ドゥルーズ――同一性より先に差異がある(差異と反復・リゾーム) — Epoché
現代 構造主義とポスト構造主義 約 18 分 本文 約 7,300 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 差異・反復・リゾームの 3 つ 差異 ふつう違いは、すでに決まった二つのもののあいだの関係(x は y と違う)と考えられる。ドゥルーズはこの順を逆にし、差異のほうが先にあって、同一性は差異の関係から生み出されるとした。雲と地面の電位の差が稲妻を生むように、差異はものが現れる理由になる(『差異と反復』1968、第 1 章)。 反復 反復とは、もとの同じものを写して繰り返すことではない。具体的なものが生まれるたびに、それを生む差異がくり返し立ち戻ってくることだ、とドゥルーズは言う。ここで彼は、ニーチェの永遠回帰を「同じものの回帰」でなく「差異の回帰」として読む(同、第 2 章)。 リゾーム ドゥルーズはガタリとの共著で、一本の幹から枝分かれする樹木の形の秩序に、中心のない地下茎の網の目(リゾーム)を対置した。どの点もほかのどの点とつながりうるという書き方で、本そのものも書かれている(『千のプラトー』1980)。 はじめに ジル・ドゥルーズ(1925〜1995)は、パリに生まれたフランスの哲学者です [1] 。最初の本はヒューム論『経験論と主体性』(1953)です。同世代のフーコーやデリダがヘーゲル・フッサール・ハイデガーの「三つの H」に向かう中で、経験論を選んだこと自体が異端の気配を示していた、と SEP の筆者たちは書いています [1] 。 1968 年に主著『差異と反復』を出し、翌年には精神分析家フェリックス・ガタリと出会って、のちに『千のプラトー』(1980)などを共に書きます [1] 。 前の課のデリダは、声と書き言葉のような対の上下を崩して読みました。ドゥルーズも差異を中心に置きますが、問うのは、稲妻や台風や生き物まで含めて、ものがどう生まれるのかで、その理由を差異に求めました(本教材の読み方です)。 原典を読むでは『千のプラトー』第 1 プラトーの要点を、比べてみるではソシュールやデリダとの違いを見ます。 この課の問い 「りんごとみかんは違う」と言うとき、私たちは、二つがそれぞれ何であるかが先に決まっていて、そのあいだに違いがある、と考えます。では、違いはいつも、出来上がったもの同士のあいだにしかないのでしょうか。差異のほうが先にあり、「同じもの」は差異から生まれてくる、とすれば、物事の生まれ方やつながり方の見え方はどう変わるのでしょうか。 この課のことば 差異それ自体 決まった二つのものの「違い」ではなく、同じものが定まる前からはたらき、ものの同一性をかえって生み出す差異のことです。 表象(ひょうしょう) 差異を、同一性・対立・類比・類似という四つの枠に従わせて考える、伝統的な考え方です (表 1) 。ドゥルーズの批判の的です。 強度(きょうど) 温度や圧力のように、分けると質が変わる量です。長さや体積のような分けられる量(外延)を生む条件だ、とドゥルーズは考えます。 潜在的なもの(ヴァーチャル) まだ形になっていないが実在していて、個々のものが現実に形をとる道筋を決めている、差異の関係のまとまりです。 リゾーム もとはショウガやハスの根のように横に這う地下茎のことです。ドゥルーズとガタリは、中心も幹もなく、どの点もほかの点とつながりうる網の目の名にしました。 脱領土化(だつりょうどか) なわばりや習慣のような決まった振る舞いの型がほどけることです。新しい型ができることを再領土化と呼びます。 差異の哲学――違いは「同じもの」のあとに来るのか ドゥルーズが問うのは、ものがどうやって生まれてくるのか、です。その理由を、彼は差異に求めました。この章では、差異を同一性から解き放つこと、反復を同じものの写しから解き放つこと、ガタリとともに描いた中心のない網の目、の三つを順に読みます。 差異それ自体――同一性は差異から生まれる ふだん私たちは、二つのものを決めてから比べ、違いはそのあいだに後から見つかる関係だと考えます。ドゥルーズは、それまでの哲学がこの順で差異を考えてきたと批判しました。「x は y と違う」という形で、差異はいつも、すでに自分の同一性を持つ二つの項のあいだに置かれてきた、というのです(『差異と反復』第 1 章) [1] [2] 。 ドゥルーズはこの伝統的な考え方を 表象 と呼び、そこでは差異が四つの枠に従わされていると見ました。概念の同一性、述語の対立、判断の類比、知覚の類似です [1] (表 1) 。SEP の筆者たちは、アリストテレスとポルピュリオスの分け方で説明します。