14.48 短い断言を並べる — 誤解されることを恐れない — Epoché
この篇でできるようになること ★ 短い断言を並べる 文体が、数で分かる。 ★ 名前の列がそのまま論証になる 作りが読める。 ★ 命令形で読者に迫る 書き方が追える。 ★ 抽象名詞を大文字にして人のように扱う のに気づける。 前提 : なし(特別編に門はありません)。第 5 期以降ならどこからでも読めます。目安は型 3.40 まで・語 4.60 まで。 読む前に ★ この篇は 文体がまるで違います 。★ 前の三篇と並べて数えてみます 。 どの篇か 一文の平均 十語以下の文 ★ 14.45 ヒューム 27.7 語 10 本 / 70 本 ★ 14.46 スミス 44.3 語 1 本 / 37 本 ★ 14.47 ミル 34.7 語 1 本 / 42 本 ★ この篇 エマソン ★ 18.9 語 ★ 29 本 / 98 本 ★ 一文の平均が 半分以下 です。★ 十語以下の文が 29 本 あり、★ いちばん短い文は 4 語 です。 ★ だから 読みやすい ——★ ところが 分かりやすいとは限りません 。★ 短い断言は 理由を書かない ので、★ 「なぜそう言えるのか」が 本文に無い のです。 ★ 背景は 12.12 知編 と 12.16 知編 にあります 。★ この随筆は アメリカが自分の考えを持ち始めた時期 のもので、★ 「ヨーロッパの本ばかり読むな」という主張が 第 6 段に出ます 。 ★ 読編に 同じ随筆の前半 があります ——★ 8.114 読編 ・ 8.115 読編 。★ この篇は その先 です。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1852 語、段落は 8 、文は 98 本、一文の平均は 18.9 語、いちばん長い一文は 87 語、いちばん短い一文は 4 語です。 ★ 最長 87 語と最短 4 語の差が この篇の特徴 です。★ 長い文で説き、 短い文で打つ ——★ その交ぜ方を見に行きます 。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 愚かな一貫性は、小さな心の化け物であり、小さな政治家や哲学者や聖職者たちにあがめられています。偉大な魂は、一貫性とはまったく関わりがありません。それなら壁に映る自分の影のことでも気にしていればよいのです。いま考えていることを強い言葉で語りなさい。そして明日は、明日が考えることを、また強い言葉で語りなさい。たとえそれが今日言ったことすべてに矛盾しようとも。――「ああ、それでは、きっと誤解されることになりますよ」――それでは、誤解されるのがそんなに悪いことでしょうか。ピタゴラスは誤解されました。ソクラテスも、イエスも、ルターも、コペルニクスも、ガリレオも、ニュートンも、かつて肉体をまとったあらゆる清く賢い精神も、誤解されたのです。偉大であるとは、誤解されることなのです。 思うに、人は誰も自分の本性に背くことはできません。その意志のあらゆる飛び出しも、その人の存在の法則によって丸く囲いこまれています。アンデスやヒマラヤの凹凸が、球の曲線の中ではとるに足りないのと同じです。また、その人をどう測り、どう試してもかまいません。人の性格は、折句や、アレクサンドリア風の詩の一連のようなものです。――前から読んでも、後ろから読んでも、横に読んでも、やはり同じことをつづっているのです。神が私に許してくださる、この心地よい、悔い改めの森の暮らしの中で、先を見ることも後を振り返ることもなく、日々私の正直な思いを書き記させてください。そうすれば、疑いなく、それはつり合いのとれたものと分かるでしょう。私がそうしようとしているのでもなく、それが見えているのでもないのですが。私の本は松の香りがし、虫の羽音が響くものであってほしい。私の窓の上を飛ぶつばめが、くちばしにくわえているあの糸やわらを、私の織物にも織りこんでくれればよい。私たちは、自分であるとおりのものとして通るのです。性格は、私たちの意志を超えて教えます。人々は、自分の美徳や悪徳を、あらわな行いによってだけ伝えていると思いこみ、美徳や悪徳がいつの瞬間にも息を吐き出していることに気づきません。 どれほど多様な行いの中にも、それぞれがそのときに正直で自然でありさえすれば、一致があるでしょう。一つの意志から出た行いは、どれほど似ていないように見えても、調和するからです。これらの違いは、少し離れたところ、思考の少し高いところから見れば、見えなくなります。一つの傾きが、それらすべてを結びつけています。最良の船の航海も、百回の方向転換からなるジグザグの線です。その線を十分に離れたところから見てごらんなさい。