レヴィナス――他者の顔が倫理を呼び起こす(顔・無限の責任) — Epoché
現代 現象学と実存主義 約 17 分 本文 約 6,800 字 図 4・表 2 原典 1 節 この課の要点 全体性・顔・責任の 3 つ 全体性 知ることは、相手を自分の見取り図に収めることでもある。レヴィナスは、体系の哲学や戦争を宣言する国家を「全体性」の例とし、他者はそこに収まらない外部で、知りつくせないという意味で「無限」だと論じた(『全体性と無限』1961、序文)。 顔 他者の顔は、無防備なまま、言葉があっても無くても「殺さないで」と訴える(SEP の要約の言い方)。顔は力ではなく弱さでわたしの自由に逆らい、わたしは恥の中で、自分の自由が正しいのかを問われる(『全体性と無限』第 3 部)。 責任 呼びかけられたわたしは、代わりのきかない者として選ばれ、「わたしはここにいます」と応える(『倫理と無限』1982)。倫理は功利・徳・義務を考える前に、この応答の責任として始まる。顔の中にはすでに第三者がいて、比べて決める正義も要る。責任と正義の結び方には批判がある。 はじめに この編では、フッサールが意識に現れるままの経験を記述する現象学を始め、ハイデガーが世界の中に投げ込まれた人間のあり方を描きました。エマニュエル・レヴィナスは、1928〜29 年にフライブルクでその二人に学んだ人です [1] 。 けれども彼は、やがて師たちとは違う所から哲学を始めます。リトアニア生まれのユダヤ人である彼は、フランス軍に加わって捕虜となり、故郷に残った家族を殺されました [1] 。1947 年の本では、ハイデガーの哲学の風土から出たいという深い欲求を書いています [1] 。 その出口としてレヴィナスが見いだしたのが、他の人、つまり他者との関係です。1961 年の主著『全体性と無限』で、彼は、存在とは何かという問いよりも先に、目の前の人にどう応えるかという倫理の問いがある、と論じました [1] [2] 。 原典を読むでは顔を論じる段を要約で確かめ、比べてみるではハイデガー・サルトルと、「責任」の出どころを比べます。 この課の問い 人を知るとは、どういうことでしょうか。名前や仕事や考え方を知るほど、その人はわたしの頭の中の地図に収まっていきます。けれども、目の前の人がこちらを見て何かを訴えるとき、その人は地図の上の点で終わるでしょうか。わたしたちが他人に責任を負うのが、約束したからでも、得になるからでもないとしたら、その責任はどこから来るのでしょうか。 この課のことば 他者 わたしではない人。レヴィナスは、わたしが知りつくすことも、自分の考えの中に取りこむこともできない、外から来る人という意味で使います。 顔 目・鼻・口の形のことではなく、他者がこちらに向かって語りかけ、訴えてくる、そのあらわれのことです。言葉が無くても、表情やしぐさで届きます。 全体性 すべてを一つの見取り図や体系にまとめ、どの人もその一部として位置づける考え方や仕組みです。レヴィナスは、体系の哲学や、戦争を宣言する国家をその例とみました。 無限 限りが無く、枠に収まりきらないこと。他者の顔が、わたしの思い描くどんな像もはみ出し、知りつくせないという意味で使います。 責任 ふつうは自分のしたことの後始末をすることです。レヴィナスはそれより前の、他者の呼びかけに応えるよう呼ばれていることの意味で使います。 第三者 向き合う二人のほかにいる、もう一人の人です。第三者がいると、誰の訴えにどう応えるかを比べて決めねばならず、正義が問われます。 顔と責任――倫理はどこから始まるのか 前の課のメルロ=ポンティは、世界を知る手がかりを身体に求めました。フッサールとハイデガーの両方に学んだレヴィナスは、現象学の道具を使いながら、別の問いへ向かいます。わたしの外にいて、わたしの知に収まりきらない他者と、どう関わるのか、という問いです [1] 。この章では、知ることと全体性、顔との出会い、応答としての責任と正義を順に読みます。 全体性と無限――知りつくせない他者 わたしたちは、ものや人を知るとき、それを自分の持っている言葉や分類に当てはめて理解します。理解されたものは、わたしの見取り図の一部になります。これは悪いことではありません。けれども、相手をわたしの側に取りこむ動きでもある、とレヴィナスは見ます(この言い換えは本教材のもの)。 フッサールやハイデガー、サルトルは、意識が世界のものへ向かうこと、人間がいつもすでに世界の中に出ていることを「超越」と呼びました。レヴィナスは、この意味の超越を、認めてよいが第一のものではない、と考えます [1] 。いちばん根にある超越は、わたしの外にあって、わたしのまとめ上げる知を逃れるもの、つまり他の人との関係だ、というのです(『全体性と無限』第 1 部) [1] [2] 。