ボーヴォワール――人は女に生まれるのではなく、女になる(第二の性・他者) — Epoché
現代 現象学と実存主義 約 19 分 本文 約 8,000 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 生成・他者・解放の 3 つ 生成 人は女に生まれるのではなく、女になる、とボーヴォワールは言う(『第二の性』1949、第 2 巻の初め)。体は一つの状況であり、社会が押しつける運命を体で生き、自分でも引き受けていくうちに、人は女になる。 他者 男は自分を主体・絶対とし、女を男との関係で決まる他者と定めてきた。女は始まりの出来事を指せず、男たちの間に散らばって団結しにくく、他者の立場の安らぎゆえに加担もしがちだ、とボーヴォワールは見る(同、序論)。 解放 女は永遠の女性の神話としつけによって、くり返しの内在に縛られてきた。投票権や経済的な自立だけでは足りず、神話を壊し、互いを自由で、しかも異なる者として認め合うことが解放の目標だ、とボーヴォワールは言う(同、結論)。 はじめに シモーヌ・ド・ボーヴォワールは 1908 年、パリに生まれました。1929 年、21 歳で哲学の教授資格試験に合格し、この年に出会ったサルトルと、生涯の議論の相手になりました [1] 。 ボーヴォワールは長く、サルトルの考えを受け売りした人と見られてきました。けれども SEP は、日記や回想録が別の姿を示すと言います。二人は互いを議論の相手として頼り合い、サルトルがボーヴォワールの鋭さに頼って考えを練ることも多かったのです [1] 。ドイツ占領下の時代に、彼女は状況と自由がどう結びつくかを深く考えるようになりました [1] 。 SEP によれば、『第二の性』の着想は 1946 年、パリのカフェ・ドゥ・マゴで生まれました。レリスの『成熟の年齢』に触発され、自分にとって女であることは何を意味してきたか、と問うたのです。初めは大した意味は無いと思えましたが、やがて、身の回りの世界がいつも男の世界だったことに気づきます [1] 。こうして彼女は、女らしさの神話と女の状況を、自分自身も材料にして、多くの分野にまたがって調べ始めました [1] 。 1949 年の『第二の性』は、20 世紀のフェミニズムで最も重要な本の一つになりました [1] 。この課では、その三つの柱を読みます。人は女に生まれるのではなく女になること、男が主体で女が他者とされてきたこと、女が閉じ込められた立場とそこから抜け出す道です。体の経験を記述するこの仕事は、次の課のメルロ=ポンティの身体の現象学とも響き合います [1] 。 この課の問い 「女らしさ」「男らしさ」は、生まれつき体に備わっているのでしょうか。それとも、育てられ、期待され、自分でも引き受けていくうちに、つくられていくのでしょうか。そして「人間」の基準がいつも男の側に置かれているなら、女はどんな立場に立たされ、そこからどう抜け出せるのでしょうか。 この課のことば 主体 自分で世界に意味を与え、目的を立てて行動する者です。ボーヴォワールは、男が自分を主体とし、人間の基準としてきたと言います。 他者 基準とされる側から、そこから外れた「もう一方」として見られ、扱われる者です。ボーヴォワールは、女が男の他者と定められてきたと言います。 本質的でない他者 ボーヴォワールが女の立場を言うための言葉です。反抗して立場をひっくり返すことができず、抑圧する側との結びつきも切れない、という独特の他者を指します。 内在と超越 内在は、同じことのくり返しに閉じ込められ、未来へ開かれていない生き方です。超越は、いまの自分を越えて新しい目的へ向かい、世界にはたらきかける生き方です。 永遠の女性 時代や社会を越えて、女にはこういう本性がある、とする神話です。ボーヴォワールは、この神話が女を手の届かない理想に閉じ込めると批判しました。 状況 人が身を置いている具体的な条件です。体・歴史・経済・慣習などを含みます。ボーヴォワールは、体もまた一つの状況だと考えました。 第二の性――女はどのようにして「他者」になるのか 前の課のサルトルは、人間には前もって決まった本性がなく、人は与えられた状況の中で自分を選ぶと言いました。ボーヴォワールはこの考えを、女という具体的な状況に当てはめて問い直します。この章では、女がつくられるという主張、「他者」の考え、女が閉じ込められた立場と抜け出す道を、順に読みます。 女になる――体は運命ではない 『第二の性』でいちばん名高いのは、第 2 巻『体験』の初めに置かれた一文です。人は女に生まれるのではなく、女になる、とボーヴォワールは言います [1] [2] 。この一文は、生物学の性と社会の性(ジェンダー)を分ける考えの先駆けとして、多くの人に受け取られてきました。