ドゥンス・スコトゥス――個物には「このもの性」がある(存在の一義性・個体化) — Epoché
中世 スコラ哲学 約 17 分 本文 約 7,200 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 一義性・個体化・このもの性の 3 つ 一義性 「ある」などの概念は、神にも被造物にも同じ一つの意味で言える。私たちの概念はみな被造物から得るので、神に使える概念もそれと同じものしかない、とスコトゥスは論じた(Ord. I d.3)。神と被造物の違いは、有限と無限という度合いの違いに置かれる。 個体化 ソクラテスにもプラトンにも同じ「人であること」がある。この共通本性は心の外にもあるが、いつも個物の中で「この一つ」に縮められている。縮めるものが、スコトゥスの説で「このもの性(haecceitas)」と呼ばれる(SEP 3.3)。 このもの性 このもの性は本性と別に取り出せる物ではなく、本性を個に定める積極的な規定である。同じ強さの白を二つ同じ場所に重ねても、それぞれは「これ」のままだが、この世の私たちの感覚はそれを見分けられない(QMet VII q.15)。 はじめに ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは、13 世紀の終わりから 14 世紀の初めに生きたフランシスコ会の神学者です。「スコトゥス」は「スコットランドの人」という意味で、家の名のドゥンスは、イングランドとの境に近い生まれ故郷の村の名でもあります [1] 。 オックスフォードとパリでペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を講じ、パリで神学の教授を務めたのち、1308 年にケルンで亡くなりました [1] 。講義は何度も書き直され、自分で公にするために整えた『オルディナティオ』が主著とされます [1] 。 前の課のトマスは、神と被造物に使う言葉を「類比的」、つまりつながりはあるが違う意味だと考えました。スコトゥスはこれに異を唱えます。この課では、①「ある」は神にも石にも同じ意味で言えるか、②ソクラテスを「この人」にしているのは何か、という二つの問いを順に読みます。 この課の問い 「神がある」「石がある」の「ある」は、同じ意味なのでしょうか、違う意味なのでしょうか。そして、ソクラテスもプラトンも同じ「人」であるなら、ソクラテスを、ほかの誰でもない「この人」にしているのは何なのでしょうか。 この課のことば 存在の一義性 「ある(存在)」という概念が、神にも被造物にも、まったく同じ一つの意味で言えるという考えです。たとえば「神がある」と「石がある」の「ある」は同じ意味だ、とします。 類比 同じ言葉が、まったく同じ意味でも、まったく別の意味でもなく、つながりを持った違う意味で使われることです。トマスは神と被造物に使う言葉をこう見ました。 超越概念 有限と無限の区別や、実体・量・質などの十のカテゴリーの区別を越えて言える概念です。「ある」がその代表で、「一」「真」「善」も「ある」と同じ広さを持ちます。 共通本性 ソクラテスにもプラトンにもある「人であること」です。それ自体では一人に限られず、どれだけの数の個物にあってもかまいません。スコトゥスはこれが心の外にもあると考えました。 このもの性(ハエッケイタス) 共通本性を「この一つ」に縮めて、ソクラテスをソクラテスにする積極的な規定です。「これ」を意味するラテン語 haec と結びつけて理解される呼び名です。 形相的区別 別々の物として切り離せはしないが、私たちが考える前から中身の上で違っている、というときの区別です。物どうしの区別と、頭の中だけの区別のあいだに置かれます。 「ある」と「この」――同じ意味の存在と、ただ一つの個物 トマスの世代のあとで、スコトゥスは言葉と概念をいっそう細かく分けて考えました。この章では、まず「ある」が神にも被造物にも同じ意味で言えるかを読み、次に、個物を個物にするのは何かという問いと、その答えの「このもの性」を読みます。 存在の一義性――「ある」は神にも石にも同じ意味で言える スコトゥスとトマスは、出発点では一致しています。私たちの知識はすべて、感覚で出会う被造物から始まります。だから神については、結果から原因へさかのぼる論証でしか知ることができず、この世では神の本質そのものを知ることはできません [1] 。違うのはその先です。トマスは、神に使う言葉は被造物に使うときと、つながりはあるが違う意味を持つとしました(類比)。スコトゥスは、ある述語は神にも被造物にも 一義的 に、つまりまったく同じ意味で言えると考えました [1] 。 スコトゥスは『オルディナティオ』第 1 巻第 3 区分で、この一義性のために幾つもの論証を立てています [1] [2] 。