他者は目に見える一人の人ですが、同時にわたしに語りかけ、訴え、命じてきます [1] 。 では、すべてを一つにまとめる考え方とは何でしょうか。レヴィナスは『全体性と無限』の序文で、歴史を、戦争と一時の平和がくり返す暴力として描きます [1] 。国家は商いと争いを取り仕切り、戦争を宣言します。それと同じように、ヘーゲルの体系の哲学は、一人ひとりの感じ方や知を、より大きな全体の歩みに組み入れる、とレヴィナスは見ます [1] 。これが 全体性 です (図 1) 。 知る――全体性 顔に応える――無限 相手は、分類の中の 一例 相手は、外から 語りかけてくる人 わたしの思うように 並べ、使える わたしの自由が 中断され、問われる 行き着く先は体系の 哲学と国家 行き着く先は応える 責任と倫理 二つは人を分ける仕切りではなく、同じわたしの 向き合い方の違いです。 図 1 他者との二つのかかわり方です(本教材の整理)。全体性と無限の区別、体系の哲学と国家の例は、『全体性と無限』の序文によります [1] 。 これに対して、他者は 無限 だとレヴィナスは言います。無限とは、限りが無く、枠で囲えないことです。顔のあらわれは前もって読めず、わたしの思い描く像をいつもはみ出します [1] 。だから他者を思うことは、ものを思うことではない、と彼は書きます(同、第 1 部) [1] 。この考えの手がかりを、彼は、自分では作り出せない無限の観念が心にあるというデカルトの議論と、存在を超えた善というプラトンの考えに求めました [1] 。 例を一つ置きます(本教材の作例)。人事の係が、社員一人ひとりの年齢・成績・得意なことを一枚の表にまとめています。ある日、表の中の一人が机の前に来て、「少し話を聞いてもらえませんか」と言います。係はその人を表の一行として扱うこともできます。けれどもそのとき、目の前の人の訴えは表の外にこぼれ落ちます。全体性と無限の違いは、この違いです。 ここからレヴィナスは、ものが「ある」とはどういうことかを問う存在論を、いちばん先に置く哲学を批判します。とりわけ批判したのはハイデガーの存在論で、彼は他者との関係である倫理を、第一の哲学に置こうとしました [1] 。 ここで間違えやすい レヴィナスが、他人について知ることや体系的に考えることそのものを悪いと言った、と取らないでください。彼は、知ることや世界の中での超越を、認めてよいが第一ではない、と見ました [1] 。問題にしたのは、知ることで他者を残らず捉えられると思い、他者を全体の一部として片づけることです。また「無限」を、すぐに宗教の神のことだと読むのも早すぎます。SEP によれば、無限の観念は、神と解釈する前に、日々の他者との出会いに根ざしています [1] 。 顔――無防備なまま訴える レヴィナスは、他者との出会いを、まず満ち足りた暮らしの側から描きます。わたしたちは、おいしいスープ、空気、光、仕事、眠りなどによって生き、それを楽しんでいます(『全体性と無限』第 2 部) [1] 。家を持ち、ものを蓄えて暮らします。その中では、わたしはおおむね思うようにふるまえます [1] 。 そこへ他者の 顔 が現れます。顔とは目鼻立ちのことではなく、他者がこちらに向かって語りかけ、訴えてくる、そのあらわれのことです。顔のあらわれは、わたしの自由な活動を中断させ、自分のことを申し開きするよう呼びかけます。レヴィナスはこれを「善さ」と呼びます(同、第 3 部) [1] (図 2) 。 満ち足りた部屋 わたしのもの わたし わたしは思うようにふるまえる 戸口の顔 わたしはここにいます 殺さないで 囲いが切れる 言葉も力も無い 図 2 一つ目は満ち足りた部屋、二つ目は戸口に他者が現れた場面です(本教材の絵)。スープと家、無防備な顔、受け身の抵抗、「わたしはここにいます」はレヴィナスの考えによります。冬の夜の戸口の場面と、わたしを囲む円の描き方は本教材の作例です [1] 。 顔は裸で無防備です。SEP の要約の言い方では、顔は、言葉があっても無くても「殺さないで」と訴えます [1] 。顔は力でわたしを押し返すのではありません。弱いまま、わたしの支配しようとする欲求に逆らいます。これをレヴィナスは受け身の抵抗と呼びます [1] 。彼はまた、聖書で守られるべき者として挙げられる寡婦・孤児・異邦人の姿で顔を語ります。ただしそれは、宗教のたとえになる前に、わたしたちが現に出会う人々の姿だ、と言います [1] 。 顔の受け身の抵抗に出会うと、わたしは恥を覚えます。恥の中で、わたしは自分の自由が、それだけでは正しいと言えないものだと感じます [1] 。