ただし、ボーヴォワール自身がその区別を始めるつもりだったか、どこまで推し進めたかは、フェミニズムの中で議論があります [1] 。 この一文が狙うのは、ある体の作りや子を産む力をもって生まれれば、それで女に生まれたことになる、という常識です。こうした見方を本質主義と言います。ボーヴォワールはここで、現象学の第一の決まりを使います。前提を見つけたら偏見としていったん脇に置き、経験で確かめられるまで使わない、という決まりです [1] 。 SEP は、この問い方を例で示しています。女は弱い、とよく言われます。では何を基準に強さを測るのでしょうか。上半身の力でしょうか、体の大きさでしょうか。長生きを強さの印としてはいけない理由はあるでしょうか [1] 。基準を問い直すと、疑いようのない「事実」に見えたものが、偏った物差しに支えられた思い込みに変わります。 第 1 巻でボーヴォワールは、生物学・心理・歴史・経済の「事実」とされるものを順に調べます。そして、そうした事実がどんな経験から引き出されたかに目を向け、それが女の成り立ちの偶然さを覆い隠し、女の経験を変わらない本質として説明してしまうさまを示します [1] 。 とはいえ、ボーヴォワールは体の違いを否定しません。体は人がただ持っている物ではなく、社会の中で生きられる一つの状況だ、と考えるのです。だから女になるとは、ある決まったしかたで自分の体を生きるようになることです [1] 。人は、歴史・経済・政治の条件と、道徳や慣習が押しつける運命を生きることで女になります。しかも周りがそう言うからだけでなく、本人がその体のあり方を自分で引き受けていくから女になる、とボーヴォワールは描きます [1] 。この見方では、「女」は社会がつくり出したものであると同時に、体で生きられる現実でもあるのです [1] 。 生まれた日 一人目 二人目 体のどこにも 得意・不得意は書いていない 数年後の庭 たくましいね 危ないよ 苦手かも 止める・渡す ほめる 図 1 「女になる」を絵にした教材の作例です(本教材の絵)。一つ目は生まれた日で、二人の赤ん坊の体には、得意・不得意は何も書かれていません。二つ目は数年後の庭で、木に登った男の子はほめられ、根もとの女の子は止められて人形を渡されます。ほめられ、止められ、自分でも引き受けていくうちに、そうなっていくのです。 教材の作例で考えてみましょう (図 1) 。同じ日に生まれ、同じくらい元気な二人の子がいます。男の子が木に登ると、大人は「たくましいね」とほめます。女の子が同じ木に登ると「危ないよ」と止められ、人形を渡されます。何年かたつと、女の子は自分でも「私は木登りが苦手だ」と思うようになります。体のどこにも、そう書いてはなかったのにです。 ここで間違えやすい 「女になる」を、体の違いなど無い、あるいは誰でも好きな性を自由に選べる、という意味に取らないでください。ボーヴォワールは体の違いを認めたうえで、その違いを女を従わせる理由に使うことを退けました [1] 。また、外から型を押されるだけでもなく、本人が引き受ける面がある、というのが彼女の描き方です [1] 。 女は他者である――男は主体、女は相対 では、女はどんな者としてつくられるのでしょうか。答えの中心は、序論で示され本の全体を動かす「他者」の考えです [1] 。男は自分を主体であり絶対であるとし、女をそれ自体としてではなく、男との関係で決まる者として定めてきた、と彼女は言います [1] [2] (図 2) 。 主体(男) 他者(女) 自分の性を断らずに 語り出す まず女だと名乗って 語り出す 考えは「人間の 考え」として通る 考えは「女の 考え」と 割り引かれる 人間の 典型・物差しになる 物差しで測られ、 足りないとされる 男が基準で、女はその基準との関係で決まる者と されます。 図 2 主体とされる男と、他者とされる女の非対称です(本教材の整理)。二つ目の行は、原典を読むで要約する序論の言い返しの例によります [2] 。 この他者の考えは、ヘーゲルの主と奴の話に拠っています。男はヘーゲルの主のように、自分を主体、人間の典型とします。そしてその物差しで女を測り、劣っているとみます。そうして見つけた「足りなさ」が、今度は女を他者として扱う理由にされるのです [1] 。主と奴の話そのものは、この課程のヘーゲルの承認の課で読みました。 ただし、ボーヴォワールは違いも強調します。歴史の中で抑圧されてきた集団は、共通の歴史をよりどころに「私たち」として承認を求められます。ところが女は、自分が他者になった始まりの出来事を指し示せません。男たちの世界に散らばって暮らし、ほかの女たちよりも、同じ階級・人種・宗教の男たちと結びつきます [1] (表 1) 。 