば アルケー(始まり・原理) ものごとがそこから生じ、それによって説明される、いちばん元のもの。 質料 ものが何でできているかという、材料にあたるもの。アリストテレスの用語です。 証言 本人ではない後代の人が、本人の考えを伝えたり要約したりした記録。 断片 後代の書物に引用されて残った、本人の言葉そのもの。タレスには確かな断片がありません。 魂(プシュケー) 当時のギリシア語で、ものを生かし、動かすはたらき。今の「心」より広い語です。 水のアルケー――万物は何から生じるのか 水という始まり――万物を一つのもので説明する タレスについての記録のうち、いちばんまとまっているのは、前 4 世紀のアリストテレスが『形而上学』第 1 巻に書いた一節です。アリストテレスはそこで、万物がそこから生じる始まりを 材料のかたちで立てた最初の人 として、タレスを描きました(A 巻 3 章 983b6–21) [1] 。 アリストテレスの筋道は三段に分かれます。第一に、最初に哲学した人々の多くは、材料のかたちの始まりだけを考えた、と言います(983b6–8)。第二に、万物がそこから生じ、最後にはそこへ滅びていくものを、彼らは「要素」や「始まり」と呼んだ、と説明します(983b8–11)。第三に、その種の哲学の創始者としてタレスは水を挙げ、大地も水の上にあると言った、と伝えます(983b20–22) [1] 。 変わらずに残るものとは何かを、アリストテレスは人の例で説明しています。アリストテレスの例では、ソクラテスが美しくなっても、音楽の素養を身につけても、ソクラテスそのものが生じたり滅びたりするわけではありません。それと同じく、ものが移り変わっても、変わらずに残る何かがある、というのです(983b13–17) [1] 。アリストテレスのいう「始まり」とは、そうして残り続ける材料のことです。 直後でアリストテレスは、古い神話にも触れます。オケアノスとテテュスを生成の親とし、神々が水(ステュクス)にかけて誓うとした古い神学者たちも、同じ考えだったと見る人々がいる、と並べるのです。ただし、その考えが本当に古いかははっきりしない、と留保します。そのうえで、タレスは第一の原因についてこう表明したと「言われている」と結びます(983b27–984a3) [1] (図 1) 。 1 タレス本人の言葉(前 6 世紀) 残っていない。この段は空のまま 2 伝聞:〜と言われている 後代の人々が語り伝えた話 λέγεται 3 アリストテレスの整理(前 4 世紀) 材料のかたちの始まり=水 証言 DK 11 A 12 などとして集められた 札:四原因の枠(この枠から振り返る) 材料・動かすもの・形・目的 図 1 タレスの考えが私たちに届くまで。いちばん上の「本人の言葉」の段は空のままです。私たちが読めるのは、伝聞を経て、アリストテレスが四原因の枠で整理した姿です。 「アルケー」という呼び名にも注意が要ります。この語をタレス自身が使ったかどうかは、確かではありません。シンプリキオスは、アナクシマンドロスを「この名を最初に持ち込んだ人」と伝えています(『アリストテレス「自然学」注解』24.13 以下、DK 12 A 9) [7] 。ただし、ここでいう名が「アルケー」の名なのか、「ト・アペイロン」の名なのかは、研究者の読みが分かれます [8] [9] 。 ここで間違えやすい 「材料の原因」や「アルケー」は、アリストテレスが自分の四原因の枠から振り返って付けた呼び方です。四原因とは、材料・動かすもの・形・目的の四つです。タレス本人がこの枠で考えていたとは言えません。図 1 のいちばん下の札が、その枠を示しています。 なぜ水なのか――アリストテレスの推測 では、なぜ水なのでしょうか。その理由についてのタレス本人の説明は、残っていません。アリストテレスは「おそらく」( ἴσως )と断ったうえで、理由を推し量っています(A 巻 3 章 983b22–27) [1] 。 推測の中身は、三つの観察です (図 2) 。第一に、万物の養分は湿っています。第二に、熱そのものも湿ったものから生じ、それによって生きています。第三に、万物の種子は湿った本性をもち、水は湿ったものにとって、その本性の始まりです。こうしたことを見てタレスは水を始まりとしたのだろう、とアリストテレスは推測しました [1] 。 理由の部分は、まるごとアリストテレスの推測 です。 アリストテレスの推測 ἴσως おそらく 養分 万物の養分は 湿っている 熱 熱も湿りから 生じ、生きる 種子 種子は湿った 本性をもつ 水が万物の始まり タレスの答えと伝えられるもの 観察も、そこから水への筋道も推測 図 2 水を選んだ理由として、アリストテレスが推し量った筋道。破線の枠の中は、上の三つの観察も、そこから下へ集まる線も、すべてアリストテレスの推測です。残っているのは、結論にあたる、水という伝えだけです。 本教材の作例で、この推測の感じをつかんでみます。乾いたままの豆は、何日置いても芽を出しません。ところが水に浸すと、やがて芽を出します。生き物が育つところには、いつも湿り気があります。アリストテレスの推測が想定しているのは、こうした身近な観察から水へ向かう道筋です。 大地については、別の伝聞もあります。『天について』に、大地は木切れのように水の上に浮かぶという話が出てきます。アリストテレスは、そうタレスが言ったと「人々は言う」と書いています(II 巻 13 章 294a28–31、 ὅν φασιν εἰπεῖν Θαλῆν ) [3] 。そのうえでアリストテレスは、では大地を支える水は何の上にあるのか、と批判します [3] 。ここでも、タレスの考えは「人々は言う」という伝聞の形でしか届いていません。 ここで間違えやすい 三つの観察から水へ至る筋道は、アリストテレスの推測です。