エリートの競争――選挙で指導者を選ぶ民主主義 — Epoché
思想 民主主義 約 30 分 本文 約 13,600 字 図 4・表 2 資料 2 節 この課の要点 定義・条件・限界の 3 つ 定義 シュンペーターは民主主義を、人民の票をめぐる競争で決める人が力を得る方法と定義し直しました。有権者の役割は政府を生むことと、再選しないことで退場させることです。 条件 彼は成功のために、政治の人材・決定の範囲・官僚制・民主的な自制が要ると考え、選んだ人への指図を控えるよう求めました。 限界 物差しの核は選挙の有無ではなく競争の自由さです。選挙があっても競争が偏る体制の指摘や、自由と平等を重んじる立場からの批判があります。 はじめに 選挙が近づくと、駅前に候補者が立ち、ポスターが並び、政党はそれぞれの公約を売り込みます。私たちは学校で「民主主義とは国民が政治を決めることだ」と習います。けれども、国政選挙の投票用紙に書くのは、候補者の名前か政党の名前です。税をどうするか、どの国とどう付き合うかを、一つずつ投票で決めているわけではありません。では、私たちは本当に「政治を決めて」いるのでしょうか。それとも「決める人を選んで」いるだけなのでしょうか。 この問いに、はっきりした答えを出したのが、経済学者のヨーゼフ・シュンペーター(1883〜1950 年)です。彼はオーストリア=ハンガリーのモラヴィアに生まれ、1919 年にはドイツ=オーストリア共和国の財務大臣を短く務め、1932 年に米国へ移ってハーバード大学の教授になりました [8] 。1942 年に刊行した『資本主義・社会主義・民主主義』の第 22 章で、彼は民主主義を、人民の票をめぐる競争によって決める人が力を得る方法として定義し直しました [1] 。 この課程の『代表制』の課では、選ぶことと任せることの関係を見ました。前の課『多数の専制』では、多数の意志が少数を押しつぶす危うさを考えました。この課はさらに一歩さかのぼり、そもそも「人民の意志」が政治を決めているという見方そのものを疑ったシュンペーターの議論を読みます。 彼の定義が何を言い、何を言わないのか、どんな条件を付けたのか、そしてどんな批判を受けてきたのかを順に確かめます。この課は、シュンペーターの見方を「正しい民主主義」として勧めるものではありません。民主主義を測る物差しの一つとして、その使い方と限界を学びます。 この課の問い 民主主義とは、人民が自ら争点を決めることでしょうか、それとも人民が決める人を選ぶ競争でしょうか。シュンペーターの定義は何を言い、何を言わないのでしょうか。 この課のことば 古典的学説 シュンペーターが、18 世紀の民主主義の考えをまとめて付けた名です。人民が争点を決め、それで共通の善を実現する、という見方を指します。例:「選挙で民意を示し、政治に実行させる」という考え。 民主的方法 シュンペーターの定義では、個々人が人民の票をめぐる競争によって、決める力を得る仕組みのことです。例:政党が支持を競い、勝った側が政府をつくる。 指導者の座の競争 政治家や政党が、有権者の支持を得ようと争うことです。シュンペーターは会社どうしの競争になぞらえました。例:選挙戦での公約の売り込み。 退場させる働き 有権者が、次の選挙で再選しないことによって、指導者への受け入れを取り下げることです。例:政権を担う政党が総選挙で敗れ、内閣が替わる。 競争的権威主義 選挙は定期的に行われるのに、現職が国の資源を使い、野党に報道の機会を与えないなどして、競争を偏らせる体制です。レヴィツキーとウェイの言葉です。 エリートの競争――民主主義を「選び方」で定義する 民主主義を「誰が決めるか」ではなく「決める人をどう選ぶか」で定義するという発想の転換が、この章の主題です。最初の節で、シュンペーターが退けた考えを確かめ、次の節で彼の定義を読みます。三つ目の節で似た考えとの違いを分け、最後の節で日本の事例に当てはめながら批判を見ます。 「人民が決める」という考え――シュンペーターが退けたもの 日常の言葉では、民主主義は「国民が決める政治」と言われます。選挙のあとには「民意が示された」という言い方もよく聞きます。シュンペーターは、こうした考えの元になった 18 世紀の民主主義の哲学を、次の定義の形にまとめました。民主的方法とは、政治的決定のための制度上の取り決めで、共通の善を実現するものだ。その実現は、人民自身に争点を決めさせることによる。人民は、自らの意志を実行するために集まる個人を選挙で選ぶ、というものです [1] 。彼はこれを「古典的学説」と呼びます。18 世紀の特定の誰かの文ではなく、シュンペーターが批判するために要約した形だという点に注意しましょう (図 1) 。 