国家と市場――政治経済学の問い — Epoché
制度と行動 政策と政治経済 約 28 分 本文 約 12,400 字 図 4・表 2 資料 1 節 この課の要点 市場・国家・関係の 3 つ 市場 市場は自分の利益のための交換と、その積み重なりが生む全体の動きを指す。財を配る形の一つにすぎない 国家 スミスは国家を産業の監督から解き、防衛・司法・公共事業の三つの義務を残した 関係 国家が市場の前提を整え、失敗を正し、福祉国家で補うという三層の図式と、それへの批判がある はじめに 町のパン屋は、夜明け前から生地をこね、朝早くパンを焼きます。店主がそうするのは、何より自分と家族の暮らしのためでしょう。それでも結果として、町の人は朝に焼きたてのパンを買えます。この場面は本教材の作例ですが、誰も全体を指図していないのに人々の必要が満たされていく、という市場の不思議さへの入口になります。 では、パンの値段が急に上がったら、誰が何をすべきでしょうか。店どうしが値上げを申し合わせていたのなら、法が止めるべきだと考える人は多いでしょう。小麦が不作だったのなら、値上がりはやむをえないと考える人もいるでしょう。店の前の道路の補修や、店で働く人が仕事を失ったときの暮らしは、市場に任せるのでしょうか、国家が担うのでしょうか。こうした問いは、身近な暮らしのあちこちに隠れています。 こうした問いを古くから扱ってきた古典の一つが、アダム・スミスの『国富論』(1776)です。この本は、経済学が独立した学問として生まれた「出生証明書」としばしば見られます [3] 。ただしスミス自身は、政治経済学を、政治家や立法者の学の一部門として見ると、という限定をつけて定義しました [1] 。スミスの定義では、政治経済学は治める側の学の一部として語られているのです。現代の議論では、国家と市場の関係は、国家が市場の前提を整え、市場がその枠の中で営まれ、国家が市場の失敗を正して補う、という三層の図式で理解されてきました [3] 。この課の終わりには、この図式に向けられた批判も見ます [3] 。 この課程の『政策評価――効いたかをどう確かめるか』の課では、政策が効いたかを確かめる方法を見ました。この課では一歩引いて、そもそも何を政策の対象とし、何を市場に任せるのかを考えます。この課では政治経済学の問いを、何を市場に任せ何を国家が担うか、国家と市場は互いをどう形づくるか、の二つにまとめて扱います。まず市場という概念を似た概念と区別し、次にスミスの「見えざる手」と国家の三つの義務を原典で読みます。そのうえで、ハーツォクの整理を手がかりに、国家と市場の関係の見方と、市場をめぐる三つの思想の系譜を見て、日本の憲法と独占禁止法に当てはめます。この課の問いは、続く『福祉国家――三つの福祉レジーム』『財政と税――誰が払い誰が受け取るか』『経済と選挙――景気は政権を左右するか』の課の土台にもなります。 この課の問い 何を市場に任せ、何を国家が担うべきか。国家と市場は互いをどう形づくっているのか。 この課のことば 市場 自分の利益のために財やサービスを交換するしくみと、その積み重なりが生む全体の動き。例:町じゅうのパンの値段がそろって上がる 政治経済学 国家(政治)と市場(経済)の関わりを問う学問。スミスの時代には政治家や立法者の学の一部門とされた 見えざる手 自分の利得だけを求める人が、意図しないまま社会の利益を進めることがある、というスミスのたとえ 市場の失敗 市場が効率のよい結果を生む条件が欠ける場合。例:工場の煙が取引と関係のない近所の人に害を与える 公共事業(スミス) スミスが主権者の第三の義務に挙げた事業と施設。大きな社会には費用を上回って償うことがあるが、一人や少数の個人には利潤が費用を償わないもの。例:川の堤防 福祉国家 病気や失業などで所得を得られない人の暮らしを、税や社会保険で支える仕組みを大きく備えた国 国家と市場――何を任せ、何を担うか 政治経済学の問いに入る前に、「市場」とは何かを確かめておきましょう。市場は国家がなくても自然に生まれるものなのでしょうか。それとも国家が整えて初めて成り立つものなのでしょうか。この章では、言葉の区別から始め、スミスの議論、現代の整理、日本の法へと進みます。 市場とは何か――交換・経済・資本主義との区別 日常の言葉で市場と言うと、魚市場や青空市のように、売り手と買い手が集まる場所を思い浮かべるかもしれません(本教材の作例)。ヨーロッパの諸言語で市場にあたる語は、商品を意味するラテン語 merx に由来します [3] 。政治学や経済学で市場と言うときは、場所よりも、人々の取引のしかたとその結果を指します。 