司法と違憲審査――選ばれない者が決めてよいか — Epoché
制度と行動 統治の制度 約 31 分 本文 約 14,200 字 図 4・表 2 資料 2 節 この課の要点 仕組み・正統性・日本の 3 つ 仕組み 違憲審査は、憲法を法律より上の法とし、事件を裁く裁判所が両者の食い違いを判断する仕組みです。裁判所の判断を最後の言葉にする国と、最後の言葉を議会に残す国があります。 正統性 選挙で選ばれない裁判官が多数の決めた法律を退けることは「反多数決主義の難点」と呼ばれます。少数者の権利の保護を重く見る擁護論と、民主政の側からの批判が向き合っています。 日本 日本国憲法は最高裁判所を違憲審査の終審の裁判所とし(81 条)、具体的な事件を前提とする付随的な審査が行われてきました。最高裁の法令違憲の判断は、ある教科書の数えで 14 件(2026 年 2 月時点)です。 はじめに 国会は、選挙で選ばれた議員が多数決で法律を作る場です。ところが日本でも米国でも、裁判所がその法律を「憲法に反する」と判断し、事件に当てはめないことがあります。1973 年、日本の最高裁判所は、親など目上の親族(尊属)を殺した罪を特に重く罰していた刑法の規定を、法の下の平等に反すると判断しました [7] 。選挙で選ばれた議会の作る法律の規定を、選挙を経ない裁判官が退けたのです。 これは考えてみると不思議なことです。この課程の『権力分立』の課では、立法・執行・司法が互いに止め合う仕組みを見ました。そこでも裁判所は止める側の一つでした。しかし民主政で多数の意思を表すのは議会のはずです。その議会の決定を、少数の裁判官が覆してよいのでしょうか。米国の法学者ビッケルは 1962 年に、違憲審査は自国の制度の中の「反多数決的な力」だと書きました [4] 。 一方で、多数が決めたことなら何でも通るとすると、憲法で権力を縛る意味が薄れます。この課程の『憲法と立憲主義』の課で見たとおり、立憲主義は多数の権力にも限界を置く考え方でした。限界を書いても、それを守らせる仕組みがなければ、限界は紙の上のものになります。 もっとも、裁判所がこうした判断を下せる国ばかりではありません。英国では、裁判所は議会の法律を無効にできず、権利と両立しないと宣言するにとどまります [1] 。カナダでは、裁判所が法律を無効にしても、憲章の一部の権利については、議会がそれでも法律を有効とすると決め直せます [1] 。日本国憲法は 81 条で、最高裁判所を、法律などが憲法に合うかを決める終審の裁判所と定めています [5] 。同じ「違憲審査」という言葉でも、誰が最後の言葉を持つかは国によって違います。この違いは、選ばれない者に何をどこまで任せるかという、この課の問いへの各国の答えだと見ることもできます(本教材の整理)。 この課では、まず違憲審査の仕組みと、それを支える古典の理屈を見ます。次に、裁判所に最後の言葉を与える国と、議会に残す国の違いを比べます。そのうえで、選ばれない裁判官が決めることの正統性をめぐる論争を整理し、日本の制度と実際に当てはめます。どの立場が正しいかを決める課ではありません。どこで意見が分かれるのかを、自分で言えるようになることが目標です。 この課の問い 選挙で選ばれていない裁判官が、選挙で選ばれた議会の作った法律を「憲法に反する」として退けてよいのはなぜでしょうか。その権限は、国によってどう違う形で置かれているのでしょうか。 この課のことば 違憲審査 法律や国の行為が憲法に合うかどうかを裁判所が審査する仕組みです。合わないと判断したときの効果(事件に当てはめない・無効にする・両立しないと宣言するだけ)は、制度によって違います。 付随的違憲審査 具体的な事件を裁く途中で、その事件に使う法律が憲法に合うかを判断する型です。事件がなければ、法律だけを取り出して審査することはできません。 反多数決主義の難点 選挙で選ばれない裁判官が、多数の代表の決めた法律を覆すことへの疑問です。ビッケルの議論から広まった呼び名です。 強い型・弱い型 裁判所の判断が最後の言葉になる審査を強い型、議会が最後に決め直せる審査を弱い型と呼びます。タシュネットの区別です。 国民審査 最高裁判所の裁判官を、衆議院の総選挙の際に、有権者がやめさせるかどうかを投票で決める制度です(79 条)。 違憲審査――裁判所はなぜ法律を退けられるのか 前の課では、議会が法をつくる場であり、討論の場でもあることを見ました。この章では、その議会の作った法律を、裁判所が憲法に照らして退ける仕組みを扱います。仕組みの理屈、国による違い、正統性の論争、日本の順に進みます。 仕組み――憲法を法律の上に置き、裁判所が照らし合わせる 違憲審査とは、裁判所が、法律や行政機関の決定のような公の行為が憲法と両立するかを審査する実践です [1] 。