ハイデガー――人間は世界の中に投げ込まれている(世界内存在・死への存在) — Epoché
現代 現象学と実存主義 約 28 分 本文 約 11,700 字 図 7・表 2 原典 2 節 この課の要点 世界・有限・引き受けの 3 つ 世界 人間(現存在)は、世界を外から眺める意識ではない。道具を使い、人に合わせ、気分に染まりながら、すでに世界の中にいる。しかもその状況を自分で選んだのではなく、投げ込まれている(『存在と時間』第 1 篇)。 有限 死は、いつか起こる出来事である前に、まったく在りえなくなるという、自分だけの、追い越せない可能性である(SZ 250)。ふだん私たちは「ひとはいつか死ぬ」と言って、自分の死から目をそらしている。 引き受け 死へと先駆けることで、人はたまたま押し寄せる可能性に流されるのをやめ、限りある生を自分のものとして引き受けられる(SZ 263)。ただし、何が「本来的」な生なのかは、解釈が大きく分かれる。 はじめに 前の課のフッサールの助手を務めたのが、この課のマルティン・ハイデガーです。1927 年の主著『存在と時間』は師に献げられましたが、問いの向きは師と変わっています [1] 。 ハイデガーが問い直したのは、「在る」とはどういうことか、という古い問いです。『存在と時間』は、この「在る」の意味を問う問いを立て直すことから始まります(SZ 1) [1] 。その問いを立てるために、彼はまず、問う者である私たち自身が、世界の中にどう在るか(世界内存在)を調べます [1] 。 そして、その生には終わりがあります。ハイデガーは死を、いつか来る出来事としてでなく、いまの生き方にかかわる可能性として考えました [1] 。この課では、第 1 章で世界内存在を、第 2 章で死への存在を読みます。 なお、ハイデガーは 1933 年にナチ党に入党しました。資料で裏づけられた反ユダヤ主義とあわせて、それが彼の哲学に何を意味するかは激しく争われています [1] 。この問いが閉じていないことを心に留めて読んでください。 この課の問い 私たちは、ふだん世界を眺める意識として生きているでしょうか。道具を使い、人に合わせ、気分に染まりながら、気づけばもう世界の中にいるのではないでしょうか。そして、その生には必ず終わりがあります。終わりがあることは、生き方をどう変えるのでしょうか。 この課のことば 現存在(ダーザイン) ハイデガーが人間を呼ぶ語です。人間を生物や心としてでなく、「在る」とはどういうことかを何となく分かっている者として見るために使います。 世界内存在 現存在の根本の在り方です。「世界」と「その中にいる自分」と「中にいること」は切り離せない一つのことなので、ハイデガーは一語につなげて書きます。 道具的存在と事物的存在 使えるもの・役に立つものとして出会われる在り方が道具的存在(手もとにあるもの)、使う関わりから離れて性質を持った物として眺められる在り方が事物的存在(目の前にあるもの)です。 世人(ひと) 「ひとはこうするものだ」という、誰でもない世間のふつうの在り方です。ふだんの自分は、たいてい、誰もがするように振る舞う「ひと」としての自分です。 被投性(投げ込まれていること) 生まれや体や時代や性向を選ばずに、気づけばすでにある状況の中にいることです。 先駆(死へと先駆けること) 死をくよくよ思うことでも、いつどう死ぬかを考えることでもなく、限りある生を限りあるものとして引き受けて生きることです。 世界内存在――人間はどんなふうに世界の中にいるのか フッサールは、ふだんの思い込みを括弧に入れ、意識に現れるものを確かめる道を開きました。その助手だったハイデガーは、問いの向きを変えます。私たちはまず意識として世界を眺めているのではなく、世界の中で何かをしながら生きている、というのです [1] 。この章では、自分の在り方が問われる存在(現存在)、使いながら出会う世界(道具)、世人と投げ込まれていること、を順に読みます。 現存在――自分がどう生きるかが問われている存在 ハイデガーは、人間を「人間」と呼ばず、「現存在( Dasein )」と呼びます。ドイツ語のふつうの意味は「存在すること」です。この語を選んだのは、自分の問いが、人類学や心理学や生物学の調べ方とは違うことをはっきりさせるためでした [1] 。彼が知りたいのは、体や心の仕組みではなく、私たちがどんなふうに在るのか、という在り方そのものです。 なぜ人間から始めるのでしょうか。私たちは、「在る」とはどういうことかを、言葉にできなくても何となく分かっています。机がある、雨が降っている、と迷わずに言えるからです。ハイデガーは現存在を、この「在ることを何となく分かっている者」として選び出します(SZ 12) [1] [2] 。