それはまっすぐになって、平均の向きにそろいます。あなたの本物の行いは、それ自身を説明し、あなたのほかの本物の行いをも説明するでしょう。あなたが人に合わせることは、何も説明しません。ひとりで行いなさい。そうすれば、あなたがすでにひとりで行ったことが、いまのあなたを正しいと示すでしょう。偉大さは未来に訴えます。もし私が今日、正しいことを行い、人の目をさげすむほどしっかりしていられるなら、私は以前にも、いまの私を守ってくれるほどの正しいことを行ってきたにちがいありません。どうなろうとも、いま正しいことを行いなさい。いつも見かけをさげすみなさい。そうすれば、いつでもそうできるでしょう。性格の力は積み重なるものです。過ぎ去った徳のある日々のすべてが、その健やかさをこの一日に注ぎこむのです。議場と戦場の英雄たちの威厳、これほどまでに想像をとらえる威厳は、何から生まれるのでしょうか。背後に続く、偉大な日々と勝利の連なりを自覚していることからです。それらが、進み出る行為者に一つにまとまった光を注ぎます。その人は、目に見える天使の護衛に付き添われているかのようです。チャタムの声に雷を、ワシントンの物腰に威厳を、アダムズの目にアメリカを投げこむのは、それなのです。名誉が私たちにとって古く尊いものであるのは、それが一日かぎりのものではないからです。それはいつも古い徳です。私たちが今日それをあがめるのは、それが今日のものではないからです。私たちがそれを愛し、それに敬意を払うのは、それが私たちの愛と敬意を捕らえるわなではなく、自分に頼り、自分から生まれ、それゆえ、たとえ若い人に現れたとしても、古く汚れのない家柄を持つからです。 願わくは、この時代に、人に合わせることと一貫性のことはもう聞き納めにしたいものです。これらの言葉は、これから先、官報に載せられて笑いものになればよい。夕食を告げる銅鑼の代わりに、スパルタの横笛の鋭い音を聞こうではありませんか。もう二度と、頭を下げて詫びるのはやめましょう。偉い人が私の家に食事に来ることになっています。私はその人を喜ばせたいとは思いません。その人のほうが私を喜ばせたいと願うことを、私は願います。私はここで人間性のために立とう。そして、それを親切なものにしたいとは思うけれども、真実なものにしたいのです。時代のなめらかな凡庸さと、みすぼらしい満足とに立ち向かい、叱りつけ、慣習と商売と官職の顔に、すべての歴史の行きつくところである事実を投げつけようではありませんか。すなわち、人が働くところではどこでも、偉大な、責任ある「考える者」であり「行う者」がはたらいていること。真の人間はほかのどの時代にも場所にも属さず、物事の中心であること。その人のいるところに、自然があるのです。その人は、あなたを、そしてすべての人を、すべての出来事を測ります。ふつう、社会の中の誰もが、私たちに何かほかのもの、あるいは誰かほかの人を思い出させます。性格、すなわち本物であることは、ほかの何ものをも思い出させません。それは全創造の代わりとなるのです。人は、あらゆる事情をどうでもよいものにしてしまうほどの存在でなければなりません。真の人間はみな、一つの大義であり、一つの国であり、一つの時代です。その企てを十分に成し遂げるには、限りない空間と数と時間を必要とします。――そして後の世の人々は、従者の列のようにその足跡に従っていくように見えます。カエサルという一人の人が生まれ、それから何代にもわたって、私たちはローマ帝国を持ちます。キリストが生まれ、何百万もの心がその精神に向かって育ち、すがりつくので、彼は徳や人間の可能性と区別がつかなくなります。一つの制度は、一人の人間の長く伸びた影です。修道生活は隠者アントニウスの、宗教改革はルターの、クエーカー主義はフォックスの、メソジスト主義はウェスレーの、奴隷制廃止はクラークソンの影です。スキピオを、ミルトンは「ローマの高み」と呼びました。そして、すべての歴史は、ごくたやすく、少数のたくましく真剣な人々の伝記に帰着するのです。 だから、人は自分の値打ちを知り、物事を足の下に置いておきなさい。自分のために存在しているこの世界の中で、のぞき見たり、こっそり盗んだり、施しを受ける子どもや、私生児や、よそからの割りこみ者のような様子で、こそこそとうろついたりしてはなりません。ところが、通りの一般の人は、塔を建てたり大理石の神を彫ったりした力に見合う値打ちを自分の中に見いださず、それらを見ると自分を貧しく感じます。その人にとっては、宮殿や彫像や高価な本は、華やかな馬車と同じように、よそよそしく近寄りがたい様子をしていて、馬車と同じく、「あなたはどなたですか」と言っているように見えます。けれども、それらはみなその人のものなのです。