国によっては、裁判所は議会の法律を無効にでき、その判断が最終になります [1] 。この仕組みの理屈は、二つの古典にはっきり書かれています。 一つ目は、米国の憲法案を擁護した論説集『ザ・フェデラリスト』の第 78 篇です。ここで使う版の頭書きでは、筆者はハミルトン、1788 年 5 月 28 日付けのマクリーン版とされています [2] 。ハミルトンはこう論じます。憲法が立法の権限に例外を定めているとします。たとえば、裁判をせずに罰する法律や、さかのぼって罰する法律を作らない、という例外です。こうした限界は、憲法の明白な趣旨に反する行為を無効と宣言する裁判所を通してしか、実際には守れません [2] 。 ハミルトンの理屈の中心は、委任の考え方です。委任された権限を、委任の趣旨に反して使った行為は無効です。だから憲法に反する立法は有効ではありえません。これを否定すれば、代理人が本人より偉く、人民の代表が人民そのものより上だということになる、と彼は言います [2] 。法律を解釈するのは裁判所の本来の仕事です。憲法も裁判官から見れば基本の法です。二つが両立しないときは、上位の拘束力を持つ憲法を、法律より優先しなければなりません [2] 。 二つ目は、1803 年の米国最高裁判所のマーベリー対マディソン事件です。退任するアダムズ大統領がマーベリーを治安判事に任命し、辞令を出しました。ところが新しい国務長官マディソンは辞令を渡しませんでした。マーベリーは辞令を求めて訴えました [3] 。マーシャル長官の意見は、マーベリーには辞令への権利があり、法による救済もある、と認めました。しかし、最高裁が令状を出す権限を定めた法律の規定は、憲法に照らして認められないと判断しました。こうして最高裁は令状を出しませんでした [3] 。 その推論の核は次のとおりです。書かれた憲法を作った人々は、憲法を国の基本で最高の法と考えていました。だから「憲法に反する立法府の行為は無効である」と考えるほかない、とマーシャルは言います [3] 。そして「法が何であるかを言うのは、まさに司法部の領分であり義務である」 [3] 。一つの事件に法律と憲法の両方が当てはまり、食い違うとき、裁判所はどちらに従うかを決めなければなりません。憲法から目を閉じて法律だけを見よと言うなら、立法府に実際上の全能を与えることになる、とマーシャルは述べました [3] 。 事件 訴えや起訴で、具体的な争いが裁判所に 来る 主張 当事者が、適用される法律は憲法に 反すると主張する 照合 裁判所が法律と憲法を照らし合わせ、 上位の憲法に従う 判断 反すると判断すれば、その規定を事件に 当てはめない 国会 法律を改めるかどうかは、立法の 手続きで決まる 図 1 付随的な違憲審査の流れ。裁判所は事件を裁く途中で、法律と憲法の食い違いを判断します。最後の段は、判決の後で国会が担う段です(本教材の整理)。 注意したいのは、この推論の形です。裁判所は、事件を裁く仕事の途中で、憲法と法律の食い違いに出会います。事件と離れて法律を審査しているわけではありません (図 1) 。米国国立公文書館の解説によれば、この判決で最高裁は初めて、議会が可決し大統領が署名した法律を違憲としました。同じ解説は、議会の法律が次に違憲とされたのは 1857 年のドレッド・スコット判決だったと述べています [3] 。違憲審査の権限は、一つの判決で一気に日常の道具になったわけではありません。 SEP(スタンフォード哲学百科事典)は、マーベリー判決が米国法としてこの問いに肯定の答えを出し、多くの国がそれに倣ったと説明します [1] 。憲法の限界を、議会や政府から独立した司法が解釈し執行するという答えです。日本も、通常の裁判所が事件を裁く中で審査する点で、同じ型に属します(本教材の整理)。この点は第 4 節で見ます。 ここで間違えやすい 合衆国憲法には「裁判所は法律を無効にできる」という明文はありません。国立公文書館の解説も、憲法の条文はこの特定の権限を与えていないと書いています [3] 。この権限は、書かれた憲法の性質と裁判所の役割から、判決の推論で導かれました。 国による違い――誰が最後の言葉を持つか 違憲審査は、どの国でも同じ形をしているわけではありません。違いを見る観点は四つあります。どの裁判所が審査するのか、具体的な事件が要るのか、法律を無効にできるのか、そして裁判所が判断した後で議会が決め直せるのか、です。 一つ目の観点について、概説は、議会の作った法律の審査に三つの大きな型があると整理します [10] 。第一は、裁判所が審査しない型です。英国では、議会主権の考え方により、議会の法律を裁判所が退けることはできません。