身体から世界を捉える――メルロ=ポンティ — Epoché
解説 感覚の粒より、意味あるまとまり メルロ=ポンティは、知覚をばらばらの感覚の足し算とせず、背景から何かが意味あるまとまりとして現れることと考える。感覚の粒からの説明も、知性が後から組み立てる説明も、同じ出発点を前提にすると批判した。 科学を全て誤りとするのでなく、科学的説明も前提とする生きられた経験の記述を区別する。 出典1 身体は、私はできるとして関わる 身体は観察される物であるだけでなく、私はできるという仕方で世界に関わる。身体図式とは、意識して計算する前から、動きや空間の関係をまとめる働き。習慣や、できそうな課題との関係も含む。 身体は完全に自動で誤らない機械ではない。身体の空間は、物の位置を並べるだけでは尽くせない。 出典1 見えは、対象を尽くさない 知覚には身体の位置や背景条件が関わり、後の経験で修正されうる。他者にも、共有する世界に生きる身体として出会うが、その状況や経験の全てを自分のものにはできない。 何でも気分次第とはしない。対象には一つの現れを超える深さや抵抗があり、反省も世界の外から完全には行えない。 出典1 身体をめぐる、異なる見方 見方 注目すること 観察する物として 身体の測定可能な特徴 行為する身体として 動き・習慣・可能な課題 他者の身体と出会う 共有する世界と、異なる状況 比較のための整理。客観的な説明の全否定ではない。 参考文献 [1] Toadvine, Ted「Maurice Merleau-Ponty」。 出典