こうしてわたしは自分の関心事から引き出され、他者を自分より高い者として、申し開きをします [1] 。顔は、わたしが考え始める前に、もうわたしに届いているのです [1] 。 図2の場面は、本人の例をもとにした本教材の作例です。冬の夜、あたたかい部屋で、わたしはスープを前にくつろいでいます。戸をたたく音に開けると、見知らぬ人が寒さに震えて立ち、何も言わずにこちらを見ています。わたしは戸を閉めることもできますし、その人には力でわたしを止める手立てがありません。けれども、その顔を見てしまったあとでは、戸を閉めるわたしは、閉めてよいのかと問われています。 ここで間違えやすい 「顔」を、目鼻立ちや美しさの話だと取らないでください。顔は、他者がこちらへ語りかけ、訴えるあらわれで、表情やしぐさでも届きます [1] 。性別や民族などの特徴を見て判断するより前に、顔はわたしに呼びかける、という読み方もあります [1] 。もう一つ、レヴィナスが「人は思いやりがあるから他人を助ける」と言った、と取るのも誤りです。応えよという命令は、感情移入や同情という心の働きから生まれるのではない、と SEP は注意しています [1] 。 応答としての責任――「わたしはここにいます」と第三者 レヴィナスによれば、他者に名指されたわたしは、応えるように選ばれています(『全体性と無限』第 3 部) [1] 。ほかの誰かが代わりに応えればよい、とは言えません。わたしは他者のほうへ身を起こし、「わたしはここにいます」と答えます。この言い方は、のちの対話『倫理と無限』に出てきます [1] [3] 。 SEP の整理では、レヴィナスは、倫理の根をたどると、功利(みんなの幸せを増やすこと)・徳・義務を考える前に、他者に応える責任という顔と顔の関係に行き着く、と論じました [1] 。 この責任は、借りを返せば終わる取り引きではありません。レヴィナスは、他者へ向かう欲望は満たされず、かえって深まる、と書いています(同、第 1 部) [1] 。応えても応え終わらない、と本教材は読みます。 相手が一人ではないときはどうでしょう。応えることから対話・教え・書くことへと社会の関係が広がり、責任の手ざわりは薄まって、人々の幸せがぶつかり合います [1] 。誰に先に応え、どう公平に分けるかを決める 正義 が、ここで要ります [1] (図 3) 。 ① 満ち足りた暮らし スープ・家・仕事を楽しみ、思うように ふるまう ② 顔が現れる 無防備な顔が、わたしの自由を中断する ③ 恥 自分の自由が正しいのかを問われる ④ 選ばれ、応える 代わりなく「わたしはここにいます」と 答える ⑤ 対話と教え 話し合いや教えへ、社会の関係が広がる ⑥ 第三者と正義 誰に先に応えるかを比べて決める 図 3 顔との出会いから正義までの、SEP の整理による説明の順です(本教材の図)。時の順ではなく、第三者は②〜④の顔と顔の出会いの中にもすでにいます。点線の段は、社会へ広がるにつれて責任の手ざわりが薄まる所です [1] [2] 。 ただし図3は説明の順です。レヴィナスは、顔と顔の出会いの中でも、相手の目を通して第三者、つまり人類がわたしを見ている、と言います [1] [2] 。最初の対面に、すでに第三者が居合わせているのです (表 1) 。 この表で分かること: 顔との出会いでは比べられない応答が求められ、第三者がいれば比べて決める正義が要ります。三つは時の順ではなく、同じ出会いの中に重なっています。 場面 求められること 比べられるか 危うさ 顔と向き合う 呼びかけに応える 比べられない 応え終わらない重さ 第三者がいる 誰に先に応えるか決める 比べて量る 責任の手ざわりが薄まる 国家と法 公平な分け方を保つ 規則で一律に扱う 放っておくと倫理を失う 表 1 責任と正義の関係です(本教材の整理)。第三者と正義の位置、政治は放っておくと倫理的であり続けにくいというレヴィナスの見方は、SEP の整理によります [1] 。 残る問いもあります。『全体性と無限』は、責任を国家へではなく家族へ広げる道を描きました [1] 。これには、社会や政治の仲立ちが足りないという批判(ローズ)や、責任は対話と伝統に支えられるという解釈学(ガダマー)の立場からの批判があります [1] 。 ここで間違えやすい 「無限の責任」を、世界中の不幸の罰をわたし一人が負うことだと取らないでください。罪や法の責任より前の、呼びかけに応えざるをえないことです(本教材の読み方)。また、第三者がいるかぎり、比べて決める正義は要ります [1] 。 原典を読む 第 1 章の二つ目の節で見た、顔が無防備なまま逆らうという考えを、『全体性と無限』の該当の段で確かめます。著作は日本で保護期間内にあるため、以下は本教材の言葉による要