SZ は原書の頁で、多くの訳書の欄外にも記されています。ハイデガーの言い方では、現存在とは、自分の存在そのものが自分にとって問題になっている者です [1] 。存在の問いは、それを問う者の在り方の問いと切り離せないのです。 では、現存在は物とどう違うのでしょうか (図 1) 。石や机なら、大きさや材質や置き場所を並べれば、それが何であるかがほぼ言えます。人はそうはいきません。母であること、教師であること、詩を書くことなど、いろいろな在り方を取りえます。自分の生を引き受けることも、引き受けずに流されることもできます。何であるかが事実の一覧では決まらず、いつも自分の可能性にかかわっています。ハイデガーは、この現存在だけの在り方を「実存」と呼びます [1] 。 石や机(物) 現存在(人間) 大きさや材質で 何かが言える 事実の一覧では 決まらない 何であるかは事実で 決まる いつも自分の 可能性にかかわる 自分の在り方を気に かけない どう在るかが 問われている 現存在は、心や脳の名ではなく、在り方の名です。 図 1 物と現存在の在り方の違いです(本教材の整理)。現存在だけの、可能性にかかわる在り方を、ハイデガーは実存と呼びます [1] 。 本教材の作例で考えてみましょう。進路の面談で、先生が成績表を見て「君はこういう人だね」と言います。成績も身長も住所も、事実として並べられます。けれども当人にとって、自分が何者かは、その表では決まりません。料理人になるか、進学するか、まだ決めていないことや、決めないまま流されることもありうること、それ自体が、実存という在り方です。 フッサールが意識のはたらきから出発したのに対し、ハイデガーは、世界の中で暮らし、何かを気にかけ、行う者から出発します。これは本教材の整理です。 ここで間違えやすい 「現存在」を、心や意識、あるいは脳のことだと取らないようにしましょう。ハイデガーがこの語を選んだのは、まさに人間を心や生物として扱う見方から離れるためでした [1] 。また「実存」を、ふつうの意味の「存在すること」と取るのも誤りです。『存在と時間』では、可能性にかかわる現存在だけの在り方を指す術語です。 道具の世界――ハンマーは眺める前に使われている ハイデガーによれば、私たちが最初に、たいていの場合に出会うのは、眺める物ではなく、使えるもの、役に立つものです [1] 。この在り方を、彼は「道具的存在(手もとにあるもの)」と呼びます。 本人が挙げるのは、ハンマーで打つ場面です (図 2) 。大工が釘を打っているとき、手の中のハンマーはほとんど意識にのぼりません。ハイデガーによれば、ハンマーは、じっと眺めるときよりも、使って打っているときに、それらしい在り方で現れます(SZ 69) [2] 。そのとき人は道具を凝視せず、仕事の全体を見回しながら、次の動きへ導かれています。この見方を「配視(見回し)」と呼びます [1] 。 使っているとき 棚を仕上げる 釘箱 道具は目立たず仕事に溶け込む 壊れたとき 折れた柄 使えない道具 使う流れが止まり、材質も目に入る 図 2 同じハンマーの二つの場面です(本教材の絵)。一つ目は打っている最中で、ハンマーは仕事に溶け込んでいます。二つ目は柄が折れて手が止まり、ハンマーが使えない道具として目立ちます。ハンマーで打つ例と道具が壊れる例は本人のもの(SZ 69・73)で、大工・棚・折れた柄を見つめる姿は本教材の描き方です。 しかも道具は、一つきりでは在りません。ハンマーは釘を打つことへ、それは板を留めることへ、それは雨風を防ぐことへ、そして最後は、住まう現存在の「ために」へとつながります(SZ 84) [2] (図 3) 。 ハンマー 打つことに使われる 釘を打つ 板を留めるために 板を留める 雨風を防ぐために 雨風を防ぐ 住まいを与えるために 住まう現存在 連なりの終わりにある「ために」 図 3 道具の連なりです。順は SZ 84 の例により、段の言い方は本教材の要約です [2] 。道具が壊れるとこの連なりが止まり、道具は使えない道具として目立ちます(SZ 73) [1] 。 では、道具が壊れたらどうなるでしょう。使う流れが止まり、道具は使えない道具として目立ちます。そのとき、材質や重さといった物としての性質、ハイデガーの言う「事物的存在(目の前にあるもの)」も現れてきます(SZ 73) [1] 。ただし、壊れた道具がすっかりただの物に変わるのではありません。使えない道具として、道具の連なりとの結びつきは残っています(SZ 73〜74) [2] 。 理論や哲学が物をまず性質を持った物として見がちなのは、手を止めて見る見方に傾くからだ、と彼は考えます [1] 。現存在も加えた三つの在り方を、表 1 に並べます。 