「動物」という類を「理性的」と「非理性的」という対立する述語で分けると、「人間」という種が取り出されます。同じ種の個体どうし、たとえばテアイテトスとソクラテスの違いは、似ている・似ていないで見分けるしかありません。どの段でも、差異は何かの同一性を土台にして考えられています [1] 。 この表で分かること: 伝統的な考え方(表象)は、四つの枠のどれでも、差異を何かの同一性の上で考えています。ドゥルーズはこの四つから差異を解き放とうとしました。 表象の枠 何の上で差異を考えるか 例 ドゥルーズの見方 概念の同一性 類という同じ概念 「動物」を分けて「人間」 差異が概念に従わされる 述語の対立 対立する二つの性質 理性的/非理性的 差異が対立に縮められる 判断の類比 第一の存在(実体) 存在は多くの仕方で語られる 差異が実体を軸に並べられる 知覚の類似 似ている・似ていない テアイテトスとソクラテス 差異が似姿の程度になる 表 1 表象の四つの枠と、その例です。枠と例は SEP の整理により [1] 、右の列は本教材の言い方です。 ドゥルーズはこの順を逆にします。同一性はなくなりませんが、差異のあいだの先立つ関係から生み出される結果になります。ここでの差異は「x でないもの」という否定ではなく、微分の dx のような差の関係です [1] (図 1) 。SEP の筆者たちは、雲と地面のあいだの電位の差を例に挙げます。この差が、稲妻という出来事の十分な理由になるのです [1] 。 二つのものが違う その違いは、どこから来るのか 同一性が先 決まった二つを 比べ、違いは後から 見つかる(表象の 四つの枠) 差異が先 差の関係から同じ ものが生まれる (電位の差から 稲妻) 図 1 差異をどう考えるかの分かれ道です(本教材の整理)。左は伝統的な表象の考え方、右がドゥルーズの考え方です。稲妻の例は SEP の筆者によります [1] 。 場面にしてみます(情景は本教材の作例です)。夏の夕方、雲の底と地面のあいだに電気の偏りの差が溜まり、ある大きさを超えて稲妻が走ります。稲妻が先にあったのではなく、差が先にあり、稲妻はそこから生まれました。 ドゥルーズは第 3 章で、思考の「独断的なイメージ」も退けます。人は生まれつき正しく考えようとするという前提と、見たものを「同じもの」と認める働き(再認)が柱です。思考は、どの分類にも収まらない何かとの出会いに強いられて動き出す、と彼は言います [1] 。ここで彼はカントの超越論的な問いを受け継ぎつつ、可能な経験一般ではなく、いまここの個体の現実の経験がどう生まれるかを問いました [1] 。 ここで間違えやすい ドゥルーズが「同じものなど無い」と言った、と取るのは誤りです。同一性は残り、それが差異から生み出された結果だと言うのです。順序を入れ替えたのであって、消したのではありません [1] 。差異を多様性の標語と取るのも誤りで、これはものの生まれを説明する原理です。 反復と強度――同じものは二度と来ない 反復についても、ドゥルーズは同じ向きの転換をします。ふつう反復は、元になる同じものがあり、それを何度も写すことだと考えられます。この見方では、反復はいつも同一性に従っています。ドゥルーズは『差異と反復』第 2 章で、反復を元の同じものの写しから解き放ち、差異の反復として考えました [1] [2] 。 手がかりはニーチェの永遠回帰です。ドゥルーズの読みでは、永遠回帰とは同じものがそっくり戻ってくることではありません。具体的なものが個体として生まれるたびに、それを生む差異の条件が立ち戻ってくることです [1] 。戻ってくるのが差異なので、生まれる個体は毎回新しいものになります。これは、この課程のニーチェの課で読んだ範囲の外にある、ドゥルーズ独自の読み方です。 差異が形を生む仕組みを、ドゥルーズは 強度 と外延の区別で説明します(同、第 4・5 章) [1] [2] 。長さや体積のような外延の量は、二つに分ければ半分ずつになります。温度や圧力のような強度の量は、そうはなりません。90 度の水を半分に分けても、45 度の水が二つできるのではなく、90 度の水が二つできます。ただし SEP の筆者たちによれば、大事なのは分けられないことより、分けようとすると系の質が変わることです [1] 。 台所の場面に移してみます(SEP の筆者の対流の例をもとにした本教材の作例です)。透明な鍋に水を張り、弱火で下から温めます。はじめ水は静かで、どこを見ても同じです。底と上の温度の差が開き、ある閾(しきい)を超えると、水は底から上り、上で横に広がって沈む、という決まった動き(対流)を始めます。条件によっては、水面に六角形に近い模様が並びます。模様の一つひとつは何センチという大きさを持ちますが、その大きさは温度の差から生まれました [1] (図 2) 。