中でも強いのは、トマス自身の考えを逆手に取る論証です (図 1) 。トマスは、私たちの概念はみな被造物から得られると言いました。スコトゥスもそれを認めます。では、神に使う「類比の概念」はどこから来るのでしょうか。被造物から得た概念しか持てないなら、神に使う概念も、被造物から得た概念に似たものではなく、それと 同じ 概念でなければなりません。そうでなければ、私たちは神について何一つ語れないことになります。しかし実際には語れるのだから、同じ概念を使っているのだ、という運びです [1] 。 ① 前提 私たちの概念はみな被造物から得る (トマスも認める) ② 問い では、神に使う類比の概念はどこから 来るのか ③ 答え 被造物から得た、まさに同じ概念しか ない ④ 一義 同じ概念を神にも使う。違いは有限と 無限の度合い 図 1 スコトゥスが、トマス自身の前提から一義性を導く論証の流れです(本教材の整理。Ord. I d.3 p.1 qq.1–2 について SEP 2.1 の紹介による)。 もう一つの論証は、アンセルムスの考えを借ります。「あるほうが、あらゆる点でないよりよい」述語、たとえば「善い」「賢い」は、限りを含まないので神に帰すことができます。スコトゥスはこれを 純粋な完全性 と呼びます。けれど、この試験をするには、まず被造物から「善い」の概念を作り、それがどの点でもよいかを確かめ、そのうえで同じ概念を神に帰すほかありません。試験に使う概念と神に帰す概念が違えば、試験は意味を失います [1] 。 では神と被造物の違いはどこに残るのでしょうか。スコトゥスは、神は同じ完全性を無限に、被造物は限られた仕方で持つと考えます。無限は「ある」に外から付け足される性質ではなく、内に持つ完全性の度合いです [1] 。だから「ある」は、有限と無限の区別も十のカテゴリーの区別も越えて言える 超越概念 です [1] 。 本教材の作例で確かめてみましょう。私たちは「賢い」という言葉を、まず賢い友人を見て覚えます。「神は賢い」と言うとき、その「賢い」が友人の賢さとまったく別の意味なら、私たちは自分が何を言っているのか分かりません。スコトゥスの考えでは、意味は同じで、違うのは神が限りなく賢いという度合いのほうです。 ここで間違えやすい 一義性を、神と石が同じ種類のもの、同じ程度にあるもの、と取ることです。スコトゥスが同じだと言うのは「ある」という概念であって、神は無限で石は有限という違いはそのまま残ります。また、スコトゥスが被造物から神へ進む道を捨てた、と取るのも誤りです。彼はトマスと同じく被造物から出発し、その論証を一義的な概念で支えようとしました。 個体化の問い――質料でも量でも「この人」にはならない ソクラテスは人であり、プラトンも人です。では、二人に共通の「人であること」は何なのでしょうか。心の外に、二人が分け持つ何か共通のものがあるのでしょうか。これが普遍の問題で、心の外にも普遍があると考える人を実在論者、ないと考える人を唯名論者と呼びます。スコトゥスは実在論の側に立ちました [1] 。 実在論者は、もう一つの問いにも答えなければなりません。二人に共通の何かが本当にあるなら、二人をそれぞれ別の個物にしているのは何なのでしょうか。これが 個体化 の問いです [1] 。 スコトゥスは、共通のものを 共通本性 と呼びます。「人であること」は、それ自体では一人に限られず、どれだけの数の個物にあってもかまいません。けれど心の外では、いつも個物の中にだけあり、そこで「この一つ」に縮められています [1] 。『形而上学問題集』でも、本性はそれ自体では「これ」ではなく、多くのものについて言われることを拒まない、と述べています [3] 。だから本性そのものが個物を作るのではありません。 当時、個物を作るものの候補はほかにもありました。大きさや重さのような量、像の材料にあたる質料、「分けられない」という否定、現実にあることなどです。スコトゥスはそれらを退け、最後に積極的な規定を置きます (表 1) 。 この表で分かること: 個物を「この一つ」にするものとして挙がった候補を、スコトゥスは一つずつ退け、最後に積極的な「このもの性」を置きます。 候補 中身 スコトゥスの答え 本性そのもの 人であることが自ら「これ」 ×:本性はそれ自体では「これ」でない 否定 「分けられない」こと ×:否定は「これ」を作らない 現実の存在 実際にあること ×:あることは区別を作らない 量 大きさ・重さ ×:付帯性で、実体のあとに来る 質料 材料(この青銅) ×:材料もまた「この」を要する このもの性 本性を個に定める積極的な規定 ○:これが個体化の原理 表 1 『オルディナティオ』第 2 巻第 3 区分第 1 部の第 1〜6 問の候補の整理です [1] [2] 。