タレスが観察を集めて水にたどり着いた、という論証が残っているわけではありません。図 2 の破線の枠は、その全体が推測であることを示しています。 万物は神々に満ちている――魂についての二つの証言 アリストテレスは『魂について』でも、タレスに二度触れています。ただし、二つは 別々の箇所 で、文脈も違います [2] (図 3) 。 一つ目は第 1 巻 2 章です。人々が覚えて伝えることによれば、タレスは、磁石は鉄を動かすから魂をもつ、と言ったと伝えられます(405a19–21) [2] 。ここでいう魂(プシュケー)は、今の「心」より広く、ものを生かし、動かすはたらきを指します。アリストテレスは同じ箇所で、そこからするとタレスも魂を、ものを動かすはたらきと考えたらしい、とアリストテレスは推測しました [2] 。 この伝えの中で、タレスに帰されている例が磁石です。アリストテレスは単に「石」と書いています。磁石は、触れずに鉄を引き寄せて動かします。手で押したわけでもないのに、鉄のほうが動きます。伝えられる考えでは、何かを動かすものには魂があることになります。 磁石と鉄 磁石は鉄を動かす。 だから魂をもつ、と 言ったと伝わる 伝聞・405a19–21 ここから下は別の箇所 魂は全体に混ざっている ある人々の説 おそらく、万物は神々に満ちて いると考えたのだろう アリストテレスの推測・411a7–8 図 3 魂についての二つの証言。上の磁石の話は伝聞で、下の神々の話はアリストテレスの推測です。上下は別の箇所にあり、矢印ではつながっていません。上の枠の文も、タレスの言葉ではなく伝えの中身です。 二つ目は第 1 巻 5 章です。アリストテレスは、魂が全体に混ざっていると言う人々の説に触れます。そして、タレスも「おそらく」そこから、万物は神々に満ちていると考えたのだろう、と推測しました(411a7–8) [2] 。 この二つを合わせて、始まりの水そのものに動く力が初めから備わっていた、とタレスが考えたと読む研究者もいます。しかしそれは、研究者の推測です [7] 。水と魂と神が等しいとタレスが言った、という証言はありません。 ここで間違えやすい 万物は神々に満ちている、という伝えを、磁石の話から推論された結論と読まないでください。二つは別の箇所の、別の証言です。また、動きの源を自然の内に求める見方と読む研究者もいます [7] 。けれども、タレス本人がそう結びつけたという証言はありません。 歴史の注意:「最初の哲学者」という呼び名 タレスを「このような哲学の創始者」と呼んだのは、アリストテレスです(983b20) [1] 。この呼び名は、四原因のうち材料の原因から歴史を並べる、アリストテレスの枠に依っています [7] 。また研究者は、アリストテレスの論評が、タレスの考えを直接知ったうえでのものには見えない、と指摘しています [7] 。「最初の哲学者」は、後から振り返って付けられた位置づけとして読む必要があります。 原典を読む 主張の章に対応して、『形而上学』の一節を読みます。ギリシア語の原文から本教材が訳しました。 『形而上学』A 巻 3 章 タレスは水を挙げた 第 1 巻 3 章で、アリストテレスは四つの原因を立てます。その直後に、先人たちがどの原因に触れたかを点検していきます。この一節はその点検の最初で、タレスは列の先頭に置かれています。 1 このような始まりの数と種類について、皆が同じことを言うわけではない。 2 そのうち、このような哲学の創始者タレスは、それは水だと言う(だからこそ、大地も水の上にあると表明した)。 3 彼がこの考えを得たのは、おそらく、万物の養分が湿っていて、熱そのものもそこから生じ、それによって生きているのを見たからであろう(あるものが生じてくるそのもとが、万物の始まりである)。 4 また、万物の種子が湿った本性をもち、水が湿ったものにとってその本性の始まりであることからも、この考えを得たのであろう。 5 ……ともかく、タレスは第一の原因についてこのように表明したと言われている。 τὸ μέντοι πλῆθος καὶ τὸ εἶδος τῆς τοιαύτης ἀρχῆς οὐ τὸ αὐτὸ πάντες λέγουσιν, ἀλλὰ Θαλῆς μὲν ὁ τῆς τοιαύτης ἀρχηγὸς φιλοσοφίας ὕδωρ φησὶν εἶναι (διὸ καὶ τὴν γῆν ἐφʼ ὕδατος ἀπεφήνατο εἶναι), λαβὼν ἴσως τὴν ὑπόληψιν ταύτην ἐκ τοῦ πάντων ὁρᾶν τὴν τροφὴν ὑγρὰν οὖσαν καὶ αὐτὸ τὸ θερμὸν ἐκ τούτου γιγνόμενον καὶ τούτῳ ζῶν (τὸ δʼ ἐξ οὗ γίγνεται, τοῦτʼ ἐστὶν ἀρχὴ πάντων)—διά τε δὴ τοῦτο τὴν ὑπόληψιν λαβὼν ταύτην καὶ διὰ τὸ πάντων τὰ σπέρματα τὴν φύσιν ὑγρὰν ἔχειν, τὸ δʼ ὕδωρ ἀρχὴν τῆς φύσεως εἶναι τοῖς ὑγροῖς. …… Θαλῆς μέντοι λέγεται οὕτως ἀποφήνασθαι περὶ τῆς πρώτης αἰτίας. 原典 1 アリストテレス『形而上学』A 巻(第 1 巻)3 章 983b18–27・984a2–3(間を省略。DK 11 A 12)。底本は W. D. Ross 校訂版(Oxford: Clarendon Press, 1924)で、Perseus Digital Library の電子版で本文を照合しました [1] 。原文の 2 文を、読みやすいように 5 つに分けて訳しました。 読み解き