その人に目をかけてもらおうと願い求める者たちであり、その人の能力に向かって、出てきて自分たちを手に入れてくれるよう請う嘆願者たちなのです。絵は私の判断を待っています。絵が私に命じるのではなく、私が絵の、ほめられるべきだという主張に決着をつけるのです。通りで泥酔しているところを拾われ、公爵の屋敷に運ばれ、洗われ、着替えさせられ、公爵の寝台に寝かされ、目を覚ますと、公爵のようにあらゆるへりくだった儀礼をもって扱われ、これまで気が狂っていたのだと請け合われた、あの酔いどれの有名な寓話が広く好まれているのは、それが人間の状態をとてもよく表しているからです。人間は、この世で一種の酔いどれですが、ときどき目を覚まし、理性をはたらかせ、自分が本当の王侯であることに気づくのです。 私たちの読書は物乞いのようで、へつらうものです。歴史において、私たちの想像力は私たちを欺きます。王国と君主の位、権力と地位は、小さな家でありふれた一日の仕事をする一私人のジョンやエドワードよりも、けばけばしい語彙です。しかし、生活の事柄は両者にとって同じであり、両者の総計も同じです。なぜアルフレッドや、スカンデルベグや、グスタフに、これほどまで敬意を払うのでしょうか。かりに彼らが徳のある人だったとしましょう。それで彼らは徳を使い果たしたのでしょうか。今日のあなたの私的な行いにも、彼らの公の、名高い歩みに伴ったのと同じほど大きなものがかかっているのです。一私人が独自の見方をもって行うようになるとき、輝きは王たちの行いから、ふつうの紳士たちの行いへと移されるでしょう。 世界は、その王たちによって教えられてきました。王たちは諸国民の目をそれほどまでに引きつけてきたのです。世界は、この巨大な象徴によって、人が人に払うべき互いの敬意を教えられてきました。人々がいたるところで、王や貴族や大地主が自分自身の法によって自分たちのあいだを歩き、人と物について自分の尺度を作って人々の尺度をひっくり返し、恩恵に対して金ではなく名誉で報い、法をその身に体現することを許してきた、あの喜ばしい忠誠心は、人々が、自分自身の権利と品位、すなわちすべての人の権利についての自覚を、おぼろげに表した象形文字だったのです。 あらゆる独自の行いが及ぼす引きつける力は、自分を信頼することの理由を問うときに説明されます。信頼を託される者は誰なのでしょうか。普遍的な信頼の根拠となりうる、もともとの「自己」とは何なのでしょうか。視差も無く、計算できる要素も無く、ほんのわずかでも独立のしるしが現れれば、とるに足りない、不純な行いの中にさえ美の光を放つ、あの学問を困らせる星の本性と力とは何なのでしょうか。この問いは私たちを、天才の、徳の、そして生命の本質でもある、あの源へと導きます。私たちはそれを「自発性」あるいは「本能」と呼びます。私たちはこの根本の知恵を「直観」と呼び、それより後のあらゆる教えは「教え導くもの」と呼びます。その深い力、分析がその向こうへは行けない最後の事実の中に、あらゆる物はその共通の起源を見いだします。というのは、静かなときに、どのようにしてかは分かりませんが魂の中に湧き上がる存在の感覚は、物とも、空間とも、光とも、時間とも、人とも異なるものではなく、それらと一つであり、明らかに、それらの生命と存在が出てくるのと同じ源から出てくるからです。私たちはまず、物を存在させている生命を分かち持ち、そのあとで、物を自然の中の現れとして見て、自分たちがその原因を分かち持っていたことを忘れるのです。ここに、行いと思考の泉があります。ここに、人に知恵を与え、否定すれば不敬と無神論にならずにはすまない、あの霊感の肺があります。私たちは計り知れない知性のひざの上に横たわっており、その知性が私たちを、その真理の受け手とし、そのはたらきの器官とするのです。私たちが正義を見分けるとき、真理を見分けるとき、私たちは自分からは何もしておらず、ただその光が通る道を空けているだけです。もしこれがどこから来るのかを問うなら、もし原因となる魂をのぞきこもうとするなら、あらゆる哲学は途方に暮れます。それがあるか無いかということだけが、私たちの断言できるすべてです。人はみな、自分の心の意志による行いと、意志によらない知覚とを区別し、意志によらない知覚には完全な信頼が払われるべきだと知っています。それを言い表すときには誤るかもしれませんが、それらが昼と夜のように確かにそうであり、争うべきものではないことを知っています。私の意志による行いや手に入れたものは、さまよっているだけです。――いちばんとりとめのない空想、いちばんかすかな生まれつきの感情こそが、私の好奇心と敬意を呼び起こすのです。考えのない人々は、知覚を述べたものにも意見を述べたものにも同じように、いやむしろずっとたやすく、反対します。というのは、彼らは知