答えの言葉は本教材の要約で、各問の細部は原典と照らし合わせていません。本性そのものの行は『形而上学問題集』第 7 巻第 18 問にもよります [3] 。 本教材の作例で考えます。同じ型に同じ炉の青銅を流して、二つの像を作ります (図 2) 。形も大きさも重さも同じです。片方の像は、どうして「この像」なのでしょうか。「こっちの青銅でできているから」と答えると、ではその青銅を「この青銅」にしているのは何か、と同じ問いが材料に戻ってきます。目に見える違いの候補を並べても、「この一つ」は言い当てられません。 形も材料も大きさも同じ 鋳型 ? A B × 型も青銅の種類も同じ × 大きさ・重さも同じ × 場所を入れ替えても A は A 「この青銅だから」と答えると B この青銅だから? では「この青銅」は 何で「この」なのか 問いが戻る 「この」に定める規定=このもの性 本教材の作例 図 2 同じ型から作った二つの青銅の像(本教材の作例で、スコトゥス本人の例ではありません)。一つ目の絵は、形・材料・大きさ・場所のどれを挙げても二つの像は区別できないこと、二つ目の絵は、「この青銅だから」と答えると同じ問いが材料に戻ってくることを示します。 ここで間違えやすい 個体化の問いを、二つの像を「見分ける」方法の問いだと取ることです。印を付ければ見分けられますが、印がなくても二つは二つです。スコトゥスが問うのは、私たちがどう見分けるかではなく、ものの側で何がそれを「この一つ」にしているかです。 このもの性――「これ」は本性を個に定める積極的な規定 共通本性を「この一つ」に縮めるものを、スコトゥスの説では このもの性 ( haecceitas )と呼びます [1] 。ソクラテスの人であることはソクラテスのこのもの性で、プラトンの人であることはプラトンのこのもの性で個になります。「ソクラテスの人であること」は繰り返せない一つきりのものですが、「人であること」そのものは共通で繰り返せ、どの個物よりも先にあります [1] [2] 。この語が本人のどの著作のどこに出るかについては、本教材では確かめていません。 このもの性は、本性とは別にソクラテスの中から取り出せる、二つ目の物ではありません [1] 。本性を個に定める、積極的な規定です。否定のように「何かでない」ことではなく、量や質料のように本性の外から来るものでもない、というのが要点です。 では、取り出せないのに本性と違うとは、どういうことでしょうか。研究書では、ここに 形相的区別 が持ち出されると説明されます。物どうしのように切り離せはしないが、私たちが考える前から中身の上で違っている、という区別です。スコトゥスにはこの区別を主題にした討論『形相性について』があります [1] 。 スコトゥス本人も例を挙げています (図 3) 。同じ強さの二つの白を、同じ場所に重ねたとします。それでも、これはこれ、あれはあれのままです。「これ」がそこにあることによって「これ」なのではないからです。ところが感覚は、同じ場所に二つの白があることを見分けません [3] 。 離して置いた二つの白 これ あれ 目には二つと分かる 同じ場所に重ねた二つの白 これがこれなのは場所のためではない 一つに見える これ あれ 同じ強さなら感覚は見分けない 図 3 同じ場所に重ねた二つの白(二つの白はスコトゥス本人の例、円盤と目の描き方は本教材)。一つ目の絵では離れた二つの白が「これ」と「あれ」と分かりますが、二つ目の絵で同じ場所に重ねると、「これ」と「あれ」は残るのに、目には一つにしか見えません。 なぜ見分けられないのでしょうか。スコトゥスの答えでは、私たちの知る力は、ものがそれ自体どれほど知られうるかに応じてではなく、知る力を動かす限りでものを知ります。そして知る力を動かすのは本性で、個の段は働きの元ではありません [3] 。ただし同じ問いの後半で、この結論は言い直されます(原典を読む)。 ここで間違えやすい このもの性を、ソクラテスだけが持つ性質(鼻の形、癖、生い立ちの全部)のことだと取ることです。性質はどれも、ほかの人も持ちえます。このもの性は、性質を全部並べても尽きない「これ」であり、性質のように言葉で描き出せるものではありません。 資料の注意:同じ講義のいくつもの版 スコトゥスは『命題集』を何度も講じたので、版がいくつもあります。オックスフォードの講義『レクトゥーラ』、それを書き直した『オルディナティオ』、パリの講義を学生が書き留めた『レポルターティオ』です。それらの前後関係はいつも明らかではありません [1] 。『形而上学問題集』も早くに書き始められ、第 6〜9 巻は後に手が入ったとされます [1] 。どの版の文かを確かめながら読む必要があります。 原典を読む 第 3 節で見た「二つの白」を、それを含む問いの流れごと