14.49 辞書から始めて、その語を問い直す — 真理は起こる — Epoché
この篇でできるようになること ★ 辞書の定義から始めて、その語を問い直す 運びが読める。 ★ 引用符で「語そのもの」を指す 書き方が分かる。 ★ 語を割って形を証拠にする やり方が追える。 ★ 抽象をたとえで着地させる 手が見える。 前提 : なし(特別編に門はありません)。第 5 期以降ならどこからでも読めます。目安は型 3.40 まで・語 4.60 まで。 読む前に ★ この篇は 段落が小さい です。★ ここまでの篇と並べます 。 どの篇か 段落の数 一段落の平均 ★ 14.46 スミス 4 つ 409 語 ★ 14.47 ミル 5 つ 292 語 ★ 14.48 エマソン 8 つ 232 語 ★ この篇 ジェイムズ ★ 13 つ ★ 113 語 ★ 段落が小さいのは これが講演だから です。★ 本文に it will take the rest of my hour to explain (残りの一時間で説明します) とあります ——★ 聞いている人がいる文章 です。 ★ だから 読みやすい です。★ ただし 語が新しい ——★ pragmatists ・ intellectualists のように、 この本のために作られたような語 が並びます 。★ 背景は 12.16 知編 、いまの学術英語との関わりは 12.15 知編 にあります 。 ★ 読編に 同じ本の第 2 講(方法) があります ——★ 8.160 読編 ・ 8.161 読編 。★ この篇は その方法を「真理」に当てた第 6 講 です。 原文 原文は別の文書にあります(作品ページの「原文」)。本文は 1474 語、段落は 13 、文は 72 本、一文の平均は 20.5 語、いちばん長い一文は 59 語です。 ★ 疑問符が 6 個、全部大文字の語が 33 種 あります。★ どちらも 聞き手に向けた印 です——★ 問いで引きつけ、大文字で 声を張ります 。 全訳 原文の全訳です。この課程のために、原文に沿って訳しました。番号は原文の段落の番号で、原文と行き来できます。 真理とは、どの辞書を見ても分かるとおり、私たちの観念のうちのあるものが持つ性質です。それは、偽りが観念と「実在」との「不一致」を意味するように、観念と実在との「一致」を意味します。プラグマティストも主知主義者も、この定義を当然のこととして受け入れています。両者が言い争いを始めるのは、「一致」という語で正確には何が意味されうるのか、また実在を私たちの観念が一致すべき相手と見るとき、「実在」という語で何が意味されるのか、という問いが出されてからのことにすぎません。 これらの問いに答えるにあたって、プラグマティストはより分析的で念入りであり、主知主義者はより無造作で思慮が足りません。世間一般の考えでは、真の観念はその実在を写していなければなりません。他の世間一般の見方と同じく、この見方も最もありふれた経験からの類推に従っています。感覚でとらえられる物についての私たちの真の観念は、確かにその物を写しています。目を閉じて、あの壁の時計を思い浮かべてごらんなさい。その文字盤のまさにそのような真の像、つまり写しが得られます。しかし、その「機械仕掛け」についてのあなたの観念は(あなたが時計職人でない限り)写しと言えるものではずっと少ないのですが、それでも通用します。実在とまったくぶつからないからです。たとえそれが「機械仕掛け」という単なる語にまで縮んでしまっても、その語はなおあなたの役に正しく立ちます。そして、時計の「時を刻む働き」や、そのばねの「弾性」について語るとき、あなたの観念がいったい何を写しうるのかは、なかなか分かりません。 ここに問題があることがお分かりでしょう。私たちの観念がその対象をはっきりと写すことができない場合、その対象との一致とは何を意味するのでしょうか。観念論者の中には、観念は、私たちがその対象について考えるべきだと神が意図していることである場合にはいつでも真である、と言っているように見える人々がいます。また別の人々は、どこまでも写しの見方を守り、私たちの観念は、絶対者の永遠の考え方の写しに近づくちょうどその度合いに応じて真理を持つかのように語ります。 お分かりのとおり、こうした見方はプラグマティズムからの議論を招きます。しかし主知主義者の大きな前提は、真理とは本質的に、動きのない静的な関係を意味する、というものです。何かについての真の観念を手に入れたら、それで話は終わりです。あなたはそれを手にしており、あなたは「知っている」のであり、考えるという自分の宿命を果たしたのです。あなたは心の上でいるべきところにいます。