リサ・ハーツォクは、スタンフォード哲学百科事典(SEP)の項目「市場」で、市場の概念を近い概念から区別しています。その中心にあるのは交換です。市場では財やサービスの交換が自分の利益のために行われ、関係を築くための贈り物のやりとりとは違う、と彼女は整理します [3] 。例えば、誕生日の贈り物は相手との関係のために贈りますが、店でパンを買うときは、互いに自分の得のために取引しています(本教材の作例)。 ただし市場は、一つひとつの交換より広い概念です。ハーツォクによれば、市場の概念は、多くの交換から生じる全体の効果、例えば物価の全体の水準の変化まで含む点で、交換の概念より広いのです [3] 。一軒の店でパンを一つ買うのは交換ですが、町じゅうのパンの値段がそろって上がるのは、市場の全体の動きです(本教材の作例)。 市場と「経済」も同じではありません。ハーツォクによれば、経済は地域や国の生産と分配の活動を指し、市場のほかに、市場が営まれる法の枠組みや、家計・企業などの組織を含みます。多くの国では、国の部門や官民の混ざった形も経済に含まれます [3] 。また資本主義は、市場を含みますが、社会と経済の体系としてより広く、その決め手は資本の私的な所有です [3] 。市場は資本主義の中心の要素ですが、原理の上では、資本の所有が別の形で組まれた社会にも市場はありうる、と彼女は述べます [3] (表 1) 。 この表で分かること: 市場は交換より広く、経済や資本主義より狭い(ハーツォクの整理) 概念 何を指すか 例(本教材の作例) 交換 自分の利益のための財のやりとり 店でパンを一つ買う 市場 交換と、その積み重なりの全体の効果 町じゅうのパンの値段が上がる 経済 生産と分配の活動。法の枠や組織も含む パン屋の営業の規則や雇用 資本主義 資本の私的な所有を決め手とする体系 店や工場を個人や会社がもつ 表 1 似た概念の区別(ハーツォクの定義から本教材がまとめた。例は本教材の作例) 市場は、財やサービスを人々に行き渡らせる唯一の方法でもありません。ハーツォクが紹介するポランニーの分類では、配分の仕組みは、対等な関係にもとづく互酬、中心の権威が集めて配る再分配、自分で使うための生産である自給、そして市場に分かれます [3] 。ハーツォクは、この分類が、市場は社会で財やサービスを配る形の一つにすぎないことを示すと述べます [3] 。身近な例に当てはめると、お裾分けは互酬に、税を集めて行う給付は再分配に、家庭菜園は自給に近いでしょう(本教材の作例)。 ポランニーは、「市場経済」と「市場社会」も区別しました。市場社会とは、経済が社会関係に埋め込まれる代わりに、社会関係が経済に埋め込まれた社会のことです [3] 。ハーツォク自身は、これをあいまいだが役に立つ区別だと断っています [3] 。市場の価値をめぐる議論の多くは、市場が社会全体の性格にどう影響するか、市場の影響をどこで・いつ・どう限るか、に関わると彼女は言います [3] 。この課が「国家か市場か」の二者択一でなく、「何を、どこまで」を問うのも、この見方に沿っています。 市場を見る目は、学問によっても違います。ハーツォクによれば、例外はあるものの、経済学者はふつう市場を肯定的に見て、個人を主権をもつ合理的な選び手としてモデルにしてきました。社会学者・人類学者・歴史学者は、個人を社会に埋め込まれたものと見て、市場とほかの生活の領域との関係に目を向けることが多く、その多くは資本主義の市場にかなり批判的です [3] 。 ここで間違えやすい 「市場」と「資本主義」を同じものと考えるのは、よくある取り違えです。ハーツォクの整理では、資本主義の決め手は資本の私的な所有で、市場は原理の上では資本の所有のしかたが違う社会にもありえます [3] 。そう考えると、市場を批判することと資本主義を批判することは、必ずしも同じではありません。 見えざる手――スミスが言ったこと、言わなかったこと スミスの『国富論』第 4 編は「政治経済学の体系について」と題されています [1] 。その冒頭でスミスは、政治経済学は人々と主権者の両方を豊かにすることを目指す、と述べます [1] 。スミスによれば、時代と国による富裕の進み方の違いから、人々を豊かにすることについて、商業の体系と農業の体系という二つの体系が生まれました。商業の体系は、スミスの時代の近代の体系でした [1] 。 有名な「見えざる手」の語が出てくるのは、その第 2 章です。この章は、国内で作れる財の輸入を高い関税や禁止で制限すること、つまり国内の産業に国内市場の独占を多かれ少なかれ確保する政策を扱います [1] 。本教材の読み方では、見えざる手の段落は、市場一般の働きを定義した文というより、資本を外国より国内の産業に使う人という場面で書かれたものです。 