古典的学説 シュンペーターの 定義 共通の善が一つに 定まる 共通の善は人に よって意味が違う 人民が争点を決める 人民は決める人を 選ぶ 代表は人民の意志を 実行する 指導者が集団の 意志を組織する 選挙は意志を伝える 手段 選挙は指導者の座の 競争 図 1 古典的学説(シュンペーターによる要約)と、シュンペーターの定義の比べ(本教材の整理) [1] 。 この定義の背後には前提があります。共通の善という、政策の明らかな道しるべがあり、合理的な議論によって普通の人なら誰でもそれを見て取れる、という前提です [1] 。そうであれば、人民の共通の意志も一つに定まり、代表はそれを実行すればよいことになります。シュンペーターはこの前提を三つの段で崩しにかかります。第一に、合理的な議論の力で全員が合意できる、一つに定まった共通の善などない、と言います。一部の人が共通の善とは別のものを望むからというより、人や集団によって共通の善の意味が違うことが根本の事実だ、というのです。人生や社会のあり方についての究極の価値は、論理だけでは届かない所にある、とも書いています [1] 。第二に、たとえ「健康」のような目標に皆が賛成しても、個々の争点の答えは決まりません。彼の例では、健康を皆が望んでも、予防接種をめぐって意見は分かれます [1] 。第三に、この二つの帰結として、功利主義者の考えた意味での「人民の意志」は消えてしまう、とまとめます [1] 。 もう一つの柱は、政治の場での人の判断についての観察です。シュンペーターは、典型的な市民は政治の場に入るとすぐ、考える力の水準が下がると書きました [1] 。理由として挙げるのは、直接の責任がないことです。仕事なら、弁護士は長年の訓練と職業上の関心に支えられて事実を吟味します。ところが国の問題になると、同じ人が手間をかけて調べようとしません。直接の責任から来る自発性がなければ、情報がいくら完全でも無知は続く、と彼は言います [1] 。脚注では、ブリッジの卓では課題がはっきりし、規則があり、失敗がすぐ自分のものとして跳ね返るので、政治談義より頭が働く、という比べ方も添えています。国の問題を思いめぐらす私人は「全国民という、働きようのない委員会」の一員にすぎない、という言い方もしています [1] 。 現代の政治哲学も、同じ問題を取り上げています。スタンフォード哲学百科事典(SEP)の「民主主義」の項目は、普通の市民に大きく複雑な社会を治める力があるかを、民主的参加の問題として整理しています。そこでは、ダウンズ(1957 年)が、投票する人のほとんどには、どう投票するのが最善かを知る理由がほとんどない、と論じたことが紹介されています [2] 。SEP は同じ箇所で、大きな社会では一人の票が結果を決める見込みがきわめて小さいことも挙げています [2] 。シュンペーターの観察とダウンズの議論は、理由の立て方は違っても、市民が政治の細部を知らないことを出発点にする点で重なります(本教材の整理)。 日本の事例に当ててみます。総選挙のあと、報道や政治家は「民意」という言葉をよく使います。しかし、同じ選挙の結果を、ある人は「改革への期待」と読み、別の人は「現状への不満」と読む、ということが起こりえます(本教材の作例)。シュンペーターの第一・第二の反論は、まさにこのずれを指しています。一人一人の票は数えられても、票に込められた「意志」が一つの中身に定まるとは限りません。ここから彼は、民主主義を「人民の意志の実行」として定義すること自体をやめよう、と考えたのです。 ここで間違えやすい シュンペーターは「市民は生まれつき愚かだ」と言ったのではありません。彼の理由は、政治の事柄には直接の責任と手応えがないため、判断の質が落ちるという点にあります。仕事の上では鋭い人も、政治の場では同じ鋭さを発揮しない、という観察です。 指導者を選ぶ競争――第 22 章の定義 第 22 章「民主主義のもう一つの理論」で、シュンペーターは二つの要素の順番を入れ替えます。古典的学説では、代表を選ぶことは、人民が争点を決めるという主な目的に従う、二次的なものでした。彼はこれを逆にして、有権者が争点を決めることを、決める人を選ぶことの二次的なものにします。人民の役割は政府を生むこと、あるいは政府を生む中間の機関を生むことだ、というのです。そして、民主的方法とは、個々人が人民の票を求める競争的な闘争によって決める力を得る、政治的決定のための制度上の取り決めだ、と定義します(資料 1 の文 3) [1] 。 有権者 自由な競争の中で候補者と政党を選ぶ 国会(中間の機関) 国会議員の中から首相を指名する 首相と内閣 争点を選び、決定を行う 次の選挙 再選するか、再選せずに退場させる 図 2 シュンペーターの定義での有権者・議会・政府の関係を、日本の議院内閣制に当てはめた図(本教材の整理) [1] [7] 。