あなたは自分の定言命法に従ったのであり、あなたの理性の宿命のこの頂点のあとには、もう何も続く必要がありません。認識論的に言えば、あなたは安定した釣り合いの中にいるのです。 それに対してプラグマティズムは、いつもの問いを出します。「ある観念や信念が真であるとしよう」とプラグマティズムは言います。「それが真であることは、誰かの実際の生活にどんな具体的な違いをもたらすのか。その真理はどのように実現されるのか。もしその信念が偽りであった場合に得られるであろう経験とは、どの経験が違ってくるのか。要するに、経験の言葉で言えば、その真理の現金価値は何なのか」 プラグマティズムがこの問いを出したとたん、答えが見えてきます。真の観念とは、私たちが取り込み、通用することを確かめ、裏づけ、検めることのできる観念である。偽りの観念とは、それができない観念である。これが、真の観念を持つことが私たちにもたらす実際上の違いです。したがって、これこそが真理の意味です。真理について知られていることは、これがすべてだからです。 この主張こそ、私が擁護しなければならないものです。観念の真理は、観念にもともと備わっている、よどんだ性質ではありません。真理は観念に「起こる」のです。観念は真に「なる」のであり、出来事によって真に「される」のです。その真実性は実は一つの出来事、一つの過程です。すなわち、観念が自らを検めていく過程、その検め「ること」です。その妥当性とは、その妥当を確かめ「ること」の過程なのです。 しかし、「検めること」や「妥当を確かめること」という語そのものは、プラグマティズムの立場から言って何を意味するのでしょうか。それらもまた、検められ、妥当を確かめられた観念の、ある実際上の帰結を指しています。これらの帰結を、ふつうの一致の定式よりうまく言い表す言い回しを一つ見つけるのは難しいことです。まさにそのような帰結こそ、私たちが自分の観念は実在と「一致する」と言うときにいつも心に置いているものだからです。つまり観念は、それが引き起こす行為や他の観念を通して、経験の他の部分の中へ、あるいはそこまで、あるいはその方へと私たちを導きます。そしてその間ずっと私たちは、元の観念が一致したままであると感じています(そのように感じることは、私たちの持つ可能性の一つです)。結びつきや移り行きは、一点から一点へと、前へ進み、調和し、満足のいくものとして私たちにやって来ます。この、心にかなう導きという働きこそ、私たちが観念の検めと言うときに意味しているものです。こうした説明はあいまいで、初めはまったくつまらないことのように聞こえますが、そこからは結果が生じ、それを説明するのに、この時間の残りすべてを要するでしょう。 まず思い出していただきたいのは、真の考えを持つことは、どこにおいても、行動のためのかけがえのない道具を持つことを意味する、という事実です。そして、真理を得るという私たちの義務は、どこからともなく降ってきた空しい命令でも、私たちの知性が自分に課した「芸当」でもなく、すぐれた実際上の理由によって自らを説明できるものなのです。 事実の問題について真の信念を持つことが人間の生活にとって大切であることは、あまりにも知れ渡ったことです。私たちは、限りなく役に立つこともあれば、限りなく害になることもある実在の世界に住んでいます。それらのうちどれを予期すべきかを教えてくれる観念が、この検めの第一の領域全体において真の観念とみなされ、そうした観念を追い求めることは人間の第一の義務です。ここでは、真理を持つことは、それ自体が目的であるどころか、他の生きるための満足に向かう、前もっての手段にすぎません。もし私が森で道に迷って飢えており、牛道のように見えるものを見つけたなら、その先に人の住まいがあると考えることが、このうえなく重要です。そう考えてその道をたどれば、私は助かるからです。ここで真の考えが役に立つのは、その対象である家が役に立つからです。このように、真の観念の実際上の値打ちは、まず第一に、その対象が私たちにとって持つ実際上の重要さから来ています。たしかに、その対象はいつでも重要なわけではありません。別のときには、私はその家に何の用もないかもしれません。そうなれば、その家についての私の観念は、どれほど検めうるものであっても、実際上は無関係であり、表に出ないままでいるほうがよいのです。それでも、ほとんどどんな対象も、いつか一時的に重要になるかもしれないのですから、余分な真理、つまり単に起こりうるだけの状況について真であるような観念を、一般的に蓄えておくことの利点は明らかです。私たちはそうした余分な真理を記憶の中にしまい込み、あふれた分で参考書を満たします。