ドゥルーズは、強度が大きさを持つ空間の生まれる条件だと論じます [1] 。 温めはじめ どこを見ても同じ 上 25 度 底 25 度 水面は平らで静か 差が閾を超えたあと 上から見た模様(模式図) 上 30 度 底 70 度 温度の差 測れる大きさの模様が現れる 図 2 下から温めた鍋の水の、温めはじめ(一つ目)と、温度の差が閾を超えたあと(二つ目)です(本教材の絵)。二つ目では対流が起こり、測れる大きさの模様が現れます。六角形の模様は、条件がそろったときに現れる型の一つを描いた模式図で、条件によっては帯のような型にもなります。生まれるのは流れの模様で、水の量が変わるのではありません。 強度の過程を形づくるのは、形になる前の差異の関係のまとまりで、ドゥルーズはこれを理念とも多様体とも呼びます。言葉の音(音素)は言語の体系から離れてはありえず、英語の /p/ は /t/ /b/ /d/ などとの違いで互いに決まります [1] 。こうした関係のまとまりが 潜在的なもの で、個体が生まれるとは、それが現実の形をとること(現働化)です [1] 。SEP の筆者たちは台風を例に、理念は台風を説明するが、実際の台風を引き起こすのは熱帯の海で温められた現実の風だ、と区別しています [1] 。 ここで間違えやすい 「潜在的(ヴァーチャル)」を、コンピューターの仮想空間のような、本物でない作りものの意味に取るのは誤りです。まだ形をとっていないが実在していて、現実のものの生まれ方を決めている差異の関係のことです [1] 。また、ドゥルーズの反復を、毎日同じことを繰り返す単調さと取るのも誤りです。反復は同じものの写しではなく、そのたびに新しい個体を生む差異の回帰です。 リゾーム――幹のない網の目 ここからはガタリとの共同の仕事です。二人の『資本主義と分裂症』の第 1 巻『アンチ・オイディプス』(1972)はフランスで評判を呼び、ドゥルーズを公の知識人にしました。その第 2 巻が『千のプラトー』(1980)です [1] 。 リゾーム は、ドゥルーズ一人ではなく二人の概念です。 第 1 プラトー「序――リゾーム」で、二人は二つの秩序の形を対置します [3] 。一つは樹木の形です。すべては一本の幹にさかのぼり、上下の順がはっきりしています。家系図や、類から種へ分ける分類がその典型で、第一の節で見たアリストテレス流の分け方もこの形です(本教材の読み方として結びます)。もう一つが地下茎の網の目、リゾームです。中心も幹もなく、どの点からでも入れて、どの点もほかのどの点とつながりえます [1] [3] (図 3) 。 樹木 人間 理性的 非理性的 動物 すべては一つの幹へ リゾーム 切れ目 どの点ともつながる 切れても別の所から伸びる 図 3 樹木(一つ目)とリゾーム(二つ目)です(本教材の絵)。一つ目では枝がすべて一本の幹にさかのぼり、二つ目では中心のない地下茎が網の目をなして、切れ目の先からも芽が出ています。一つ目の分類の言葉は、第一の節の類と種の分け方を本教材が添えたものです。 図書館の場面で考えてみます(本教材の作例です)。本はふつう「哲学、西洋哲学、近代、フランス」と、大きな分類から小さな分類へ一本道でたどって探します。これは樹木の形です。いっぽう、読んだ人の残したメモを手がかりに探すと、哲学の本から料理の本へ、料理の本から詩集へと、決まった入口も上下の順もないまま飛びます。同じ本棚の上で、つながり方の形が違うのです。 本そのものも、この形で書かれています。『アンチ・オイディプス』が一つの議論を章ごとに積み上げたのに対し、『千のプラトー』はどの点どうしもじかにつながりうるリゾームとして書かれた、と SEP の筆者たちは言います [1] 。本は十四のプラトーと結論からなり、宇宙・地質・生物・言語・音楽・政治を行き来します [1] 。序文は、プラトーはおおむねどの順で読んでもよいが、結論は最後に読むよう断っています [3] 。 二人の背後には、外から命じる者がいなくても、物質の系がある閾で自分を組織する、という考えがあります。前の節の対流がその例です。二人はこれを、神・指導者・資本・主体のような外の組織者を要しない秩序として、社会・言語・心の領域へ広げました [1] 。どんな系にも、固まって層をなす向き(成層化)と、ほどけて新しいつながりを探る向きがあります。習慣やなわばりの型がほどけることを 脱領土化 、新しく型ができることを再領土化と呼びます [1] 。 ここで間違えやすい リゾームを「何でもつながっていて平等で良いもの」の言い換えや、「樹木は悪、リゾームは善」という単純な二分と取るのは誤りです。二人は、どんな系も固まる向きとほどける向きを同時に含