この表で分かること: ふだんの世界の物は、まず使えるものとして出会われ、性質を持った物としての在り方は、手を止めたときに現れます。人間だけは、そのどちらでもなく、可能性にかかわる実存として在ります。 在り方 出会い方 例 目立つとき 道具的存在 使って、見回しの中で ハンマー・万年筆・川の流れ 仕事がうまく進むとき 事物的存在 手を止めて、じっと見て 材質や重さとしてのハンマー 道具が壊れたとき・眺めるとき 現存在(実存) 自分の在り方を問われて 進路に迷うこの私 不安や死に向き合うとき 表 1 三つの在り方の違いです(本教材の整理)。川やハンマーは本人の例、万年筆は SEP の例、進路に迷う私は本教材の作例です [1] 。 ここで間違えやすい 道具的存在を、本当は物である対象に、人が「使い道」という色を後から塗ったものだと取らないでください。ハイデガーは、使えるものを物への主観の投影と見ることを、はっきり退けています(SZ 71) [1] 。また、事物的存在を「偽りの見方」と取るのも行き過ぎです。科学の見方はそれとして正当で、ハイデガーはその当てはまる範囲を限っているのです [1] 。 世人と被投性――「ひと」として生き、気づけば投げ込まれている 私たちは、一人で世界にいるのではありません。私は親であり、友であり、教師であり、そうした人との関わりで自分を分かっています。道具も他人を指します。畑が誰かのものとして見えれば、私はその縁に沿って、畑の外を歩くように促されます(SZ 118) [1] 。ハイデガーは、他人と共に在ることを、世界内存在の骨組みの一つと見ます [1] 。 では、ふだんの私は、誰として振る舞っているのでしょうか。ハイデガーの答えは「ひと(世人、 das Man )」です。世界の分かりやすさは、まず世間で分け持たれた目的や決まりや好みでできています。だから私たちは、たいてい、誰もがするように振る舞います [1] 。この在り方は、自分で選ぶ重さを肩代わりしてもくれます。 本教材の作例です。新しい学校の初日、休み時間に何をすればよいか分からず、まわりの様子をうかがいます。みんなが廊下に出れば自分も出て、みんなが笑えば自分も笑います。一週間もすれば、考えずにそうできるようになります。その振る舞いは、特定の誰かの命令でなく、「ひとはこうするものだ」に従っています。 しかも、どの町のどの学校に入るかも、そこで話される言葉も、自分で選んだのではありません。体や文化の条件のように、自分では決められない事情が、取りうる可能性を限っています [1] 。ハイデガーはこれを「被投性(投げ込まれていること)」と呼び、人は自分の存在を根から思いのままにすることは決してない、と言います(SZ 284) [1] 。さらに彼は、投げ込まれていることが、自分の在り方に十分な根拠を持てないという意味での「負い目」を生む、と論じます [1] 。この負い目は、第 2 章の最後の節でもう一度出てきます。 投げ込まれた状況は、まず気分を通して開かれます。気分は、心の中の色づけでも、外から来るものでもありません。恐れの中では、物が脅かすもの・守るものとして際立ちます(SZ 137) [1] 。理屈より先に、何が自分にとって大事かを感じさせるのが、気分なのです。 ここで間違えやすい 「世人」を、愚かな大衆への軽蔑や、本当の自分を隠す悪い仮面と取らないでください。世人として生きることは、ふだんの現存在の在り方そのもので、世界が分かりやすくあるための条件でもあります [1] 。また「投げ込まれている」を、人は環境に決められていて自由が無い、という意味に取るのも誤りです。投げ込まれた状況は、人が何者であるかを決めきってはいません [1] 。 死への存在――終わりがあることは、生き方をどう変えるのか 世人として生き、投げ込まれた状況に流されている私たちが、自分の生を自分のものとして引き受けることはできるのでしょうか。『存在と時間』の第 2 篇で、ハイデガーはその手がかりを、不安という気分と、自分の死とのかかわりに求めます。死への先駆けは、現存在を自分自身へと個別にする、と彼は言います(SZ 263) [1] 。この章では、不安、死という可能性、死への先駆と本来性、を順に読みます。 不安――世界の意味が崩れ落ちる気分 第 1 章の最後に見たように、気分は、何が自分にとって大事かを、理屈より先に開いて見せます。ハイデガーは、その中でも不安に特別な役目を与えます [1] 。 恐れと比べると、分かりやすくなります (図 4) 。恐れには相手があります。吠える犬を恐れるとき、犬が脅かすものとして際立ち、逃げ道や身を守る物が目に入ります。不安には、そうした特定の相手がありません。世界