点線の段は次の選挙で、有権者は受け入れを続けるか撤回するかを決めます。 この定義の利点として、シュンペーターはまず、民主的な政府とそうでない政府を区別する、まずまず有効な基準が得られることを挙げます [1] 。例として、英国のような議会君主制は条件を満たすと言います。君主は、議会が選ぶのと同じ人を閣僚に任命するよう、事実上縛られているからです。これに対して、閣僚が名実ともに君主の僕で、君主が任命も罷免もできる「立憲」君主制は、条件を満たしません。たとえ君主がとても人気があり、選挙民が変化の提案に反対票を投じたとしても、競争を実効的にする仕組みがない以上、定義には入らない、とします [1] 。人民が満足しているかではなく、競争の仕組みがあるかで区別するわけです。 第二に、この定義は指導者の働きを正面から扱えます。集団はほとんどもっぱら指導を受け入れることで動く、とシュンペーターは言います [1] 。第三に、失業者が給付を望むといった集団の意志も無視しません。そうした意志はしばしば長いあいだ眠っていて、政治の指導者がそれを組織し、自分の売り込みの品目に入れたときに、初めて政治の力になる、と説明します [1] 。第四に、この競争は経済の競争と同じく、完全なことはほとんどありません。そこで彼は、民主主義を定義する競争を「自由な票をめぐる自由な競争」に限ります(資料 1 の文 4・5)。軍事反乱による競争は外れますが、不公正な競争に似た例までは外せません。理想の場合と、既存の指導者との競争が力で封じられる場合のあいだには連続した幅があり、民主的な統治の方法は、気づかないほどの段階で独裁的なものへ移っていく、と認めています [1] 。 第五の点は自由との関係です。原則として誰でも有権者の前に出て指導者の座を争えるなら、たいていの場合(いつもではないが)相当の討論の自由、とくに出版の自由を伴う、とシュンペーターは書きます。ただし、民主的方法が、同じ状況のもとで他の方法より多くの個人の自由を必ず保障するわけではない、とも認めています [1] 。第六の点が、選ぶことと対になる働きです。政府を生む働きには、政府を退場させる働きも含まれ、前者は指導者の受け入れ、後者はその受け入れの撤回だ、と言います(資料 1 の文 6〜8) [1] 。 政党の見方も、この定義から導かれます。シュンペーターは、政党を「合意した原理で公共の福祉を進める人々の集団」とみる考えを退けます。デパートを扱う銘柄で定義できないのと同じように、政党も原理では定義できません。政党とは、政治権力をめぐる競争的な闘争で協調して行動しようとする人々の集団だ、と言います [1] 。異なる政党がほとんど同じ綱領を掲げることがある、というのがその理由です。議会が法律をつくるという社会的な働きも、権力と公職をめぐる競争の中で「いわば付随的に」果たされる、と彼は見ます。生産が利潤の追求に付随して行われるのと同じだ、というたとえです [1] 。 日本の仕組みに当てはめると、「中間の機関」の意味が見えてきます。日本国憲法 67 条は、内閣総理大臣は国会議員の中から国会の議決で指名する、と定めています [7] 。有権者は首相を直接選ばず、国会議員を選び、国会が首相を生みます。シュンペーターの言う「政府を生む中間の機関」に当たるのが国会です(本教材の当てはめ)。有権者の一票は、政策の一つ一つではなく、誰が首相を生む多数派になるかを通じて、政府の行方に効いてきます。 ここで間違えやすい シュンペーターの定義は「政策はどうでもよい」と言っているのではありません。政党は政策を売り込みますし、集団の意志は指導者の売り込みに入ることで政治に現れます。彼が言うのは、有権者が政策を一つずつ決めるのではなく決める人を選ぶ、という役割の順番です。 似た考えとの区別――指図・制裁・選挙だけの体制 シュンペーターの定義は、似た考えと混同されやすいものです。まず、この定義は「選挙さえあれば民主主義はうまくいく」という主張ではありません。第 23 章で彼は、民主的方法が成功するために満たされねばならないと自分が考える条件を、四つの見出しにまとめ、近代の大工業国に限って論じました [1] 。脚注では、ここでの「成功」の意味を限っています。一つは、民主的過程が非民主的な方法に頼らずに安定して続くことです。もう一つは、政治的に力のあるすべての利益が長い目で受け入れられる形で、当面の問題に対処することです。成功とはそれ以上のことではない、というのです [1] (表 1) 。 この表で分かること: シュンペーターは、選挙の有無だけでな