スミスによれば、国内の産業に資本を使う人は、一般に、公の利益を進めようと意図してもいないし、どれほど進めているかも知りません [1] 。その人が意図しているのは自分の安全と利得だけですが、この場合も、ほかの多くの場合と同じく、見えざる手に導かれて、意図に無かった目的を進める、とスミスは書きます [1] 。続けてスミスは、社会の利益が意図に無かったことは、社会にとっていつも悪いとは限らないと言います [1] 。人は自分の利益を追うことで、しばしば、意図して社会の利益を進めるときより効果的にそれを進める、というのです [1] 。 ここで限定の言葉に注意しましょう。スミスが書いたのは「ほかの多くの場合と同じく」であり、「いつも悪いとは限らない」であり、「しばしば」です [1] 。自分の利益の追求がいつでも社会の利益になる、とは言っていません。実際、第 1 編第 10 章でスミスは、同業者が集まると、楽しみや気晴らしのためであっても、話はまず決まって公衆に対する共謀か値上げのたくらみで終わる、と書いています [1] 。自分の利益の追求が公衆への害になる場面もある、とスミス自身が見ていたと読めます。 では、なぜスミスは政治家の指図を退けたのでしょうか。理由の一つは知識です。自分の資本をどの国内の産業に使えば生産物の価値が最も大きくなりそうかは、各人がその土地の状況の中で、どんな政治家や立法者よりずっとよく判断できる、とスミスは述べます [1] 。私人に資本の使い方を指図しようとする政治家は、不要な気づかいを背負い込むうえ、一人の人にもどんな会議にも安心して任せられない権威を手にすることになる、とも書きます [1] 。 そのうえでスミスは、ある産業で国内の生産物に国内市場の独占を与える規制は、ほとんどすべての場合、無用か有害だと論じます。国内で外国と同じほど安く作れるなら無用で、作れないなら一般に有害だ、というのです [1] 。スミスはこれを身近なたとえで説明します。仕立屋は自分の靴を作らず靴屋から買い、靴屋は服を作らず仕立屋に頼み、農夫はどちらも作らずに両方を頼みます。誰もが、隣人より有利な仕事に力を注ぐことを自分の利益と考えるのです [1] (図 1) 。 仕立屋 靴屋 服を仕立てて渡す 靴を作って渡す 農夫 農夫はどちらも作らず、両方を頼む 図 1 仕立屋・靴屋・農夫のたとえ(スミス『国富論』第 4 編第 2 章の一節を本教材が絵にした)。誰もが自分の有利な仕事に力を注ぎ、ほかの物は買う。 スミスは家族から国へと話を広げます。一つの家族で賢明なことが大きな王国で愚かであるはずはなく、外国が自国で作るより安く供給できるなら、自国が有利な産業の生産物の一部でそれを買うほうがよい、と論じるのです [1] 。この主張は、外国のほうが自国で作るより安く供給できる場合、という条件のもとでの主張である点に注意が要ります。 スミスが政治家の指図を退けた理由は、知識のほかにもあります。SEP の項目「アダム・スミスの道徳哲学と政治哲学」を書いたフライシャッカーによれば、スミスが国家の仕事を限った第一の理由は、役人が防衛と司法のほかの多くを扱う力をもつとスミスが考えなかったことです。またスミスは、政治家は国民全体の利益を心にかけない商人の説得に操られがちだと考えていました [2] 。だからスミスは、統治を商売人の手から遠ざけるべきだとも考え、東インド会社への反対もこの原理によるものでした [2] 。 ここで間違えやすい 「見えざる手」を「市場に任せれば、いつも社会全体がうまくいく」という意味に読むのは、原文から離れた読み方です。スミスは「ほかの多くの場合と同じく」「しばしば」と範囲を限り、同業者の値上げの相談のように、自分の利益の追求が公衆を害する場面も書いています [1] 。 国家の役割――三つの義務から市場の失敗の是正へ では、スミスは国家に何を残したのでしょうか。第 4 編第 9 章の末尾でスミスは、優先や制限のあらゆる体系が取り除かれれば、自然的自由の体系がおのずから成り立つと述べます。そこでは誰もが、正義の法を破らない限り、自分の利益を自分のやり方で追い、勤労と資本をほかの誰とでも競わせる自由をもちます [1] 。主権者は、私人の勤労を監督し、社会の利益に最も適う仕事へ向けるという義務から解かれます。この義務を果たそうとすれば無数の錯覚にさらされ、どんな人の知恵や知識でも足りない、とスミスは言います [1] 。 代わりに主権者に残る義務は三つです。第一は、ほかの独立した社会の暴力と侵略から社会を守ることです。第二は、社会の各成員をほかの成員の不正や抑圧からできる限り守ること、すなわち厳正な司法を打ち立てることです。第三は、ある種の公共事業と公共施設を建