そうした余分な真理のどれかが、私たちの差し迫った事態のどれかに実際上関わってくると、それは冷蔵庫から出て世の中で働くようになり、それについての私たちの信念は活発になります。そのときには、それについて「それは真だから役に立つ」と言うことも、「それは役に立つから真だ」と言うこともできます。この二つの言い回しはまったく同じこと、つまり、ここに満たされ、検めることのできる観念がある、ということを意味しています。「真」とは、検めの過程を始めるどんな観念にも付けられる名であり、「役に立つ」とは、経験の中でのその完了した働きに付けられる名です。真の観念は、もし初めからこのような形で役に立っていなかったなら、決してそのようなものとして選び出されることはなく、一つの類の名を得ることもなかったでしょうし、ましてや値打ちを思わせる名を得ることなどなかったでしょう。 この単純な手がかりから、プラグマティズムは真理についての一般的な考えを得ます。真理とは本質的に、私たちの経験の一つの時点が、導かれてよかったと思えるような他の時点へと私たちを導いていく、その導き方と結びついたものだ、という考えです。まず第一に、そして常識の水準では、心の状態の真理とは、この「行く値打ちのある導き」という働きを意味します。私たちの経験のある時点が、どんな種類のものであれ、真である考えを私たちに吹き込むとき、それは、遅かれ早かれ私たちがその考えの導きによって再び経験の個々の事柄の中へ入っていき、それらと有利な結びつきを持つ、ということを意味します。これはかなりあいまいな言い方ですが、どうか覚えておいていただきたい。これは欠かせないものだからです。 一方、私たちの経験は、どこもかしこも規則性に貫かれています。経験の一片は、別の一片に備えるよう私たちに警告することができ、そのより遠い対象を「意図する」ことも、それを「意味する」こともできます。対象が現れることが、その意味の検めです。こうした場合、真理とは最終的な検め以外の何ものでもないのですから、私たちの側の気まぐれとは明らかに相いれません。自分の経験の中で実在がたどる順序を、自分の信念がもてあそぶような人は災いです。そうした信念は彼をどこにも導かないか、さもなければ誤った結びつきを作るでしょう。 ここで「実在」あるいは「対象」と言うとき、私たちが意味しているのは、感覚に現れている常識の事物か、さもなければ日付・場所・距離・種類・活動といった常識の関係です。牛道に沿って家の心の像をたどっていくと、私たちは実際にその家を目にするようになります。私たちはその像の完全な検めを得るのです。このように単純に、そして完全に検められた導きこそ、確かに真理の過程の元であり原型です。経験は確かに真理の過程の他の形も示してくれますが、それらはすべて、第一の検めが途中で止められたり、何倍にもされたり、互いに置き換えられたりしたものとして考えることができます。 語釈 帯の外の語は 66 語です。★ 三つに分かれます ——★ 立場の名 ( pragmatists ・ intellectualists ・ idealists )、★ 「確かめる」の一族 ( verification ・ validation ・ verifiable )、★ 語を割った断片 ( veri ・ FICATION ・ ATION )。★ 三つめは 語ではありません ——★ 本文が わざと切って見せた もの です(下の「三」)。 語(品詞) 意味 注 ASSIMILATE en 動 取り込んで自分のものにする。大文字は強めの印 ATION en 略 語尾。本文は validation を割って後ろだけ大文字にした CORROBORATE en 動 裏づける。大文字は強めの印 FICATION en 略 語尾。本文は verification を割って後ろだけ大文字にした LEADINGS en 名 導いていくこと。大文字は強めの印 Pragmatists en 名 プラグマティズムの立場をとる人たち The Pragmatists in the seminar judged every idea by its practical results. そのゼミのプラグマティズムの立場をとる人たちは、あらゆる考えをその実際の結果によって判断しました。 VALIDATE en 動 通用することを確かめる。大文字は強めの印 advantageous en 形 都合のよい It would be advantageous to book the tickets several months early. 数か月早くチケットを予約しておくのは都合のよいことでしょう。 advent en 名 到来 The advent of the internet changed how people share i