オランダでは、憲法そのものが、議会の法律の合憲性を裁判所が判断することを禁じています [10] 。第二は、通常の裁判所が審査する型で、米国・カナダ・オーストラリアが例に挙げられます [10] 。第三は、専門の憲法裁判所だけが審査する型です。概説によれば、1920 年にチェコスロバキアとオーストリアが法学者ケルゼンの構想で取り入れ、ほかの国に広がりました [10] 。 四つ目の観点、つまり最後の言葉を誰が持つかについて、法学者タシュネットは「弱い型」の審査を区別しました [1] 。米国のように、最高裁が憲法上の権利の意味について事実上の最終決定権を持つ型が強い型です。これに対し、弱い型では、裁判所が判断しても、権利の意味と範囲について議会が最後に決め直す余地が残ります [1] 。その残し方は国によって違います。 弱い型の例として、SEP は英国とカナダを挙げます。英国の裁判所は、議会の法律を無効にはできません。ただし 1998 年人権法の 4 条により、法律がこの法の定める権利と両立しないと公式に宣言できます。宣言を受けて議会はたいてい法律を改めますが、改めなければ法律は有効のままで、裁判所にそれ以上の手段はありません [1] 。カナダの最高裁は、権利憲章の 2 条と 7〜15 条が保障する権利を不当に侵す法律を、無効にできます。しかし同じ憲章の 33 条により、連邦議会や州の議会は、権利を侵すとしてもその法律を有効とすると宣言できます。裁判所の判断は原則として効力を持ちますが、この「にもかかわらず条項」の対象となる権利については、議会が最後に決め直せます [1] 。 強い型(米国) 弱い型 (英国・カナダ) 裁判所が法律を 無効にできる 英国:両立しないと 宣言するだけ 裁判所の判断が 最終になる カナダ:無効に できるが、一部の 権利は議会が 上書きできる 最後の言葉は 裁判所にある 議会が最後に 決め直す余地が残る 図 2 強い型と弱い型の違い。SEP の説明 [1] から本教材がまとめたものです。 審査をまったく置かない国も、憲法の限界を持たないわけではありません。SEP によれば、ニュージーランドでは、裁判所は憲法の限界を超えることを理由に立法を無効にすることを禁じられています。限界を守るのは議会に任されている、というのです(SEP は「おそらく」と留保しています) [1] 。SEP はさらに、英国型の議会は、議会だけが自らの限界を作り、解釈し、実行する長い伝統の下で、多くの場合責任をもって限界を守ってきたと述べます [1] 。つまり、独立の裁判所による審査は、立憲主義にとって概念上必要なものとは言い切れない、というのが SEP の見方です [1] 。 国ごとの違いを表 1 にまとめます。日本は、通常の裁判所が具体的な事件の中で審査し、最高裁判所が終審として決める型です (表 1) 。ここで「最後に決める者」は、通常の法律の手続きの中での最後の言葉という意味です。どの国でも、憲法そのものを改めれば、裁判所の判断の前提は変わります。 この表で分かること: 法律を無効にできるかと、最後の言葉を持つ者は、国によって違います。 国 法律を無効にできるか 最後の言葉を持つ者 米国 できる(判断は最終) 裁判所 英国 できない(不適合の宣言) 議会 カナダ できる 裁判所(一部の権利は議会が上書き可) ニュージーランド できない 議会 日本 事件の中で違憲と判断 最高裁判所(終審) 表 1 米国・英国・カナダ・ニュージーランドは SEP [1] 、日本は日本国憲法 81 条・98 条 [5] と最高裁判所の解説 [7] から本教材がまとめたもの。ニュージーランドについて SEP は「おそらく」と留保しています。 なぜ国によってこれほど違うのでしょうか。本教材の整理としては、英国の議会主権の伝統 [10] と、書かれた憲法を最高の法とするマーシャルの推論 [3] の違いが、一つの手がかりになります。ただし、どの型にも長所と短所の主張があり、どれが優れているかは、次の節で見る正統性の論争と結びついています。 ここで間違えやすい 「違憲審査のない国は立憲主義の国ではない」とは言えません。SEP は、裁判所が法律を無効にできない英国やニュージーランドでも、議会が自らの憲法上の限界を守る伝統があると説明しています [1] 。違憲審査は、憲法の限界を守らせる方法の一つです。 正統性――選ばれない者が多数を覆してよいか ここで、この課の題の問いに戻ります。選挙で選ばれない裁判官が、多数の代表の決めた法律を退けてよいのでしょうか。ビッケルは『最も危険の少ない部門』(1962 年)で、「根本の難点は、違憲審査がわが国の制度の中の反多数決的な