この表で分かること: 女は他者になった始まりの出来事を指せず、男たちの間に散らばっているので、被抑圧集団のように団結して承認を求める筋書きをたどれません。 他者にされる者 他者になった始まり 「私たち」と言えるか 抑圧する側との関係 ヘーゲルの奴 生死を賭けた闘争 二つの自己意識の場面として描かれる 恐れと労働を通して自分に至る 歴史の中の被抑圧集団 歴史の中の出来事 言える(共通の歴史) 団結して承認を求める 女 指し示せる出来事が無い 言いにくい(男たちの間に散らばる) 切れない結びつき(根源的な共同存在) 表 1 ボーヴォワールが女と比べる相手の整理です。二つ目と三つ目の行は SEP の整理 [1] 、ヘーゲルの行はこの課程のヘーゲルの課の本文に合わせました。ヘーゲル本人が集団の反抗を描いたのではありません。表の形は本教材です。 だから女は、反抗して立場をひっくり返すという筋書きをたどれません。この独特の立場を、ボーヴォワールは「本質的でない他者」と呼びます [1] 。男と女の関係は、はじめから共にある関係(根源的な共同存在)でもあります。女は相手から対等に扱われなくても、男との結びつきを必要と感じます。この切れない結びつきが、女を抑圧する側につなぐきずなになります [1] 。 さらに女は、自分を主体として名乗らないことがあります。具体的な手段を持たず、他者の役割に満足を見いだすことも多いからです [1] 。他者にされることは抑圧ですが、承認と自己正当化のよりどころも与えるのです [1] 。 ここで間違えやすい ボーヴォワールが、男と女はいつまでも敵どうしだと言った、と取らないでください。彼女は二人の対立を、切り離せない結びつきの中の両義的な対立とみて、最後には互いを自由な主体として認め合えると見通しました [1] 。また、女の抑圧が最も重いと言ったのでもありません。成り立ちが違うので別に調べる必要がある、と言ったのです。ただし、白人のブルジョワの女の視点から一般化しているという批判もあります [1] 。 内在から超越へ――幸福より自由を 女が閉じ込められてきた立場を、ボーヴォワールは内在と超越の対で言い表します。第 1 巻が扱う歴史と神話、第 2 巻が描く生きられた経験を通して、女は内在の側につなぎとめられ、超越への道を手放させられてきた、と言うのです [1] 。その中心にあるのが、永遠の女性という神話です。この神話は女を手の届かない理想に縛り、一人ひとりの生き方を損ないます。こうして女は、世界をつくりかえる力を持ちながら、くり返しの受け身の生き方に押し込められた、引き裂かれた主体になります [1] 。 内在 格子の窓 きのうと同じことをきょうも 何も積み上がらない 超越 本 設計図 演壇 いまの自分を越えて 新しい目的へ向かう 図 3 内在と超越を絵にした教材の作例です(本教材の絵)。一つ目は内在で、床を拭き皿を洗う仕事が円を描いて一周し、もとに戻ります。二つ目は超越で、同じ人が戸口を出て、本・設計図・演壇といった目的の印を通りながら、まっすぐ遠くへ向かいます。問題は家事そのものではなく、くり返しだけを割り当てて外への道を閉ざすことです。 教材の作例で見てみます (図 3) 。きのう拭いた床をきょうも拭き、きのう洗った皿をきょうも洗います。どれだけ働いても、翌日にはまた同じ仕事が待っていて、何も新しく積み上がりません。問題は家事そのものではありません。くり返しの仕事だけを女の役目とし、外の世界で目的に向かう道を閉ざすことが、女を内在に閉じ込めるのです(本教材の読み方)。 では、なぜ女はその立場にとどまるのでしょうか。他者の立場には、子どものころのような幸福があります。自分に責任を負わず、重い選択をしなくてよい幸福です。ボーヴォワールはこれを自己欺瞞のもたらす幸福とみて、女は自分の従属に加担しているとも言えると考えます [1] 。けれども、それだけではありません。女が他者の立場で幸福なのは、置かれた物質の条件と考え方の枠の中で、それが開かれた唯一の幸福の道だからかもしれないのです [1] 。 最後の章「自立した女」と「結論」は、1947 年の時点の女の状況を論じます。投票権や経済的な自立は欠かせませんが、それだけでは足りません。しつけの影響と、男を人間の基準とする見方が残るからです。自立した女は二つの鎖を解く必要があります。自由であるには男と同じにならなければならないという考えと、女らしくなるよう仕向けるしつけです [1] 。そのために女は、世界にはたらきかけるように育てられ、自分の体なりのしかたで世界にかかわる道を見いだせなければなりません。女に受け身を求め、体の自律を奪う道徳と慣習も、作り直す必要があります [1] 。解放は男に自由をくれと頼むことではなく